第38話平穏な日常の終わりと新たな始まり

 穏やかで、ゆっくりとした日常が崩れるのは考えていたより簡単で、崩れる時は……建物が倒壊するかの様に、がらがらと音を立てて崩れるのかと思っていたけれど、まさか忍び寄る様に……そして侵食されるようにゆっくりと、気付いた時にはすぐ側迄近寄ってきていた……-そう表現する方が正しいとは思わなかった。


 リンはルークの腕の中で微睡む様に目覚め、まだ『おはよう』と表現するには憚られる時間帯だが、もう目覚めてしまったからと、起きることにした。


 恥ずかしい気持ちが大分薄れてきてしまったが、一人眠ではないので、ガバッと勢い良く子供の頃みたいに起きる事が叶わなくなったリンは、後ろから囲い混む様に自身のお腹辺りにあるルークの腕を外そうと試みた。


(っっくっ!!…やっぱり外れない!!)


 既に毎日挑んでいるこの無駄な戦いに勝てた試しはない。


(何で外れないのよ!!)


 リンは、何なら縄脱けだって出来るし手錠だって外せる。その気になれば大男だって倒す事が出来る腕前な筈なのに、ルークの腕だけは外す事が出来なかったのだ。


 外そうとするほどに絡んでくる腕にホトホト困っていたリンは、自身を抱き締めて気持ち良さそうに寝ているルークに苛立ちを覚え、奇襲とばかりにいっそ向き直り抱きついて見る事にした。離れようとすればきつくなる腕の力だが、不思議な事に近付こうとすれば途端に緩む。

 案外簡単に向きを替える事に成功したリンはギュッとルークを抱き締めた。

 ルークの胸にすっぽりと収まったリンの顔は、丁度ルークの胸の辺りにあり、ルークが着ているシャツからは、柑橘系のパルファンの良い薫りがした。

 匂い自体は消して強くは無いのだが、ルークの体臭と混ざりあって、リンにとってはアロマの様にとても安心できる香りだった。


(悔しいけれど、美形は匂いも美形なのかしら?)


 リンはちょっとの間、自身にとってのアロマな薫りを堪能してまったりとしてしまった為、危うく当初の試みを忘れるところだった。

 ハッとして顔を上に持ち上げるとルークの体がピクッと反応してギュッと抱き締めてきた。


(これは起きたな……)


 ルークの反応から目覚めたのが解ったリン。


「ちょっと、それは反則でしょ?……危うく理性の箍が外れそうになったよ…」


 頭の上から声がした。


「それはガッチリ嵌めといて、何なら南京錠で鍵でもかけておいて下さいよ。てか、何時起きたんです?」


 ルークを知っているシリウスやアンが聞けば驚いて、物を持っていたならビックリして落とすくらいに衝撃的な事だが、ルークは眠りが恐ろしく浅い。

 それこそ一定の距離に近付けば目覚めてしまうため夜は特に、近寄らない様にしている位だった。

 まあ、護衛は一定の距離を離す為、その分増量して守りは万全にはしているけれど。


 リンと一緒なら深い眠りにつけるルーク。

 リンにとっては、隣で熟睡するルークは見慣れた光景だった。


「リンがあんまり可愛い行動を取るから、目が覚めてしまったよ。おはよう、リン」


 リンの顔を手際よく持ち上げると、ルークは優しく深い目覚めの口付けをリンに落とした。


「ふ………ん!……ぷはっ!!!」


「ははは、ぷはって!!…ああ!可愛い!」


 今度は正面からルークに抱き締めれた。

 その顔が余りにも幸せそうだったからその事には何も言えなくなる。


「目覚めたんなら良いから起きて下さい!!」


 朝に目覚めの一発、雇い主兼恋人を怒鳴り付けた。

 それから、少し経つとコンコンとノックの音が聞こえてきた。

 足音(リンにしか聞き取れない位小さいものだが)からしてシリウスだろう。

 タイミングが良いなあとは思っていたけれどリンの怒鳴り声で、ルークの起床をシリウスやアンが読んでいるとは、さしものリンも気付けずにいた。


「さあ、名残惜しいけれど、シリウスが来たから起きようね」


 ルークはリンを撫でると手早く着替えてシリウス様に声をかけた。


「温かいミルクティの準備を頼む」


 その間も入室をさせないのは、リンの着替えを例えシリウスにでも見せたくはないから。

 リンが着替えたと言っても、髪を整え終わるまでは絶対に人を入れない徹底ぶりはいっそ見事だ。

 リンにもそれが解ったから、手早く頭を三つ編みにして顔を洗い終えた。

 それを見計らったタイミングでシリウスに入室を許可した。

 その間3分弱。

 リンは身支度が早い。ルークも軍人並みに早いし、意外なことに日頃の自身の身支度は自分で行っているのだ。

 どうも他人に触られるのが嫌いらしい。

 舞踏会とか公式のお呼ばれはそうはいかないが、それでも時間を掛けさせない。


「おはようございます」


 シリウスがルークとリンに朝の挨拶をして、無駄の無い動作でミルクティの準備をした。


「おはようございます、シリウス様。すみません、寝坊しました」


 正確にはルークに邪魔をされたからだが、そこは関係ない。


「おはようございます、リン。まだ朝も早い時間です。消して寝坊したと言う時間ではありませんよ?」


 父親の様に優しいシリウス。

 その口調も又優しい。


「でも、現にシリウス様は起きて仕事をされています。アンさんも起きていらっしゃいますよね?」


「ゆっくり出来るときはゆっくりしてください。……出来ない時も有るのですから」


「シリウス………急ぎの案件があるのだな?」


 本来なら早すぎる時間帯。

 それでも入室の許可を願いに来た執事長。


 災いは望んではいなくとも近寄って来ていたのだ。



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