既婚者ヘタレリーマンなのにサキュバスと妻に挟まれて修羅場かと思いきや、もっと大変なことに巻き込まれてます
じゃまいか
1章 肉と少女
第1話
名前も知らない鳥が鳴いている。
梅雨入りを忘れた空は、一足早い夏の日差しを投げかけていた。
「悠真さん、コーヒーいりませんか?」
コンビニの外で一服している僕に、愛梨が声をかける。
空気を含んだ栗色のボブ、ゆったりとした綿レースのワンピース。イメージに違わぬ柔らかい声は、僕の耳にはよく通る。
左手の薬指には、僕と同じセミオーダーメイドのプラチナリングが控えめに輝いていた。
「コンビニのコーヒー、ちょっと濃いからなあ」
タバコをもみ消してコンビニに入る。機械的に冷やされた空気が肌に心地いい。
「悠真さん、甘党ですもんね」
愛梨が微笑みながら、レジ横のスペースでガムシロップを三つ、カップに入れた。
店内には所狭しとスナック菓子や洋菓子が並べられている。愛梨の白い手にも、既にプリンの入ったビニール袋が握られていた。少しおしゃれな喫茶店に入ればいいのに、どうしても車の中でチープなスイーツを食べたがる。
「はい、悠真さん」
差し出されたコーヒーに口をつける。氷でかさ増しされている上に、少し苦み走っていた。
「愛梨は──」
飲まないのか、と聞こうとして、背後に人の気配を感じた。狭い店内でそっと体を避ける。
ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。肩のあたりを絹のような白い髪の房が撫でていく。
思わず目で追うと、赤い瞳と目が合った。外国の少女だろうか、十四〜五歳ほどに見える。日本人離れした色の髪を二つに結い上げ、もみあげは長く残している。まだ幼さの残る顔には不釣り合いな、大胆に背中の開いた黒いキャミソールのワンピースが、露わになったうなじを病的なほど白く浮き立たせていた。
にこりと少女に微笑みかけられて初めて、自分が失礼なほど少女を眺めていたことに気づく。すみません、と謝罪の言葉がつい出て、日本人にありがちなよくわからない愛想笑いを浮かべる。
「 」
少女が何か声を発した、気がした。
「何ですか?」
僕が聞き返すのと同時に──
ブレーキとアクセルを踏み間違えた赤い車両が、コンビニのガラス窓を突き破った。
咄嗟に、愛梨の体を突き飛ばす。ガラスがけたたましい音を立て宙を舞った。愛梨は車両の進行方向から離れたところで尻餅をついている。愛梨は大丈夫だ。それだけ確認して、背後を確かめた。
見えたのは、笑顔だ。赤い瞳が、深い悲しみをたたえてこちらを見つめていた。
少女は微動だにしなかった。暴走する車を見ることすらしない。
分かっている、と。
少女の顔はそんな風に見えた。
──あれ、この子、どこかで。
ぞわりと背筋が凍る。何か、取り返しのつかないことをしてしまった。そんな予感。
車両は一切ブレーキを踏む気配を見せず、店内の什器をなぎ倒しながら、少女の華奢な体を跳ね飛ばしていった。
僕は愛梨の肩を抱きながら呆然と、人々が逃げ惑うのを眺めていた。
救えたのだ。
自分が愛梨ではなく少女を突き飛ばしていれば。
本当は気づいていた。少女が最も危ない場所に立っているということは。
でも、自分は愛梨を選んだ。当然ではないか。愛梨は自分の妻で、愛する人で、何者にも代えがたい。コンビニですれ違っただけの赤の他人となんて比べるべくもない。そういうことなのだ。そういうこと。ただそれだけ──
僕は愛梨を抱きしめて、逃げるように自分の車へ戻った。愛梨はショックを受けた様子で僕にしがみついている。僕は愛梨を慰めるふりをして、平静を保とうとした。
その日、警察の事情聴取を受けてから家に戻ったのは日がとっぷりと暮れてからだった。
ニュースでは先ほどの事故をもう何度も報道している。愛梨は、今日はいいから休むようにと言ったのに、台所に立っている。トントンとまな板を叩く音とアナウンサーの声が交差する。
『次のニュースです。市街地で器物破損が相次いでいる問題で、防犯カメラの映像や付近の住民の証言から、警察は大型の哺乳類の仕業である可能性が高いと結論付けました。体長は三メートル程度と見られており、もし市街地で野生動物を見かけても、決して近寄らず──』
その環境音はいつもの日常じみていて、僕の頭だけが、まだ異常事態から立ち直れていなかった。
え? 女の子が轢かれた? でも誰も怪我人はいませんよ──
警察と救急隊員に口々に言われた言葉だった。事故車両をどかしても、そこにはひしゃげた什器以外に何もなく、もっと言うなら血痕の一つすらも存在していなかった。他の客に尋ねても、あれだけ目立つ外見をした少女に誰も見覚えはないと言う。
愛梨に言わせれば、僕は疲れているのだという。そうなのかもしれない。僕は無理に自分を納得させて、不快なニュースばかりのテレビを消した。
翌日、取引先への営業を終えて、僕はオフィス街を歩いていた。夏になりかけた日差しが僕を突き刺して、頭がクラクラする。クールビズなんていうのは、ただの言葉だ。
自販機で天然水のサイダーを買った。水道水のサイダーとの違いがわかるわけでもないのに、気分だけでも清涼になろうという足掻きだろうか。口に含むと、炭酸で喉がひりついた。
一息ついてサラリーマンの群れに目をやる。自分も群れの一部だというのに、仲間だという感覚は湧いてこない。と。
場違いな白い髪の房が、スクランブル交差点の群れの間から見え隠れしていた。
「……!」
次の瞬間、僕は交差点に足を踏み出していた。トラックが人の波をぬって後ろを通り過ぎていく。いつもなら顔をしかめる排気ガスの臭気に気づくこともなく、僕は少女の姿を求めた。自分が少女を見殺しにしたことへの罪悪感を無かったことにしたい、ただそれだけのために。
人混みをかき分けながら、僕は少女を呼び止める言葉を何も持ち合わせていないことに気づく。
だから、少女がこちらを振り向いた時に、運命じみた何かを感じたのだ。見覚えのある赤い瞳がまだ光を宿していることが嬉しくて、それがただ僕の免罪符のためだとしても、確かに僕は少女が生きていることに感謝したのだ。それは誰かに咎められるようなことではあるまい。
「……どうして」
しかし少女は顔をしかめていた。それで僕は、彼女と僕が友人ではなく、むしろ顔見知りと言えるかどうかすら怪しい間柄であることを思い出した。ただ店ですれ違っただけのこんなオッサン(まだ二十代だがこの年頃の少女からすればオッサンだろう)に追いかけられれば、誰だって不快な思いをする。
「あっいや! その……僕は」
するべき自己紹介すら言葉が見つからず、冷や汗が流れる。店ですれ違った者ですけど? コンビニに車が突っ込んできた時のこと覚えてる? 何から話せばいいのか。
「……ぶ、無事でよかったと思って」
結局、口をついて出たのは脈絡のない言葉だった。あまりのどうでもよさに自己嫌悪に陥る。
「そう」
少女の反応も当然ながら釣れないものだった。ああ、今すぐ消え去りたい。
「それだけなら、早く帰った方がいいわ。でないと」
少女の髪が空気をはらんで膨れ上がった。風も吹いていないのに。
「死ぬわよ。悠真」
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