18 花の町
鼻奥をくすぐる甘くて心地の良い香り。黄色い花がそっと揺れている。
花のカーペットを横切るようにくるくると回るスピカが道の先を進む。フードの隙間から覗いた顔は、無表情ながら気分の高揚を感じ取れるものだった。
「ご機嫌だな」
その言葉を聞いた彼女は動きを止めると、とてとてっと軽い動きで近寄ってくる。
目の横を赤く染めたスピカは俺の顔を見上げて、にーっと満面の笑みを浮かべた。
……。おおう、破壊力が高い。
激しく鼓動する心臓を労わるように指で叩くと、動悸を静めようと息を吐いた。
楽しんでいるのは十分に伝わってきた。いつもの無自覚な微笑みではない、あざといほどの喜色から視線を逸らす。
その先には
俺もその場に足を止めると、ゆっくりと胸いっぱいに広がる香りを楽しんだ。目を閉じていても黄色を想像させる良い香り。色が付いているみたいだ。
目を開くと……今になって照れるように、深く被ったフードの端を引っ張るスピカの姿。彼女は小走りで動いたかと思えば、俺の一歩後ろへと身を隠した。
「……花、好きなの?」
「私たち竜人は自然に生きて自然に死ぬことを誇りとしている。自然は仲間。……花は特に好き」
なるほど、このテンションの上がりようも頷ける。彼女の口ぶりから素朴で勤勉な生活ぶりが想像できた。
うんうん頷いていると俺の背をつつく感触。
「行かないの?」
「そうだな。行くか」
言葉の通りに足を進めても辺りの景色はちっとも動かない。正面に見える門、横にある小さな詰め所が徐々に大きくなり、やっと歩いている実感を得た。
「町の中にもこんな感じで花が溢れているし、住人は花を身に着けて生活している。そのお陰かはわからないが、ミエルの町はおおらかな人が多い。……なんだ、スピカも過ごしやすいだろう」
それに、と言葉を続ける。
「泊まろうと思っている宿屋は
どうでもいいが、嫁のほうが狐人族だ。娘も居る。スピカと近い年齢だろう、聞いたわけじゃないから正確な数字はわからないが。
足音もなく、スピカが俺の横にすっと出てくる。
どことなく自信あり気な顔をしてのたまった。
「私はやるときはやる竜人」
「と、言うと?」
「私は
俺よりも頭ひとつ低い所から、胸を張って言われた言葉になんともいえない表情が浮かんだ。
言うてスピカさんよ、パロース村に着いたときも同じような事言ってたじゃんか。
「…………、そうか」
「今の間、怪しい」
「……スピカはちっさい猫みたいで、心配が拭いきれないんだよ」
「むっ。私は竜よ。猫じゃない」
「たとえ話だ、たとえ話。猫って毛を逆立てて威嚇したり、そっぽ向いたり、かと思えばちょっかいを出してくるだろ?」
ほら、まるでスピカじゃないか。
この言葉を聞いた彼女は返事をせずに、いかにも心外といった様子でぷいっとそっぽを向き、また一歩後ろへと下がる。
そういう所なんだけどな、ばれないように小さく笑った。
「町への入り口が近づいてきたぞ。何かあったら今度こそ逃げるさ。だから、気楽に楽しもう」
道の先には開かれた門、その奥には日常生活を送る人々の姿が伺える。
「ねえ、サン」
二本の指でそっと服を摘まれつつ、しっとり濡れた声色で投げかけられた言葉。強い感情が篭っているのが伝わってきた。
「私のことを考えてくれてありがとう。心配させて、ごめん。さんきゅ」
「……おう」
俺までフードを被りたい気分だった。こうも直接言われると、なんだ。むずがゆい。
ぎこちなく手足を動かすと、二人して先ほどよりも少し遅い歩みで門へと進んだ。
「おっ、少し前に訪れた旅人じゃないか」
「その節は世話になったな。また寄らせてもらったよ」
「名前は……なんだったか、スン、ソン。悪い、わすれちまった」
「はは、惜しいな。サンソンだ、サンと呼んでくれ」
「俺はターカー。しがない警備団の一人だ。主に門前の詰所に控えている、覚えているか?」
「しっかり覚えた。役に立つ機会があるかはわからないがな」
差し出された手を握ってしっかりと握手をする。
くたびれた青銅の鎧に身を包んだ番兵、ターカーは文字面からもわかるだろう軽薄な笑みを浮かべている。
「さて、仕事すっか。そこのお連れさんは新顔だしな」
「色々あったんだよ」
「……ふうん。何にせよこの町に金を落としていってくれるなら大歓迎さ」
ターカーは大げさに芝居がかった動作で肩をすくめた。
彼はそのまま詰め所に備え付けられた水晶を手のひらで示す。
「この水晶は手を乗っけた者が犯罪を行う目的かどうか、ミエルの町を害する意識があるかを調べます、っと。さあ手をのっけてくれ。
……二人とも問題はないな。それじゃ、この町を楽しんでくんな。と、言いたいところだけどさ」
緩んだ面を一瞬で真面目な面に戻したターカーは、右手の親指と人差し指で丸を描いた。……前世で見たことのある銭のポーズ。
「……サン、お前、前に来たとき”クランチホーン”の肉を振舞ってくれただろ? あれ、まだ持ってないか」
クランチホーンとは、巨大な角が生えた四足の魔物の名前だ。
クランチホーンの肉はとても美味しい。口に含んだ瞬間にほろほろと溶けるのだが、芯はシャキシャキとした歯ごたえがあり、味も濃厚。魔物の臭みや雑味も感じられない。
この世界の広い地域で目撃することが出来るのだが、幻の魔物と呼ばれている。
生息区域の広いクランチホーンが、何故幻扱いされているかといえば、だ。
はるか昔、穏やかな気質の彼らは簡単に狩ることが出来たらしい。そのせいで人だけでなく、様々な肉食獣から食料として狙われたクランチホーンは、絶滅寸前まで追い込まれた。
その結果――彼らは空へと逃げた。
空を飛ぶ四足の獣。それがクランチホーンの正体。
とびきり警戒心が強く、少しでも敵意を感じたら、空を駆けて逃げてしまう。
……いくら周囲に敏感だとしても、知覚の外から氷を飛ばしたら狩ることは容易。お礼の意識を持って命を頂いております。
俺たちが野営をするときに敷いている毛皮もクランチホーンのもの。
地面というのは思ったよりも冷たい。地べたにそのまま横になっていると、体の熱はどんどん地面に吸われ、底冷えしていく。
空を飛び様々な場所へと移動する性質上、クランチホーンの毛皮は驚くほど防寒性が高い。毛皮一枚敷くだけで、地面の冷気を完璧にシャットアウトしてくれるのだ。
毛皮、肉だけではない。肝は魔法薬の素材になり、一頭狩れば全身余すことなく活用することが出来る。
俺の主だった収入源の一つだ。
「いやあ警備隊の皆でクランチホーンを食べたって話をしたら、嫁と息子に白い目で見られちゃってよ。未だに居場所がないんだ。ここは一つ、悲しい身空の俺を助けると思って融通してくれ!」
両手を合わせる小気味良い音が広がった。
「わかった。ほらよ」
真面目な話かと思った。鼻先で答えると、ポーチから巨大な葉で包んだ肉の塊を取り出してターカーへと渡した。一家で食べるには少し多いくらいの量だろう。
「おーありがたい。お礼に金を……と言いたいところだが、サンには情報のほうがいいか?」
「ああ、助かる。聞きたいことがいくつか有ったんだ」
「なんでも聞いてくれ」
俺の後ろでフードを目深に被ったスピカを見遣ると、数回頷いた。
「まず一つ、町の外について知識の明るい人を教えてくれないか? 次の旅先にふさわしい場所や、獣人について詳しいとありがたい」
「それについては飲み所”ガレスちゃん”が良いだろう。あっこは飲み屋の店主をしているだけあって、色々な話に精通している。場所は紙に
ターカーは口を開きながら、早速洋紙に簡易な地図を書き込んでいく。
「二つ、女物の服はどこで買えばいい?」
マントの下にスピカが着ている服は俺と出会った時から変わっていない。膝を隠している服の裾は擦り切れてしまっている。
旅をする上で一着しかないというのはいざと言うときに困るし、貫頭衣を着続けるならば修繕をしたほうが良い。ほかにも何かと入用だしな。
「そりゃあ大通り沿いにある服屋”ベゴニア”がいいな。可愛い名前をしているけど、けむくじゃらでいかつい男が店主をしている。ま、腕は確かだ」
「三つ、時期はずれだけど、リンカの実を売っている場所に心当たりはないか?」
これは……ちょっと照れくさいけど、スピカとパロース村で交わした約束を果たすためだ。
「それはそうだな。……うーん。サンが泊まるだろう旅亭”まどろみ亭”で聞くのが良いんじゃないか? あっこも物を収納して置ける魔道具を持っているから、持っている可能性が高い」
「ありがとう、助かった。以上だ」
「こんなもんでいいのか? ……肉と対価が合わないな。滞在中何かあったら、すぐ俺に尋ねてくれ。町から出る時もな。不足分しっかり包んで渡すさ」
洋紙を俺に差し出すターカー。
思ったよりも誠実な対応に驚く。簡易な地図が書かれた洋紙を受け取り、感謝の言葉を告げながら、浮かんだ失礼な感想を飲み込んだ。
「それじゃあ中に入っていいぞ。おっと、忘れるところだった。――よく来たな、ここは”花の町 ミエル”。楽しんでいってくれ」
ターカーの言葉に背中を押され、俺たちはミエルの町へと足を踏み出した。
「へへ、へへへ。いやあ美味かったんだよ、クランチホーンの肉。一日の癒しが出来た。頓所の仲間にはわりィが、バレないようにしなきゃな。やったぜ」
……背中から汚い笑い声。締まらない。
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