第27話 罪と罰(後編)
「いやいや、この度はご苦労様でした。村上先生」
「院長先生に喜んでもらえたのなら、私も頑張った甲斐があったというものです」
院長室で、二人の医師が、和気あいあいと談笑している。
巨大な椅子に身体をうずめているのは、この部屋の主である院長先生。
そして、応接ソファに、かの村上医師が腰かけていた。
「それにしても一体どのようにして、あの母親に首を縦に振らせたんです?」
「いいえ、特別なことは何もしていませんよ」
「いやいや、ご謙遜を。相手は、愛息子を十年以上看病し突けた母親ですぞ。どう説得したところで、快諾してもらえるわけがない。私はもう途方に暮れていたんですから」
院長先生がぐいと身を乗り出す。
「もったいぶらずに教えてくださいよ。一体どうやったんです」
村上医師の顔に苦笑が浮かんだ。
「困ったなあ。本当に話の種になるようなことはしてないんですよ。強いて言うなら、誠心誠意、真心を込めてお話をさせてもらった。それに尽きますね」
「はあ」
「今の日本国が置かれている苦しい状況。勝利を希求する人々の声。愛国心とは。そんな話を長々と語ってしまいましたね。いや、お恥ずかしい」
「それは……、大したものですなあ」
院長先生は、心底感服したようである。
「お恥ずかしい限りです。年甲斐もなく熱弁をふるってしまいました。やはり、真心に勝る説得はないということでしょう」
「いやはや、無為に歳を重ねた私なんぞより、村上先生の方が、よほど世間を知ってらっしゃる」
(それはそうでしょうね)
村上医師のささやかな呟きは、院長先生の耳には届かなかったようだ。
「それより、例の小切手は?」
村上医師が訊く。
「ああ、すでに政府の方からいただいておりますよ」
高級机の正面引き出しから、『防衛省』と印字された封筒を、院長先生が取り出した。
「それは私が預かっておきましょう」
村上医師が、ソファから腰を浮かせる。
「いえいえ。これは私から母親に直に渡しておきます。それが筋ですから」
「私から受け取りたいと、母親が申しておりまして」
「いや、それはダメです」
ここまで緩みっぱなしだった院長先生の頬が、引き締まる。
「額が額です。万が一のことがあっては大変だ。この小切手は私から直に母親に手渡しておきます。私からもぜひ労いの言葉をかけてあげたいし」
「いえ、私が母親に渡しておきますので」
「村上先生、しつこいですぞ」
院長先生が村上医師をぎろりと睨むと、封筒を再び引き出しにしまった。
「!?」
それは、あっという間の出来事だった。
素早く立ち上がった村上が、院長の机の上にあった置物を
野口英世と思しき、青い胸像。
分厚い台座が、院長先生の脳天に叩きつけられた。
「むぐっ」
院長先生の身体が、机に突っ伏す。
「はあ、はあ、はあ」
村上は、少しの間、血走った眼で、動かなくなった院長先生を見下ろしていた。
やがて、院長先生の身体を椅子ごと横に寄せる。
机から封筒を取り出した。
小切手の金額を目の当たりにすると、村上の顔が醜悪に歪んだ。
「ちっ、老いぼれジジイめ。余計な手間かけさせやがって」
白衣のポケットに、荒々しく小切手を押し込んだ。
「悪く思うなよ。俺にはこの金がどうしても必要なんだ。この国から逃げ出すためにはな」
冷笑を浮かべ、院長室を立ち去ろうとする村上。
扉のノブを回す。
「なっ!!?」
村上は、衝撃を隠し切れなかった。
それも当然だろう。
今の村上が一番会いたくなかった人物が、そこにいたのだ。
すなわち、扉のすぐ後ろで一部始終をのぞき見ていた、この私、北山
「村上! この人でなしめ!!」
「ええい、このクソババア」
村上が私を院長室に引きずり込んで、扉を閉ざす。
「よくも、よくも、うちの
私は、村上に馬乗りにされても、怒りの目で敵をにらみ続けた。
「はん、あんなペラペラの計画を信じたお前が悪いんだろうが。まったく。バカは罪深いな」
村上の顔に、哄笑が張り付く。
「絶対に許さない」
「別に許してもらう必要はない」
村上の手が私の首にのびてきた。
私は必死の抵抗を図るが、熟女の細腕では、若い村上に抵抗しきれない。
「バ、バカな男。もう間もなく世界が滅ぶっていうのに、小銭を稼いでどうするつもりなの?」
せめて悪口雑言をぶちまける。
「ふふふふ、バカはお前さ。この世界はもうすぐ滅びる。それは正しいよ。ただし、お前たち下級国民が思っているほど、それは先の話じゃない」
「え?」
「超人改造を専門分野にする立場上、戦争の情報はあんたより詳しくてね。この世界はもうとっくに手遅れなんだよ。今日明日にでも世界は終わりかねないんだ」
「な、なおのこと、お金なんて持ってたって、意味ない……じゃない……」
息も絶え絶えに、私は言葉を吐く。
「ある国が、世界滅亡をやり過ごすための巨大シェルターを作り出したんだ。もちろん超科学を使ってな。そこに入れてもらうには、どうしても大金が必要なんだよ」
「………」
頭に血が回らなくなり、視界がぼやけだす。
「じゃあな、ババア。どうせもうすぐ亡くす予定の命だ。ここで命日をほんの少し早めてやったところで、大した罪にはならな――ぐおっっ!?」
私の首から、突然村上の手が離れた。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ」
私は、必死の呼吸をくり返す。
「どうだい! この小悪党!」
「お、おばあさん?」
私の視界には、カーペットに横たわる村上と、あの掃除婦の堂々とした立ち姿が、奇妙な対比をなしている。
おばあさんの手には、掃除用のモップが握られている。
どうも、あのモップで村上の頭を痛打したらしい。
「こ、この掃除のクソババアめ……」
村上がフラフラと立ち上がろうとする。
「私のことは掃除のおばあ様と呼びな!」
おばあさんが、モップを再び振り下ろした。
金属部分が、ザクッ、と村上の脳天につき刺さる。
「うぐぅ!?」
頭から血の噴水をまき散らしながら、村上が倒れ伏す。
今度こそ、動き出す気配はない。
「お、おばあさん。やりすぎですよ」
「はん。何言ってんだい。どうせもうすぐ世界中の人間が死ぬんだ。一人くらい早めに死なせたくらいで、何の違いがあるって言うんだか」
「この男と同じことを言わないでください」
私は村上の脈を図る。幸か不幸か、命に別状はない。
院長先生も、まだ息はしているようだ。
「とりあえず、人死にが出なくてよかったです」
「まったく人がいいねえ。息子をもう少しで売り払われるところだったって言うのに」
「そうだ! 水来!」
超人に改造されたしまった我が子のことを、私はようやく思い出した。
「は、早くあの子を見つけないと」
金銭の支払いはすでに済んでしまっている。
政府の人間が来てしまったら、水来が問答無用に連れ去られることは、想像に難くない。
その先の愛息子を待ち受けるのは、生物兵器としての生涯である。
「急いで水来を逃がさないと!」
私は老婆を連れて、急ぎ院長室を後にした。
通りすがりの看護師に、「さっき院長室で悲鳴がしましたけど」と伝えた。
血だらけの二人はすぐに発見され、たちまち、病院中が大騒ぎになる。
私と老婆は、その隙をついて、水来を応接室から持ち出すことに成功した。
「ああ、よかった。水来。やっと私のところに帰ってきてくれた」
だが、問題もある。
手術後の水来は、医師たちの手によって、すでに超人運搬用装置に収められてしまっていたのだ。
『enter password(パスワードを入力してください)』
私がどのような手段を取ろうとも、容器は、頑なに同じ反応を返す。
「ダメだね。こりゃ」
おばあさんが容器を蹴飛ばした。
「パスワードを知っているのは、おそらく主治医の村上と院長だけだ。その二人とも意識不明ときている」
「どうにか壊せないかしら」
「ムリムリ。超人を安全に運ぶための装置だ。道中敵の攻撃を受けても無事なように、おそろしく頑強に作られているんだよ」
「閉じ込められている水来は大丈夫なんでしょうか?」
「その点も心配はない。中の超人が逃亡を図らないよう、仮死状態にする仕組みがある。まあ、昔のSFのコールドスリープみたいなもんだね」
「……本当になんでもお詳しいことで」
私の言葉には若干棘が混じっていた。
おばあさんの知識量は底が知れない。一体これまで、どれだけの機密資料を盗み見たことやら。
「仕方ないんだ。他人の秘密を盗み聞きするのは、私にとって生きがいなんだよ」
おばあさんは必死の顔で言う。
「まだパチンコでもなさってくれた方が有意義です」
水来の入った容器を台車に乗せたまま、私とおばあさんは病院入口まで到達した。
しかし、ここからが大変である。
院長室で傷ついた二人を放置することは、人道上できなかった。
そしてそれは、ここまでは私たちに有利に働いてくれた。
しかし、ここからは風向きが逆風へと変わる。
真相を知らないものにとっては、現状は、第三者が院長と医師が傷を負わせ、そのまま逃亡した様に見える。
「やっぱり警察官でごった返していますね」
全ての病院入口が、制服警官の手によって、厳重に管理されていた。
出入りするもの。特に出ていこうとするものは、厳しいチェックを免れない。
「水来を連れたまま出ていくのは、難しそうです」
「さすがに厳しいねえ」
とは言え、このまま黙っている訳にもいかない。
「おばあさん。この子を頼んでいいですか?」
「ん? 何をする気だい」
「私が警察に犯人だと名乗り出ます。そうすれば出入口のチェックも甘くなるはず。その間におばあさんが水来を連れて――」
「却下、却下だ!」
おばあさんがにべもなく言った。
「先走るんじゃないよ。息子さんが助かっても、アンタが捕まっちまったら何にもなりやしない」
「共倒れになるくらいなら、せめて息子だけでも」
「落ち着きなって。とりあえず、一旦ここを離れよう。私たちは人目に付きすぎるし」
「それは確かに」
巨大な棺のようなものを運ぶ、清掃員と普通のおばさん。
明らかに私たちは注目を浴びていた。
「こっちこっち」
おばあさんに導かれた先には、何のプレートもない一室があった。
「ここは予備の物置だよ。物置に入りきらなくなった古いものが置かれた空き部屋だ。ここに一旦息子さんを隠そう」
おばあさんの言う通り、この部屋には誰にも必要とされないものが押し込められていた。
くたびれた入院着。使用期限を過ぎた掃除用洗剤。さびの浮き出た医療用装置。
私とおばあさんが、水来の入った容器を、部屋の奥へと押し込む。
「すみません。おばあさん。こんな犯罪まがいのことに手を貸させて」
「犯罪まがいじゃないさ。こりゃ立派な犯罪だよ。いひひひ」
「ご、ごめんなさい」
「いいのさ。この歳になったら、今更お上なんて怖くもない」
「でも、おばあさんに迷惑がかかるかも」
「いいってことよ。私にも息子がいるからね。母親のあんたの気持ちは分かるつもりだよ」
おばあさんがポケットから取り出した写真には、青年と肩を並べる、少し若い頃の当人が映っていた。
「いい写真です。二人とも幸せそうな笑顔ですわ」
「私に似ずに真面目に育っちまった息子さ。もっとも数年前に喧嘩別れしていら、ろくに会っちゃいないがね」
「喧嘩ですか?」
「くだらない話さ。もし孫が生まれたら、こんな世の中だから『
「終……。名前……」
私は大変なことに気付いた。
これだけお世話になっていながら、この老人の名前さえ、まだ伺っていないのだ。
「掃除のおばあさんで一向に構いやしないさ」
「そういう訳にもいきません。これだけお世話になった方の名前を知らないだなんて、許される訳がありません」
「やれやれ、アンタも息子に負けず真面目だねえ」
一つため息をついてから、おばあさんが名乗った。
「くれ。
「北山仮夏です。こちらこそよろしくお願いいたします」
私が深々と首を垂れ、老婆が軽く頭を下げる。
同時に私の足の裏に、何かが這いまわるような感触があった。
「?」
直後、激震が走る。
「きゃあああ!?」
「な、なあぁ?!」
あまりの揺れに、私たちは地面に倒れ伏す。
山積みされていた段ボール箱が、雪崩を起こして、私たちに覆いかぶさってきた。
激しい揺れは、狭い物置を乱暴に攪拌する。
私と暮さんは、脱水をかけられる洗濯物の気持ちをたっぷり味わった。
「――――ど、どうにか収まったみたい」
ふらふらと動き出した私は、自分の背中の上に載っている段ボールをどかす。
段ボールの中身は、幸いにも、古びた入院着でしかなかった。
「やれやれ。軽いもので助かったよ。あの機械が落ちてきていたら、二人ともお陀仏だった」
医療用装置が満載された棚は、幸運なことに、耐震補強の器具が取り付けられていてくれた。
機械装置の硬くて鋭利な角部を見て、私は背筋がゾッとなる。
「地震でしょうか?」
「いや、今の揺れはどうもおかしい。自然な感じじゃなかった」
「え?」
「ちょっと外の様子を見てくる」
暮さんが、物置を出ていく。
三十秒と経たずに、「ぎゃあああ」、彼女の悲鳴が上がった。
その悲鳴の凄まじさに、私は無意識に、武器になりそうなものを手にした。
「暮さん?!」
声のした方へとひた走る。
「た、助けてくれええ」
暮さんは、病院廊下に仰向けに倒れていた。
そこに馬乗りになっている『もの』がいる。
「お、狼?」
それは誤認であった。
全身に赤く輝く目を配された、巨大な四足獣が、恩人である老婆に、ネバついた涎をかけている。
「この! 暮さんから離れなさい」
恩返しとばかりに、バットに近い太さの金属棒を振るう私だったが、意味はなさない。
頭部を痛打されても、怪物はそのことにさえ気づいていない風である。
むしろ私の手が激しくしびれて、曲がった金属棒を取り落した。
「ひ、ひいい」
老婆の眼前で、怪物が大きく口を開いた。
「こ、この!」
私は、もう一つの武器を望みを託す。
プラスチック製の容器が、怪物目がけて、宙を舞った。
怪物の頭に当たると、容器のフタが開く。
「暮さん、目をつむって」
中身は掃除用の液体洗剤であった。
グギャアアア!!
全身に目のついている怪物が、あまりの刺激にのたうち回る。
「大丈夫ですか」
私は暮さんを抱き起した。
「あ、ありがとう。あんたは命の恩人だ」
暮さんはガタガタと震えていた。
「し、死ぬのは今更怖くないが、犬コロに喰われて死ぬなんて、さすがにごめんだ」
私たちはもだえ苦しむ怪物から逃げ出した。
病院の大廊下にさしかかった。
「「?!!」」
そこは阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
逃げ惑う人間たちを、例の赤目の怪物たちが、貪り食っているのである。
「わああ! うわあああ!!」
警察官たちが拳銃で応戦しているが、それは怪物たちにはなんの効果ももたらさない。
むしろ大きな音が怪物たちを興奮させ、惨状の血をさらに濃くする。
「「……」」
眼の前であがる大量の血煙に、私はもちろん、暮さんでさえ、言葉もない。
第一内科の待合室に備え付けられたテレビが、緊急放送をくり返していた。
『魔獣たちが人間のコントロールを離れて一斉に暴れだした』
『魔獣たちは効率的に戦わせるため、人肉を好むように設計されている』
『この現象は世界で同時多発的に起きている』
『各国政府は、気象コントロール衛星および地殻破断ミサイルを使用して、魔獣たちの反乱を鎮圧する模様……、うわあああああ!?』
テレビの報道フロアに、ヒルに似た醜い怪物が、多数現れる。
キュウウウ!
アナウンサーもスタッフも、次々と全身の血を吸われて干乾びていった。
「やれやれ」
暮さんの呟きで、私はやっと正気に戻った。
「世界が終わるまではよろしく、なんて言ったけどね。まさかこんなに早くその日がやってくるだなんて」
暮さんが私の目をじっと見た。
「寂しいねえ」
その瞳からは、惜別の涙が今にも零れ落ちそうだった。
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