10 底

 嫌に火照った体を冷ますように俺の体を風が通り抜ける。

 ”悪魔の大口”の中を降りていた。足元に氷を出現させ、それを足場にジャンプしながらどんどん底へと進んでいる。

 まるで昨夜の再現だ。向かっているのは地上ではなく地の底だが。


「……大丈夫か?」


 返事はないが、スピカはこくりと頷いた。体に振動が伝わる。


「ごめんな、嫌な思いさせちゃったな」

「……やっぱり、色々な人がいるんだね」


 薄暗い洞穴の中、スピカが小さく囁く。ぼんやりと、やっぱ良い声してるな。そんなことを思った。

 彼女の表情はよくわからない。


「また、助けられた」

「それは、そもそも……俺がこの村に来ようと言ったから」

「ううん」


 一拍の間。


「貴方は悪くない。それに、貴方一人だったら観光できていた」

「……わからんぞ」


 タナトスに腹を立てて問題を起こしていたかもしれない。

 くすりと笑う声。


「そうね。貴方は……サンソンは、ううん、サンは良い人よ」


 初めて呼ばれた名前に心臓が強く波打った。

 相変わらず顔色を伺い見ることはできない。しかし、今までと何かが違う声だった。まるで言葉に重みがあるように、俺の心の深いところにストンと落ち入る。

 不思議な感覚だった。

 嫌なものでは、ない。


「……まあ、悪い人と言われたくは、ないな」


 なんといっていいかわからず、搾り出したは返事は、我ながらどうかと思うものだった。

 ……ああ。一つだけはっきりとしていることがある。


「俺たちは悪くない。悪いのはタナトスだ」


 ラークの姿を思い出す。彼は搾り出すように「アイツは悪魔だ」といっていた。

 先ほど見た村人たちの姿も思い出す。半分くらいは心酔している様子だったが、半分は顔色を伺うように愛想笑いをしていた。

 なんかあるんだろうな。今日来ただけの旅人にはわからない何かが。

 きっと繊細な問題なのだろう。

 だけど、そんなことは知った事ではない。

 スピカを抱く腕に少しだけ力が入った。ああ、どうでもいいとも。


「ちょっと痛い」

「すまん」

「……うん、痛いけど痛くはない」

「……どういう事だ? わからん」


 なんだその言い回し。竜人ドラフ特有のものか?

 くすりと笑う声。


「サンは悪い人じゃないなって。また、助けてくれて……ありがとう」

「……おう」


 俺の口から出た返事は平坦なものだった。なんつーか、気恥ずかしくてしかたない。

 だけど、不思議と口を開くのも気が引けて、二人して口を開かずに無言の時が続く。


 軽い足音を立てながら、ゆっくりと悪魔の大口を降りる。

 上を見上げた。

 俺たちが入ってきた穴はすっかり点のようになり、その微かな明かりも夜の黒に置き換わろうとしている。随分と深いらしい。


 黒。

 夜の、黒。

 悪魔の大口の、黒。

 光りの届かない影の、黒。


 ほのかに光る俺の魔力光。


 濃い闇が薄い闇になった。作られる影は俺たちの存在を確かなものとする。不確かな明かりでもあるとないとでは大違いだ。


 ヒュウ、ヒュウと音を立てる風。体に流れる風はどんどんと冷たくなってゆき、そして、俺の脚は地面を踏んだ。




 ■




「よっ、と」


 ポーチからあかりを放つ、月光石という名前の魔道具を取り出す。

 月光石は魔力を流すことによって起動し、その魔力に反応して自動的に浮遊し後を付いてくるという優れものだ。

 バレーボールほどの球体で、表面には隙間がないほどびっしり魔法の術式が掘り込まれている。今は暗くて見えないが、半透明の球体の中でゆらゆらと液体のような何かがたゆたっている。

 ザ、ファンタジーだ。こういうの堪らないよ。大好き。

 焚火のような炎と違って熱を発さないのは一長一短。こういう場面で両手を使えるのは大助かりだ。

 旅をする上での必需魔道具その二だろう。その一は当然マジックポーチだ。


「明りをつけるぞ」


 スピカにそう告げ、道具に魔力を流した。

 煌々とした明りが辺りを照らし出す。


「……きれい」


 吐息のように呟いたのはスピカだ。

 俺も――返事を忘れてその空間を見つめていた。目の前の景色に、ただただ圧倒されていたのだ。


 ここは巨大なドーム状の鍾乳洞だった。

 ただの鍾乳洞ではない。いや、鍾乳洞といっていいかすらわからないだろう。


 篠突く雨のような石たちは全て水晶で出来ていた。

 月光石から不規則に揺れる灯りが届けられ、ゆらゆらと光の中で輝いている。一瞬たりとも同じ景色にはならない。


 俺たちが今いる場所を囲むように地底湖があり、そこからこんこんと魔素が湧き上がっている。キラキラと明滅する光はまるで湖畔に夜空をとかしたようだ。

 小さな水のせせらぎ。ドームを走り回る風の音。たゆたう光。

 人では絶対に作り出せない光景。

 寒いわけでもないのに体が震える。いっそ暴力的とすら言ってもいいほどに綺麗で、現実離れしていた。


 そして目の前、視界の中央。

 魔力が形として現れた、結晶が鎮座していた。

 本来ならば半透明のはずのそれは――目を見張るほど透き通った緑色をし、森で見かけたものとは比較にならないほど大きい。


 ああ、良かった。あった。


「スピカ、これだよこれ。この結晶が唸り声の正体だ」

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