08 パロース村

 心地の良い斜陽が道を染め上げていた。

 西日のさす空には綿菓子のような雲がゆったりと形を変えている。とげとげした葉をつける樹木が道なりに連なり、家畜なのだろう、柵で囲まれた巨大な四足の動物がのそのそと草を食む姿が見えた。道の脇には風を受けてくるくると回り続ける風車、そして遠目に見える木材で作られた家々。

 自然と人間の力が生んだ、壮大で規則的な光景。

 ささやきの森の鬱蒼とした雰囲気は消え去り、代わりに人の営みを感じられる暖かい雰囲気に包まれた。


 うーん、牧歌的だ。

 道の奥に見える場所こそが――パロース村なのだろう。


「おつかれさん、無事についたな」

「……ええ」


 答えるスピカの声は少し硬い。

 人間の住処、スピカにとっては敵地に単身で突っ込むようなものだろうか。


「大丈夫か?」


 声をかけながらスピカを見る。


「舐めないで。旅について行くことを決めたのは私。大丈夫」

「……そうか」


 勇ましく頼りがいのありそうな言葉だが……。

 実際は右手と右足を同時に出し、ガチガチに体を強張らせながら言った台詞である。

 今晩は村で一泊するつもりだったが、この様子だと村はずれに二人でキャンプしたほうがよさそうだ。今晩くらいは硬い地面から離れて寝たかったんだが、諦めよう。



 "グヴヴヴオオオォォォォーー――――…………。"



 突如、腹のそこにびりびりと響くような低いうめき声が響く。

 長閑で素朴な景色からは想像もできないようなその音は、まるで俺たちの来訪を咎めるようだった。


 これが悪魔の呻き声。


 驚くよりも先に感じたのは強烈な違和感。既視感と言い換えてもいい。眉間に皺を作り注意深くその音を聞く。

 ……聞き覚えがある。どこだ。俺はどこで聞いた?


 幾重の音が折り重なり、体を震わせるようなその重低音。まるで命あるものが発したとは思えない無機質な、それでいて質量のある音。

 さび付いた記憶の奥底から喉まで既視感の正体がせりあがってくるも――。


「……」


 思考が途切れる。

 瞬時に傍に寄ってきたスピカが人差し指と親指できゅっと俺の外套の裾をつまんでいた。その手からは微かに震えが伝わってくる。

 スピカと俺の目があう。

 音に驚いた、咄嗟の行動なのだろう。

 ぱっと手を放す。じわりじわりと頬に差していく赤、下がった眉尻、潤む瞳。口をへにょりと歪ませると、うっすらと滲む涙。

 怒以外の表情に乏しいスピカが恥ずかしさを前面に出していた。

 その表情に思考が停止する。


 ――何か、何か言わなくては。


「う、うわあ、びっくりした。な、びっくりしたな」


 自分でもビックリするほどわざとらしい声が出た。フォローしようと思ったのだが、俺に演技の才能はなかったようだ。

 ぼふん。そんな擬音すら浮かぶ勢いで、スピカの白い肌が首筋まで真っ赤に染まった。

 ……なんというか、すまん。追い討ちをかけてしまった。

 スピカは瞬きするほどの早さで俺から距離をとると、フードを深く被る。


「……行くか」

「……わかった」


 先ほどより少しだけ開いた距離で俺たちは歩き出す。

 そんな俺たちの間を通りぬける家畜の気の抜けた鳴き声。彼らは悪魔の呻き声なんて聞き飽きたのだろう。ンモオオオーー……と牛じみた鳴き声をあげながら草をもっしゃもっしゃ食べていた。


 その家畜の様子を伺う一人の男の姿。

 移動する俺たちに気がついたのだろう、小走りで走りよってくると俺に声をかけてきた。


「なんだ? 荷物がないが……行商人か? こんなところまでご苦労だな」


 男は首から下げたタオルで、額に浮かんだ汗を拭った。

 年齢はいくつくらいだろうか。俺たちを見て快活に笑う笑顔は少年のような印象を受けるが、額に刻まれた深い皺は年齢を感じさせる。


「ああいや、旅人だ。悪魔の大口のうわさを聞いて足を運んできたんだ。一度見てみたいと思ってな」

「……そうか。変わった人たちだな。にしても」


 そういうと俺と、男の視線から隠れるように俺の背中にぴったり寄り添ってきたスピカへと視線が動く。


「夫婦か? それにしちゃ身長に差があるが……。兄妹には見えん」

「旅の連れだ。縁があってな」

「そういうのもあるんだな」


 彼はそういいながら無精ひげの生えたあご先をしきりに撫でる。


「俺の名前はサンソン、サンって呼んでくれ。貴方の名前を聞いてもいいか?」

「ラークだ。よろしく」


 差し出された右手に、俺も手を差し出すと握手を結ぶ。……皮が分厚く硬い手のひらで、指の下にはタコがある。剣ダコだろうか。

 俺の反応に気が付いたのだろう。ラークは、


「あー、昔はそれなりに名の知れたハンターだったんだぜ? これでもな。だけどよお、気を抜いたところでサンドマンっつー魔物にやられてな。パロース村の人が俺を救ってくれた」

「災難だったな、今こうやって喋ることができてよかった」

「はは、言うじゃねえか。その通りだ。命があってよかった」


 ラークはそういうと俺の右肩を軽く叩いた。


「……わざわざここまで悪魔の大口を見に来た、んだよなあ」


 彼は歯に物が挟まったような、もどかしい口調で口を開いた。

 腕を組み、つま先で地面をカツカツと掘る。そして重々しく一つ頷いた。


「村には好き勝手はいっていいだろう。道なりに進んだら見えてくるはずさ。なんか言われたら俺の名前を出してくれ。ただ」


 辺りを見渡すと、小声で俺とスピカに囁いた。


「司祭服に身を包んだ男――タナトスって野郎にはくれぐれも気をつけるんだ。アイツこそが悪魔だ」


 ラークは顔一面に苦渋を浮かべると、やりきれなさそうにため息を吐いた。


「なぁに、ビビらせちまったかもしれねえが、旅人にどうこうはしないだろうさ。

街道を歩いてきたなら知っていると思うけどよ、昨夜森で爆発があった。多少村人も気が立っているところがあるから気をつけて損はない」


 ニカリと人好きのする笑顔を浮かべる。


「村長に言えば行商人が泊まる場所を貸してくれると思う。そら、日が暮れる前に挨拶くらいはしておいたほうがいいぞ。気の良い人だから安心しな」


 そういい、村のほうを指差すと俺たちを快く送り出してくれた。





 しばし、二人の歩く音だけが響く。

 空を見上げる。

 ゆったりと流れる雲。小さな鳥の影。橙色の太陽。


「……なあ、スピカ」

「うん」

「やるじゃんか。すごいよ。スピカは人へと襲い掛からなかった。俺が認める。お前は凄いやつだ」

「……うん」

「おう」


 フードを下ろすそぶりをまったく見せず、会話に参加しないスピカへ中には悪い気分を見せる人もいるだろう。気にする素振りすら見せないラークはカラカラとした気の良い人だった。

 ……それにしても彼が忠告したタナトスという男、どんな人なのだろうか。


「さっきラークも言っていたが、泊まる場所、村の隅でまたキャンプすっか」

「……うん」

「ごめんな。もしかしたらめんどくさいことになるかもしれない。そん時は俺がなんとかする」

「…………うん」


 彼女の、スピカの返事はくぐもり、湿っている。

 でも、きっと、悪いことではないのだろうな。漠然とそう思った。

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