16 お疲れさま

 燃え上がる火の勢いが強かった焚火もすっかり落ち着き、ゆったりと一筋の煙をあげている。


 辺りには変わらず、雨の音と夜の闇。

 華奢な体から溢れた感情の波に疲れてしまったのだろう。スピカは体育座りのまま、膝に顔をうずめて小さな寝息を立てている。

 彼女が口にした言葉は冷たいものが多かった。辛い、とか。どうしても許せない……とか。

 ほんの少しの例外は、しっかりと俺を見上げて言った言葉。


『私へ痛いくらい心を配ってくれてありがとう。サンがいて、本当に良かった』


「……まいっちまうな」


 小声で呟く。

 ホントまいっちまうね。右手で前髪を掻き上げると、ゆっくりと息を吸った。


「そんな状態で寝ていたら体を痛めるぞ」


 反応はない。

 体育座りのまま器用に寝息を立てている。

 ……仕方ない。膝下に手を回すと、地面に敷いた毛皮の上に彼女を横たわらせた。


 俺もそのまますっきり就寝……とはいかない気分なので、少しだけ酒を飲んでから毛布を被ろうと思ったのだが。焚火の傍に戻ろうとした俺の体はスピカから離れられなかった。物理的に。

 彼女の手が、しっかりと俺の上着の裾をつかんでいる。


「寝ている……んだよな」


 再度小声で呟くも、やっぱり返事はない。

 振りほどくのも気が引けて、音を立てないように腰を落ろした。


 以前訪れた場所で頂いた地酒を取り出すと、陶器に入った酒を指先から出した炎でゆっくりと熱する。雨の音を聞きながら酒があったまるのを待ち、そのまま口をつけて、酒精に溺れることのないように少しづつ口に含んだ。

 ……軽い口当たりに水を飲んだようなすっきりとした後味。うめえ。

 雨の風は肌寒い。だからこそ体の底を暖めるアルコールの火照りが心地よい。


 降り注ぐ雨を肴に、舐めるように酒を傾ける。


 落ち着いた時間だ。心の奥深くが、自然と一体になって、猥雑な人間の問題なんて全部どこか遠くに消え去ったよう。

 ちびちびと酒を傾ける。一人旅をしていた頃は常にこういう雰囲気だった。

 これはこれで良いものだけど、誰かと一緒に旅をするのも、なんだ。……悪くない。

 出発時にスピカへ告げた、見つけた絶景を案内するという言葉。自覚はしていなかったけれど、どうやら俺は思った以上に二人旅を楽しんでいるらしい。

 痒くもないのに頬を指先でかいた。


 酒を飲み始めて一時間ほどたっただろうか。

 なんの気もなしにスピカへと視線を向けると、うっすらと開かれた目と目が合った。


「起きたか。まだ夜だよ、寝直したらどうだ?」

「……」


 返事はなかった。

 スピカはまるで初めて俺の顔を見たかのように、俺をまじまじと見つめる。

 彼女の視線は俺の目から顔全体へと揺れ、やがて、服の裾を掴むスピカ自身の手まで動いた。

 無言で手を離すとぷいっと顔を背ける。焚火の炎で照らされた白い肌は、火の色だけではない、はっきりとわかる赤色。

 うずくまるように顔を下にすると、あーとも、うーとも付かない呻き声を漏らした。



 ……ははあ。色々ぶちまけて照れてるな。

 そんな気にしなくても良いのにと小さな笑みがこぼれた。



 そこまで酔っ払っているわけでもないが、ポーチから酒精飛ばしの木の実を取り出すと口の中に放り込んだ。口の中に広がる苦味と引き換えに、うっすらと感じていた心地よい酩酊が、波が引くように消えてなくなる。


 照れているスピカは、小動物みたいで可愛いけれど、ほうっておくと変な緊張感が残ってしまいそうだ。

 浮かんだ苦笑いを隠そうともせずに漏らすと、ピクリと震えるスピカの体。


「嫌だったら言ってくれ」


 思い出すのは”大口の底”でスピカが俺にしてくれた行動。

 彼女の頭にそっと手を伸ばすと、ぽんっと軽く手を乗っけた。そのままくしゃっと一つ頭を撫でると手を離す。


「なんだ、心の洗濯みたいなもんだろう。俺はスピカの考えが知れて嬉しかったしな、あんまり気にすんな」


 強張る背中に声をかけた。

 俺の言葉を聞いてうつぶせのスピカから再び漏れる不服そうな声。……あれ。俺やらかしたか?


「……もっと」

「ん?」


 鈴の音のような声が転がった。


「もっと撫でて」


 ……無言でスピカの頭をくしけずる。

 指の隙間から抜ける彼女の髪の感覚。俺のごわついた癖毛とまったく違う、指に引っかからないサラサラとした髪。小さな頭の端々に付いた角が、俺の手にこそばゆい刺激を届けた。


 スピカの頭が俺の手へと押し付けるように僅かに動いた。

 髪の隙間から見えた彼女の耳や頬は、濃い紅色に染まっている。

 それを見た俺の顔に、一気に熱が走った。まるで焚火に当てられた気分だ。


 これはまずい。

 今までとは違う、決定的な何かの引き金を引いてしまった感覚。


「……っん」


 喉奥に突っかかるように漏れた、スピカの吐息。

 それを聞いた俺は、今度こそ撫でる手が止まる。


「終わりだ」


 まるで俺以外の誰かが喋ったかのような、自分でも聞いたことのない声色だった。

 最後にぽふっと軽く頭を撫でる。


 無言。

 俺とスピカの間に広がる音は雨音のみ。

 ゆっくりと深呼吸をする。冷たい風を取り込んで頭を冷ますんだ、俺。

 ……緊張感を取っ払うはずだったのに俺まで気恥ずかしくなってどうすんだよ。少しだけ冷静になった頭に浮かんだ突っ込みを口の中でかみ殺す。


「……なあ、晩飯、食べてないし。飯、食べるか?」

「……頂きます」




 ■




 少しだけ口数の少ない食事の後。

 白湯を飲みながらスピカへと視線を向けると、スピカも俺へと形の良い瞳を向けている。


 大げさに眉をしかめると、唇を笑みの形に動かした。


「パロース村ではお疲れさま。スピカも俺も、本当におつかれだ」


 そう言い大げさにため息を吐くと、俺の抱いた小さな気恥ずかしさも一緒に口から漏れて溶けたようだった。

 ポーチの中身をごそごそとまさぐる。

 俺は再び地酒とお猪口を取り出すと、続けて沢山の果実を混ぜたジュースとカットフルーツ、砂糖をふんだんに使った贅沢なお菓子などを取り出す。


「せっかくだから二人で、ちょっとしたお疲れさま会でもしよう。色々あったからな。……雨が降っている中でってのも、雰囲気があっていいだろう」


 彼女は無言で立ち上がると、俺のすぐ近くへと座った。ふんわりと優しい香りが広がる。スピカはそのまま地面においていた地酒の陶器を手に取り、俺の顔を見てかすかに首を傾げた。どことなく悪戯気な笑顔を浮かべている。

 酌をしてくれるらしい。

 今までにないほど近い距離だというのに、俺の心は不思議と落ち着いたままだった。


 小さなお猪口を差し出すと、雨の音にまぎれるように、酒の注がれる小さな音。


「サンキュ」

「さんきゅ?」

「ありがとうって意味だよ」

「どういたしまして。私もさんきゅ」


 さんきゅ。……さんきゅ。

 カタコトで間の抜けた可愛らしい響きに、じわじわとした笑いが込みあがる。

 何故俺が笑っているのか不思議そうに首を傾げるスピカの姿に、余計に笑いの波が迫るのだった。


 そこから俺たちは、夜が更けるのも気にせず沢山の話をした。




「そのジュース、どうだ? 美味いか?」

「……不思議な味。今まで飲んだことがない」

「だろうさ。”夏の太陽のような味”ってうたい文句で売り出されていて、気になって買ったんだ。……自分じゃ飲む気しなくて、スピカに飲んで貰った。悪いな」

「ひどい! でも、不思議と美味しいから文句は言えない……」


 スピカは複雑そうな顔をする。なんだ、美味いのか。なら自分で飲めばよかった。

 俺の言いたいことを察したのだろう。隠すようにジュースを両手で抱くと、じっとりとした目で見つめられた。




「私は幼い頃から勉強ばっかりで、”悪魔の大口”の底のような景色は見たことがなかった。旅って、良いものね」

「だろう、だろう! 旅はいいぞ。最高だ。その雰囲気を楽しめるのなら、きっとスピカも良い旅人になれるさ。……ただ、風に吹かれる落ち葉のような生活は、安定もないから大変だけどな」


 金とか。信頼とか。命の危険とか。

 ネガティブなことは言いたくないから言わないけど。


「悪魔の大口の景色を楽しんだのは、きっと俺とスピカだけだぞ。最高だよな」

「――うんっ!」




「お酒って美味しいの?」

「……そうだな。美味しいし、楽しい。

 だけど、付き合い方は考えたほうがいい。酒での失敗談がある。旅をしている最中、最高の景色をツマミに酒の楽しんでいたら悪酔いしちゃって」


 白目を剥いて、ぐったりと地面に倒れこむジェスチャー。


「あの時の俺は地面と一体化していた。そんなときに魔物に襲われてさ……! 酔っ払った意識じゃ魔法なんて使えないし、魔法の使えない魔法使いなんてよちよち歩くコガネムシよりも弱い。死を覚悟したよ」

「どうなったの!? 怪我とか大丈夫だった?」

「ああ。そこは地元の民がよく来る場所で、親切な人が助けてくれた」

「本当によかった」

「酒で息抜きどころか虫の息ってな。……すまん、忘れてくれ」

「……」

「やめろ! そんな目で俺を見るな!」


 つまらない事を言ってすまんかったよ! チクショウ!




 ……空の果てに白い色が混じった。うっすらと明け始めた空、依然として分厚い雲が横たわっている。

 会話もひと段落し、スピカの口に浮かんだ大きなあくび。


 ふわ……と始まり、口を大きく開いた。

 小さな吐息とともに口は閉じる。


「そろそろ寝るか。すっかり話し込んじゃったな」


 この言葉を聞いたスピカは、俺の足元に敷いていた毛皮に丸まり込んだ。


「どうした?」

「……私は寝ている。もう寝ている」


 そして毛皮をぽふぽふと叩く。

 ……俺にどうしろと。いや、言いたいことはわかるが。


「いや、それは……」

「今日だけ。甘えさせてほしい。……だめ?」


 なんと答えるべきか迷っていると、ぽふぽふと毛皮を叩く手がだんだん強くなり、ぼふぼふという音に変わる。

 ちょっと面白くなって無言で見つめた。

 竜人の力で地面を叩く音は段々と洒落にならなくなり、ドンドンという鈍い音になる。振動によって辺りの木々の付ける葉から、水滴が凄い勢いで落ちた。

 いやこえーよ。


「今日だけだぞ。俺のことも考えてくれ。いいか、俺だって男なんだからな」


 ……スピカは顔を隠すように毛布で全身を覆った。今さらになって自分が何を言ったのか自覚したのだろうか。

 おう、せいぜい恥ずかしがるがいい。

 狭い毛皮にゴロンと転がると、俺もポーチから毛布を取り出して被った。

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