第28話 灼熱の水来
震える大地、引き裂かれる岩の空。
天と地の
六角町遺跡の断末魔の光景は、地獄絵図と呼ぶにふさわしいものだった。
しかし、そこに取り残された三人の人間は、この惨状に何ら関心を示さない。
『私と
水来と恋と終。
三人の意識は、紅いブローチから流れる女性の声にのみ、傾けられている。
『重要なのは、魔獣に占拠された病院から、息子を連れだすことができなかったことだけ。こうして六角町の自宅に戻れた
「ち、違うよ。母さん」
水来が息も絶え絶えに口を開く。
「母さんは俺を守ろうと必死にやってくれた。誰も母さんを責めたりはしない」
『暮さんは心配ないと言ってくれました。あの頑強な容器に入っている限り、魔獣たちは水来に危害を加えることはできないと。そして、長い年月の末に、自然とあの子は目を覚ますだろうと』
「それにしても、この暮さんって人……。いや、まさかな。そんな偶然がある訳がない」
終が独りブツブツと呟く。
『初めにも言いましたが、これは誰かに向けて残されたメッセージでは無いのです。これは、愚かな母の独り言の懺悔に過ぎません。う、ううう』
母が、呻くように泣き出した。
『許してちょうだい、水来。私の愚かさが、あなたに過酷すぎる運命を用意してしまいました。文明の滅んだ世界で一人目を覚ましたあなたに、どれほどつらい運命が待ちうけるのか。想像するだけで胸が張り裂けそうです。ぐっ!―――』
ブローチから物が倒れる音がした。
「か、母さん?」
『ど、どうしたのかしら? さっき、半透明の蝶に触れられてから、奇妙な眠気が押し寄せてきて……』
「「半透明の蝶!?」」
恋と終が顔色を変えた。
「二人とも心当たりがあるのかい?」
「あ、ああ。モンシロチョウをベースに改造された魔獣・
「むかしはナット村付近に生息していたんだが、当時の戦闘班に根絶させられた。……極めて致死性の高い猛毒を持っていたためにな」
恋は、その残酷な事実を、水来の目を見て告げることはできなかった。
「も、猛毒! それじゃ母さんは」
「ま、苦しむ類の毒じゃない。むしろ安楽死に用いられるほど、穏やかな毒だ。睡毒と呼ばれて、二度と醒めない眠りに、穏やかに導いてくれる」
口下手の終なりに、どうにかフォローを試みる。
「か、母さんが死ぬ!?」
自分の母の死は、遥か過去の確定事項だと、水来ももちろん頭では理解はしている。
しかし、録音とは言え、瀕死の母の様子を耳にして、平静でいられるわけもない。
「ダ、ダメだ。死なないで。お願い、お母さん」
水来が涙ながらに懇願した。
『水来。万が一、なにかの奇跡が起こって。このブローチがあなたの手元に届いているのなら。私は一つだけあなたにお願いがあります……』
母の声から、しだいに生気が失われていく。
そのことに水来はただ恐怖した。
『私の最後の願い、それは――』
ヒュン、と風切り音がした。
紅石がはめ込まれたブローチが、木っ端みじんにはじけ飛ぶ。
水来の母親の声が、ノイズに
「なに!?」
目をしばたたかせる終。
「アバドン蟲!!」
恋は誰よりも早く状況を理解した。
リィルルル
悪魔の名を冠した巨大蟲が、いつの間にか活動を再開している。
空中で、音よりも速く動く触手が、
「ちっ!」
恋は銃弾で対処する。
「わわわ」
終は、触手の攻撃圏内から速やかに離れた。
「あ、ああああ」
本体の活動再開に合わせて、水来の消化も再びはじまる。
「マズイ、水来!」
恋が駆け寄ろうとするも、宙を泳ぐように舞う、触手に阻まれてしまった。
「母さん、母さん、母さん」
水来が虚ろな目のまま、乳白色の体表に呑み込まれていく。
「ぐっ! 水来、お前はそれでいいのか!」
恋が怒声を張り上げた。
「お前の母親は最後まで戦ったぞ。自分の命が燃え尽きるその瞬間まで、お前のことを案じていた」
「……」
「母親の
「……」
「あの人は、この未来を想像できていたようだった。世界が魔獣で溢れかえっていることも、人間がほとんど生きていないことも、分かっていたはずだ」
「母さんは、優しい……。そんなところで俺に生きて欲しいとは……、きっと思わない……」
「思う。だって母親だもの。ウチの母さんだってそうだからだ。私だって、どういう訳か、お前にはそう思っている」
水来の眼球が、弱々しく動いて、恋を視界の中心に収めた。
「生きてくれ。どうか生きてくれ、水来。お前が世界最後の一人になったとしても、どうかお前は生き延びてくれ。どんな形でもいいから、幸せになってくれ」
『あなたの人生がいっぱいの幸せで充たされますように』
突如、水来の脳裏に母の声が蘇った。
覚えのない記憶である。
若い母が、自分を抱きしめている。
水来はダーダーと言うことしかできない。
母はまどろむような眼で、自分を見下ろしている。
『いっぱい、いっぱい。いっぱいの幸せ』
母が歌うように口ずさむ。
自分は、ダーダーと返す。
あなたと出会えて僕も幸せ、という意味が込められている。
「うわあああああああああ!!!」
水来が叫ぶ。
声と言うよりは、魂そのものが震えた音のように、恋には感じられた。
しかし、魂の咆哮も、人の心を持たない魔獣には、効果はもたらさない。
水来の頭部が、ついに跡形もなく呑み込まれた。
リィリリリ
その楽し気な声が、満腹感の表現だと、恋には分かった。
「お前! よくも水来を!!」
かつてない程の殺意を持って、恋が銃を構えた。
「待て、恋」
「なぜ止める、終!」
「なんか妙だ」
終の科学者としての慧眼は、当事者であるアバドン蟲より早く、その異常を検知した。
リィィィィィ!?
突如、アバドン蟲が苦しみだした。
口の役目も果たす全身の皮膚が、激しく波打つ。
乳白色の体表に、青緑色の斑点が無数に浮かび上がった。
それは見る間に、アバドン蟲の身体を覆いはじめる。
「あの色って」
「ああ、水来がゲル化した時の色だ」
アバドン蟲が、全身を焼かれているかのように、のたうち回る。
「どういうことだ? 説明しろ、終」
「いや、現段階では想像を過分に含んでしまう。それは科学者として本意ではない」
「やかましい!」
「わ、分かったよ。これは多分、水来が。アバドン蟲に取り込まれたはずの水来の細胞が暴れているんだ」
「水来の細胞だって? 超人の身体は、敵に喰われたら二度と元に戻らないはずだろう」
「それはあくまで一般論だ。お前もさっきの音声記録を聞いただろう?」
「もしかして、超人適正がどうたらとかいう部分か?」
「その通りだ。超人適正が高ければ高い程、強い超人が生まれる。破格の数値という表現を信じるのならば、この現象も考えられなくはない」
「まさか! 敵に吸収されてなお、個々に自律活動する細胞だって?」
「突拍子もないことを言っているのは分かってる。しかし、現状、他の説明は考えられないんだ」
水来の細胞の一つ一つが、敵を細胞レベルで逆に捕食している。
終の結論は、恋の常識から考えて、あまりにバカげていた。
しかし、水来を食いつくしたはずのアバドン蟲が、苦しみもがいているのも、また事実。
水来の青緑色は、加速度的に陣地を広げていく。
その都度、アバドン蟲の絶叫は高くなる。
やがて、暴食の悪魔の名を冠した被食者が、静かに全身の活動を停止させた。
哀し気な残響が、恋たちの耳をつく。
「……終わったな」
巨大な亡骸が、ドロリ、と溶けだした。
青緑色の巨大なゲルが、流れ出し、ゆっくりと一か所に集まる。
「「……」」
恋と終は、息を呑んでその瞬間を待った。
急速に縮むゲルは、やがて人の形を取り出す。
足が、手が、胴体が再構築される。
「ふう」
出来上がった人体が、ため息を一つつく。
欠け一つない水来の姿が、そこにあった。
「水来! ああ、なんて君は素晴らしい」
よろけて片膝をつく水来に、終が駆け寄る。
「あのアバドン蟲を逆に食らいつくすだなんて。ああ、神様は僕に極上のモルモットを提供してくれ――グエッ!?」
恋に鼻を打拳され、終がのけ反る。
「バカめ。空気を読め」
「お、お前にだけは言われたくないぞ、そのセリフ」
恋が代わりに水来に近づく。
自分の羽織っていたマントを、裸の水来にかけてやった。
「粗末なものを見せるなと言ってるだろう」
「ご、ごめん」
「きつい戦いだったな」
「うん」
「まあ、無事帰ってきてくれたのなら、言うことは無い」
「ありがとう」
「ん?」
「君が俺を励ましてくれなかったら、俺はあそこで諦めていた。俺はあの魔獣に喰われかけていた時、心のどこかで安堵してたんだ」
「……」
「このつらいばかりの時代からこれで逃げ出せるって。天国で母さんにまた会えるって」
「それが正常な神経だ。もしかしたら私は、自分のワガママで、お前に要らぬ苦労を背負わせたのかもしれない……」
「そんなことはない!」
強い目で、水来が恋を視た。
「――」
恋は、ポッと頬を赤らめさせる。
「俺は絶対に生きてみせる。あそこで死ななくてよかったと、思えるようにきっとなる!」
「……そうか」
「だからありがとう。母さんの想いを、俺に伝えてくれて」
水来が手を差し出す。
「うん」
恋がそれを握り取る。
体温と握力の交換が、水来に、心地よく生を実感させた。
「さて。とは言ったものの、現状はよろしくないな」
恋が周囲を見やる。
六角町遺跡のカタストロフは、明らかに最終局面へ移行しつつあった。
地面は縦横無尽に引き裂かれ、天井からから降ってきた岩塊が、山と積み重なる。
押しつぶされた魔獣の死骸が、視界いっぱいに広がっていた。
「よくも都合よく、僕らを避けて、岩が降ってくれたもんだ」
赤くなった鼻を撫でながら、終が言う。
「終くんも色々ありがとう。正直、具体的に君に何かされた記憶はないんだけど、社交辞令として、一応お礼を言っておくよ」
「ふん、言うようになったじゃないか」
終が、つまらなそうに、
「とりあえず、出口を目指そうか」
水来が提案する。
「だな、助からないにしろ、座してその時を待つのは性に合わない」
と、恋が首肯した。
「いや、案外どうにかなるかもしれんぞ。僕の計算が確かなら、とっくにトンネルは復旧しているはずなんだ。救助隊の車がもうすぐそこまで来ている可能性もある」
「呆れるほど前向きだよ。お前は」
「それもお互い様だ。そうでもなければ、こんな時代は生きられないからな」
臨界間際の振動の中を、三人は駆け出す。
水来が、ちらりと後方を見た。
藍色の闇の中で、紅石の残骸が、かすかな光を放っていた。
「どうする拾っていくか?」
恋が訊く。
「いいや、いい。形見はもう十分もらったからね。それに君たちがいる」
水来の視線が前を向く。
水来が後ろを振り返ることは、二度となかった。
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