第26話 罪と罰(中編)


「ああ、いけない」


 お気に入りのカップが、私の指先から滑り落ち、粉々に砕け散った。


「これで今日三個め! 本当にどうかしてるわ」


 だが、それも致し方ない。


 今日は、水来が超人になる日。


 つまりは十二年ぶりに、母子の再会する日でもある。


『母さん、ただいま』


 息子の笑顔が想像の中で弾けては、そのたびに粗相をしでかしていた。


「今は11時ちょうど……」


 超人化の施術は、午後一にはじまって、夕刻までに完了する予定だった。


 村上医師と立てた計画では、私はこの間病院にいないことになっていた。


『特に問題があるという訳ではないですが、余計なリスクを背負うこともないでしょう。その日は夜まで病院には来ずに、家で待機していてください』


 そう言い含められてはいたが、とてもじっとしていられそうにはない。


「ちょっとだけなら、大丈夫よね」


 術前に息子の顔を見ておこうと、身支度もそこそこに、駅へと駆け出した。


 いつもの最寄り駅で降りると、廃墟さながらの医学部キャンパスを尻目に、病院へと入る。


「あれ?」


 病室に水来の姿は無かった。


「術前に検査でもしてるのかしら?」


 さほど疑問も抱かずに、私は水来のベッドの傍らに座った。


 すぐに戻って来るだろうと、そのまま手持ち無沙汰で待つ。


「ああ、忙しい忙しい。年寄り使いの荒い病院だねえ、まったく」


 ぶつぶつ言いながら、年老いた掃除婦が、病室に入ってきた。


 私はドキリとする。


 あの時、私と村上医師の話を盗み聞きしたかもしれない、老婆だった。


「ええい。ほれほれ」


 老婆は、私がいることなどお構いなしに、手荒くモップで床をこすっていく。


「ち、ちょっと、おばあさん」


 モップの先に足をつつかれ、私は慌てて抗議する。


「ん? ……ああ、なんだい。人がいたのかい」


 老婆は目を糸みたいに細めて、私を見上げる。


 どうも視力が衰えているというのは、虚偽ではないようだ。


「もしかして、あんた、ここの患者さんのご家族かい?」


「は、はい北山水来の母親です」


 私は頭を深く下げた。


 息子が入院している立場上、病院関係者には丁寧に対応するのが、習慣である。


「そうかい! あんたが!」


 老婆は、なぜか、私に敵意の眼差しを投げつけてきた。


「あんたには言いたいことが山ほどあったんだ!」


 老婆は、許可も得ずに、私の横に腰かけた。


「意識の無い息子を、金で国に売り払った鬼母。同じ母親として、恥ずかしいったらありゃしない」


 老婆の罵りの言葉は、私の感情の湖を、特に波立たせはしなかった。


 村上医師と立てた計画の上で、私は愛国心から、息子を超人の被験者として提供したことになっている。


 このような批判を受けることは、想定内であった。


「貴方のおっしゃることは分かります」


 私は、あらかじめ用意していた文言を並べ立てた。


「私だって本当は水来を超人になどしたくありません。でも、自分よりも年若い青年たちが、超人に志願し、戦場に赴く現状を見たら、あの子はなんと思うだろうか。水来に意識があったのなら、きっとあの子も同じ選択をしたはずだと。その意思を汲み、私は断腸の思いで、決断をくだしたんです」


 大根役者ながらも、なかなかの名演ではなかったかと、自賛する。


「はん。何を噓八百並べ立てているんだが」


 しかし、老婆は、私の言葉をまるで取り合わなかった。


「私は知っているんだよ。あんたと村上先生が本当は何を企んでいるのかを」


 老婆の目に、鋭い輝きが宿った。


「?!!」


 や、やはり、あの時話を聴かれていた?


「おや、顔色が変わったじゃないか。どうやら、図星みたいだね」


「な、な、な、何をおっしゃっているのか、さっぱり」


 私の無残なうろたえ声が、病室に木霊する。


「それじゃあ言ってやるよ。あんたが本当の目的は――」


 ああ――


 死刑判決を待つ被告の心持ちで、私は老婆の口元を凝視する。


「――お金だよ」


「…………はい? ……お金?」


 あまりにも見当違いの推理に、私の声が裏返った。


「ふん。今更すっとぼけなくてもいいさ。あんたは国からの超人化補助金が欲しくて、息子を売り渡したんだろう。とんだ欲ぼけババアだ」


「よ、欲ぼけババアって……。いくらなんでも言葉が過ぎますよ!」


 怒りの反射で、私は椅子から立ち上がる。


「なんだい。立場が悪くなったら、今度は逆切れかい?」


 腰の曲がった老婆も立ち上がる。


 私は、自分の半分ほどの背丈しかない老婆を、きっとにらみつけた。


「さっきの言葉を訂正してください。おなかを痛めて産んだわが子を、金に換えられる親なんているもんですか!」


「はん。よくも心にもないことをペラペラと。きっと生まれたときから舌が二枚生えてんだね」


「こ、こんのクソババア」


 危うく、年長者に手が出るところだった。


 だが、次の老婆の言葉が、私の興奮を一気に冷ます。


「実際、国からの超人化補助金は支払われているんだ。それもとんでもない額のね。まあ、あんたの息子さんの異常な超人適正値を考えれば、当然の額だけども」


「……え?」


「……正直言ってさ。あんたの気持ちも分からなくは無いんだよ。こんな時代だ。女手一つで、十年以上息子の看病し続けたあんたを、私は心底尊敬するよ。……でもさ、最後の最後に息子を売るなんて結末はさ、子供があまりにも不憫じゃないか」


 老婆はポケットからハンカチを取り出し、目頭に当てた。


「うううう」


 そのまま、人目もはばからずに号泣しだす。


「……」


 私はその様子を呆然と見つめていた。


 とんでもない額の超人化補助金?


 超人適正値?


 老人のたわ言と片づけるのは簡単だが、その言葉が妙に耳に引っかかる。


 老婆が、泣き止むのを待ってから、私は詳しく話を聴く。


「何をいまさら。全部知っているあんたが、私に何を訊こうっていうんだい」


「お願いします。どうか教えてください。 超人化補助金というのは、アレですよね。超人に志願した民間人に対して、国から支払われるお金のことですよね」


「そうだよ。一人当たり大体三百万円が、その家族に支給される」


 長らく続く戦時下に、生計が成り立たなくなり、家族を養うため超人に志願するものが後を絶たない。


 親自らが志願するケース。年端の行かない子供に志願を強制させるケース。


 いまの日本が抱える、大きな社会問題の一つであった。


「もっとも、あんたの息子の場合は話がまったく違う。あんたも知っての通り、超人適正値が異常に高すぎるんだ」


「その超人適正値って、一体なんです?」


 息子のため、超科学関連の情報にはアンテナを高くしている私でも、聞いたことのない単語であった。


「……この期に及んで知らないふりかい? まあ、いいか。暇だから付き合ってやるよ」


 老婆が言うには、超人適正値とは、その名の通り、人間を超人に改造するにあたっての適正を現す数値だとか。


「若くてスポーツ経験が豊富な程適しているとは聞いたことがありますが……」


「ああ、それはデマデマ」


 老婆は、私のテレビ知識を一笑に付した。


「実際のところはもっと複雑だ。私も専門的な知識は無いけどさ、ある遺伝子のパターンが決定的に重要ならしい。つまり、年寄だろうと、パソコンばかりしている青ビョウタンだろうと、向いている奴は生まれつき向いているんだ」


「は、はあ……」


「最近は家族を養うため超人に身売りする奴が多いとは言われているけどね。実際はそれほどではないんだよ。志願者自体は非常に多いんだけどさ。ただ、その九割以上が、超人適正値の検査ではねつけられる。『どうか別の形で国に貢献してください』、と門前払いを食うわけだ」


「おばあさん……」


 私の目には、この老婆が、もはや一介の掃除婦には見えていない。


「ん? なんだい。怖い目をして」


「あなた一体何者なんですか。どうしてそこまで色々なことにお詳しいんですか」


 老婆のわずかな不審も見逃すまいと、私は目を凝らす。


「いひひ。おかしなことを言わないでおくれよ。私はどこにでもいうただの掃除のおばあさんですよ」


「ただのおばあさんが、そんなに博識なはずがありません」


 この人物が扱っている情報は、下手をすれば某国の諜報員級に高度なのであった。


「私みたいな掃除のおばあさんってのは、いわば透明人間なんだよね。いひひひ」


「と、透明人間?」


 おばあさんが、いきなり笑いだして、私は戸惑った。


「そう。私たちが男性用トイレで掃除していようと、男どもは存在がないものとして、勝手に用を足していくんだ。私たちはさ、人間と思われていないんだよ。人型の備品か何かと思われているんだ。腹の立つことに」


「言われてみれば、私も掃除のおばあさんを気にしたことって、あまりないですね……」


「だろ、どこに行ってもそれは同じさ。病院でも、お役所でも、研究所でも、テレビ局でも。私たちをいないもののように扱う。だから、話を盗み聞きし放題」


 おばあさんが、ニタリと笑った。


「い、今までの話。全部派遣された先で聞き耳を立てたものなんですか?」


 さすがに呆れた。


「聴いたばかりじゃあないよ。私たちの存在を取るに足りないと思ってるからさ。掃除させる部屋に、重要文書なんかを置きっぱなしにしたりもする。それをこっそり眺めて、私は悦に浸るという訳さ」


「それって犯罪ですよ」


 私はつい咎めるような口調になった。


「いひひひ。冗談はよしてくれよ。犯罪者っていうのは、すぐ傍に私がいることに気づきもせず、秘密をペラペラ話すような間抜けを指す言葉だろうさ」


 おばあさんは反省するどころか、胸をそびやかして自慢げだ。


「ふう。本当に呆れました」


 ただ、こういう捻くれた人物と言うのは、実は私はそんなに嫌いでなかったりする。


 まあ、それはどうでもいい。


 重要なことは、水来のことだ。


「うちの息子の超人適正値が異常というのはどういうことです」


「……あんた、もしかして本当に何も知らないのかい?」


「だから、最初からそう言ってるじゃないですか」


「……妙な話だねえ。……まあ、いいさ。教えてやるよ」


 おばあさんが言うには、水来の超人適正値が判明したのは、ほんの偶然なのだという。


「今年初めの定期検査の時にさ、検査技師が患者の取り違えをやらかして、おたくの息子さんに超人志願者用の検査を受けさせちまったんだよ」


「そ、そんな話聞いていません。それって不祥事じゃないんですか!」


 私の口を怒りの声がついて出る。


「病院側は事実を隠蔽したみたいだけどね。おしゃべりな看護師どもの口に戸を立てることはできなかったよ。その時に、あんたの息子さんの超人への適性が、前代未聞に高いことが発覚したんだ」


「……」


 息子が生体兵器としての才能に充ち溢れている。


 母親として、こんなに嬉しくない報告は他にない。


「ここの院長ってのはさ、政府のお偉いさんに親戚がいるらしくてね。すぐに息子さんの存在の報告が、上の方にあがっていった。病院には数日と経たずに、息子さんを超人に改造したいという打診があったそうだよ」


「――」


 当人と家族になんの報告も無しに、恐ろしい計画が進められていた。


 私が、がたがたと震えたのは、恐怖ではなく、もちろん怒りのためである。


「院長はこの話に大乗り気だったみたいだけどね。母親のアンタだけでなく、病院側にも億単位の補助金を出すという話だったから」


「自分たちの預かっている患者を、無断で売り渡そうとするなんて!」


「院長の味方をするつもりはないけどさ。ここ最近は経営が相当に苦しいみたいだよ。なんせ大学病院だ。大学が休校になっちまったら、片羽根もがれたようなもんだからね」


「そんなの理由になりません!」


「……まあ、そうだね」


 ただ、院長の意向に背く医師が一人いたのだという。


 それが、水来のかつての主治医の桜井だったとか。


「あの桜井先生が? あの先生は、水来に発がん性の高い治療を無断で試した人なのに……」


「んん? そんな話は聞いたことがないねえ。桜井先生については、悪い噂は誰の口からも聞いたことがないよ。みんなが素晴らしい先生だと口を揃えてる。本人のいないところで誉め言葉を言われるなんて、なかなか簡単なことじゃない」


「で、でも、村上先生が――」


 その人物の名前を口にした瞬間、心臓の血管に、氷水が注入された感覚に陥る。


 村上。


 あの人物の話と、この老婆の話はまったく食い違っている。


 水来がガンだという話。


 今にして思えば、あの時見せられたCTの画像は、本当に水来のものだったのか?


 衝撃的な情報を立て続けに浴びせられたあの時の私は、本当に冷静と言えたのか?


「ちょっとあんた、大丈夫かい? ひどい顔色だよ」


「む、村上先生に会わないと。会って話を聞かないと」


「ち、ちょっと、少しは落ち着きなって」


「急がないといけないんです。水来の手術がはじまってしまったら、手遅れなんです」


「……いや、それはおかしいよ」


「おかしいって何がですか!」


「そ、その、息子さんの手術は朝一ではじまっているんだ。今頃はとっくに終わっているころ――」


 私は、駆け出していた。


 なんてこと。なんてこと。なんてこと。


 全てがウソだった。


 桜井先生の背信も、水来のガンも、超人改造の日程までも。


 あのジャニーズみたいな爽やかな笑顔の奥で、村上は邪悪なもう一つの笑みを浮かべていたのだ。


 なぜ気づかなかった。


『いいかい、仮夏。悪魔は天使の顔をして近づいてくる。父さんと同じ目に合わないように、お前は絶対にこの言葉を忘れないようにしなさい』


 亡き父が遺してくれた金言を、なぜあの時ばかりは思い出せなかったのか。


 腹立たしくてならない。村上が。何より赤子の手をひねる様に騙された自分が。


「ち、ちょっと貴方。病院の廊下は走らないでください!」


 看護師の注意も耳には入らない。


「う、うわわ」


 車椅子の男性が慌てて廊下の端に寄るが、それも目に入らない。


 虎児をかすめ取られた母虎が、憤怒の形相で、病院廊下をひた走っていた。

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