15 雨降ってなんちゃら

 見上げた空は、深く落ち着いた青色だった。


 気持ちのよい陽光はその所々を雲にされながら、目の前の行路を明るく照らしている。

 視界の端、この場から少し離れた空には霞がかかっている。……ちょうど、俺たちが抜けてきた”ささやきの森”の上空だ。


 良いね。絶好の旅日和だ。

 少しの間目を閉じて朝の香りを楽しんだ。


 俺の目の前にはラークの姿。右手にはフードを目深に被ったスピカ。


 ――人生は出会いと別れで出来ている。そんな言葉が頭を過ぎった。

 続く言葉は、『気持ちよく別れられるようにつとめめなさい』。

 この台詞と『挨拶だけはしっかりとするように』は、前世での両親から耳にたこができるくらいに言われた。

 中々どうして、この世の真理だ。


「……本当に、もう旅に出るのか?」

「ああ」

「もう少しゆっくりしていっても……。あと数日したら村も落ち着くだろうし、感謝も込めて盛大に宴を開こうと村長とも相談していたんだが」

「気持ちだけ貰っとく。騒動を起こした人が居たら、落ち着くものも落ち着けないだろうよ」

「そりゃ、全部を否定はできないけどよ」


 そもそも村を助けることを目的とした行動でもないしな。そんな俺たちが謝辞を受け取るというのも変な話だ。

 これはラークには言い辛いが、”大口の主”とコンタクトを取れる存在として第二のタナトスみたいに祭り上げられるかもしれないし、大口の主自身も俺にとっちゃ問題ある代物。深く突っ込まれてボロが出たら目も当てられない。

 ……不本意だが、口調の問題もある。


 とにかく、これ以上はただの旅人には過ぎた領域。

 日が明けたらこの村を発とうと、スピカと相談して決めていた。


「おい、絶対にまた来いよ! 今度はこの村の名物料理を村人総出で作るからよ!」

「はは、楽しみにしてる。じゃあな。――行くか、スピカ」


 ひらひらっと手を振るとその場に背を向け歩き出す。スピカの立てる、俺のすぐ後ろを付いて来る軽い足音が響いた。


 ……ラークにはああ言ったが、実はしっかりお礼以上のモノを貰っている。

 それは、”悪魔の大口”で過ごした一晩。


 大口の底を堪能した人は、世界広しと言えど俺とスピカだけだろう。あんな出来事でもなかったら悪魔の大口には入れなかったに違いない。

 何にも変えられない大切な経験だ。


 残念なことに、そう美味い話ばかりではないのだが。

 目下もっかの目標だった食料や竜人の情報は手に入れることが出来なかったし、随分と慌だしく落ち着かない滞在となった。

 俺のすぐ後ろをついてくるスピカへと振り向く。


 いつの間にかフードを外しており、太陽の光を受けて煌々と濡れそぼる銀の髪が露になっている。

 俺の視線を受けてふんわりと首を傾げ、髪がさらさらと揺れ動いた。


 何よりも大変だったのは彼女だろう。タナトスに傷つけられただけではない、故郷を人間に滅ぼされてしまっている。そんな来歴を持つ彼女に、俺は何か出来ているのだろうか。

 無言で見つめる俺に驚いたのか、きょとんと目を丸く、幼い印象の表情を浮かべる。


「次の行き先は……ミエルの町、という場所だっけ?」

「そうだ。きっとスピカも楽しめると思うから、楽しみにしているといい」


 ミエル。フランス語で”蜂蜜”という意味を持つ。

 ゲームでも登場した舞台の一つで、村というには大きく、町というにはこじんまりとしている。そんな場所だ。

 昨夜のうちにスピカと相談していた、次の行き先だ。

 俺がパロース村へ来る前に寄った場所でもある。


「言い忘れていたけど、ミエルで名物料理のチーズを出されたら気をつけたほうがいい。そのチーズはな、中に羽虫の卵を植えつけて発酵させているんだ。幼虫の触感や香ばしいチーズの香りを楽しむらしいけど……俺は一口で限界だった」

「人間って凄いのね……」


 なんともいえない、声色。

 ……ミエルの人たちに物凄く失礼だけど、人間というくくりにその食べ物を入れないで欲しい。

 ああ、そうだ。


「ここへ来る前にちょっとした絶景を見つけたんだ。せっかくだから、そこへ寄って行ってもいいか?」

「わかった。楽しみにしてる」


 彼女は俺の目を見て、口の端に、笑み。細められた目には混じりっ気のない期待の感情が浮かんでいる。


「……おう」


 随分、豊かな表情を俺に見せてくれるようになった。その事実になんとも気恥ずかしくなって、スピカから目を逸らすと空を見上げた。




 ■




 ――雨の音で満ちていた。


 聞こえるのは雨音と、遠くから聞こえる梟の声。

 見上げた空には分厚く敷き詰められた雨雲ばかり。時刻は夕暮れだというのに、辺りはすっかり薄暗い。


「あちゃあ……こりゃ、一晩中止みそうにないな」


 出発時には晴れ渡っていた空も、時間の経過とともに雲が増えて、今では気分も落ち込んでしまいそうな土砂降りだ。


「今晩はここに野宿だな」


 手に氷で出来た杖を作り上げる。

 そのまま数歩歩き、道から少し離れた地面にガリガリと魔術印を彫る。複雑な文様を掘り終えると同時に魔力を流し込んだ。

 ぶわっと膨れ上がる魔力の膜。

 俺たちを包み込むように膨れ上がったその膜は、お椀をひっくり返したような形で安定した。

 雨よけの結界だ。

 自動的に濡れた地面の水分もはじいて乾かしてくれるため、寝場所にも困らない。


「ふいー、これで一息つける」


 体に清潔クリーンの魔法をかけると、雨水も乾いて不快感も一掃。なんとも生き返った気分である。

 その場に手早く火を起こすと焚火の横にどっかりと腰を下ろした。濡れて冷えた体に炎の熱が心地よい。

 この結界の優秀なところは、火を起こしても空気が篭らずに、安心して火を使用できる事だ。


「大丈夫か? 風邪とかひいたら大変だ。すぐあったまるといい」

「……ありがとう」


 そのスピカはといえば、彼女の体をすっぽりと覆い隠していたマントが外され、頭貫衣一枚になっていた。

 雨に濡れたせいでぴっちりと張り付いた頭貫衣が体のラインを浮かび上がらせている。いくら魔法で乾いたとしても、薄い布はしっかりと濡れた状態を保っていたらしい。

 すぐさま目線を外すと、ポーチから毛布を取り出し、スピカへと投げ渡す。そのまま自分の胸元をちょいちょいと指差した。……これで伝わってくれ。

 彼女はうっすらと目の端を赤く染めると、ぐるぐると毛布を体に巻きつけた。


 スピカは体に毛布をまいたまま、俺のすぐ近くに腰を下ろす。


 ……近い。距離にして握り拳二つ分だろうか。

 なんとも尻の収まりが悪く、置き所を探してもぞもぞと動く。

 結界を叩く雨音にまぎれそうな声で彼女は呟いた。


「――雨の日には両親が付きっ切りで、よく、勉強を教えてくれた」

「……良い、ご両親だったんだな」

「……さみしい」


 言葉を返しつつ、俺は胸の中を駆け巡る感情が漏れないように押さえ込むのに必死だった。パロース村に着いた際、唸り声に驚いた姿を俺に見せただけで顔を真っ赤に染めたスピカが、そんな彼女が、弱音を俺に吐いている。


 スピカの両手は、白い肌をさらに白くするほど強く握られていた。

 たった四文字の言葉になんと言っていいかわからず……俺は結界を見上げた。結界には、ただただ機械的に落ち続ける水の粒がぶつかり、弾けている。


 雨の音しかしない。


「さみしい」


 再び告げられた言葉。きっと、明確な答えを求めた言葉ではないのだろう。

 それでも、何か言わなくてはという感情に従って口を開いた。


「……俺の両親も、な。俺がちっさい頃に亡くなったんだ。魔物に襲われて、一瞬だったらしい」


 それは今世での話。

 血を分けた者が亡くなる感覚は、言葉にならないほどに強い衝撃だった。

 そのお陰……というか、そのせいで前世での記憶が蘇ったのだ。その時は大人としての自我があるだけに、未来への見通しの立たなさに白目をひんむくほど絶望していたよ。懐かしい。

 心に余裕を持てた時――この世界に地に足を付けたとき、全面に広がるファンタジーに手放しで喜んだのだから、我ながら筋金入りというかなんというか。


「孤児院に送られた俺は黙々と魔法の鍛錬に打ち込んでいた。……趣味と実益を兼ねていたのは決して嘘じゃないし、途中から実感できるようになった上達をどんどん楽しんだのだけど」


 そこには、子供の身には過度な自己鍛錬を黙々と続ける俺を止める人は居なかった。


「一番良くなかったのは、きっと、辛いという感情を誰にも言わなかった事。弱音を吐けなかった俺の中で、どんどん嫌な感情が膨れ上がっていた。だからさ」


 ゆらゆらと揺れる炎をじっと見つめながら、言葉を訥々とつとつと重ねる。


「スピカが弱音を吐いたこと、安心した。お前はきっと大丈夫だ。俺が保証する。……俺には言葉を聞く事しか出来ないけど、真剣に聞くからさ、吐き出してくれよ」


 ぽつり、ぽつりと雨音のように漏れる彼女の言葉。

 ……雨後うごのように、きっと、スピカの心も晴れる。なんてのは流石にカッコ付け過ぎだろうか。

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