第22話 水来の涙
時は少し過去へとさかのぼる。
その時点の水来がいたのは、六角町北端にある、古ぼけた住宅街であった。
築40年越えの集合住宅が居並び、主に六角町の低所得層が居住する。
「帰ってきた。俺はついに帰ってきたんだ」
そんなボロ物件の中にあっても、一際古めかしいアパートの前で、水来は足を止める。
こここそが、水来が十四年間を過ごした、懐かしき我が家である。
数々の美しい思い出が、水来の目に、家賃一万五千円の物件を、白亜の宮殿のように見せていた。
「よ、よし」
やや緊張がちになるのも当然と言えた。
実質三十年ぶりの帰宅なのだから。
「む……、なんだこの匂いは?」
どこか漬物に似た香りが、家の壁から床から立ち上って来る。
一瞬身構えかけた水来だったが、どう感じても、危険と結びついた匂いとは思われない。
「もしかして、これが俺の家の本来の匂いってことなのかな? そういえば、昔招待した友達にも、白菜漬けっぽいとか言われたっけ」
鼻と言う器官について、水来とて最低限の知識は有している。
同じ匂いを嗅ぎ続けると、鼻はその匂いに危険が無いものと判断して、匂いを感じることを止めてしまう。
そのため、自分自身や自分の持ち物を、当人は無臭と思い込む。
水来の鼻が自宅に匂いを感じたということは、あれほど記憶された匂いが忘れ去られてしまうほどに、長い時間が過ぎてしまったということだ。
「……」
水来はそのことに一抹の寂しさを覚えた。
少しの感傷の後、玄関からさらに足を進める。
万が一を考慮し、靴は履いたままである。
アパートの間取りは一応2DK。
玄関脇にある自室は、後ろ髪を引かれながらも、通り過ぎる。
今は少しの時間が惜しい。
「今回の所は、母さんの部屋だけ見たら、すぐに恋たちのところに戻らないと」
そこの景色を目に焼き付け、あわよくば形見を手に入れたい。
そのように希望しながら、名ばかりなダイニングキッチンも通過する。
「ただいま、母さん」
母の部屋の扉の前で、厳粛な声を上げる。
静かに扉を開く。
そこには、水来が会いたくてたまらなかった人が、もっとも望まない姿で存在していた。
「……?」
水来は状況を理解できない。
ここは紛れもなく母の部屋である。
壁紙も畳も記憶と一致する。
調度品はさすがに変わっているが、そこには変わらぬ母の趣味が通底していた。
水来の中学校入学式の写真も飾られていた。
かちこちの自分と、心から嬉しそうに笑うお母さん。
(あれは一体なんなんだろう? ベッドの上で、母さん好みのパジャマを着た、あの干乾びたものは――――)
唐突に理解する。
水来が膝から畳に崩れ落ちた。
痛んだイ草がぶちぶちと千切れる。
「母さん! 母さん!」
畳の上を這うように進む。
ミイラと成り果てた母の手をぎゅっと握りしめた。
「母さん!」
干乾びた手から感じられるのは、冷え切ったロウソクの感触だけであった。
あの幸せな温かさはすでに永遠に失われている。
「うわああああ」
水来が大声で泣きじゃくる。わめき散らす。
「なんで、なんでこの人がこんな死に方をしないといけないんだよ。こんな、こんなに頑張って生きてきた人はいないのに!」
両親を幼くして失い、巡り合った夫とも、すぐに死別の憂き目に遭う。シングルマザーのハンデから仕事でも苦労し、不安定な職を転々とする。
幸福とは言い難い人生。
それでも、母は懸命に働き、遊びには目もくれず、息子の水来をこの歳まで立派に育て上げた。
「そんな母さんに少しでも楽をさせてあげることが、俺のたった一つの夢だったのに」
悲嘆に暮れる水来が、さらに絶叫のトーンを上げる。
少なくとも、母に苦しんだ様子は無い。
何かと争った形跡もない。
おそらくは就寝中に、心不全か何かによると突発死を起こしたのだろう。
戦時下だったことを考えれば、あるいは幸せな死にざま――とは水来には到底思われない。
あまりにも自責の念が強化されすぎていた。
「俺のせいだ。きっと俺のせいなんだ。俺が志郎を助けちゃったから。俺が母さんを一人ぼっちにしちゃったから。だから、母さんがこんな死に方を」
母の乾いた手の中に、何かが握りしめられていることに、やっと気づく。
「これは……、あのブローチか?」
奇しくも、先ほど夢で見たばかりの、誕生日プレゼントであった。
「こんな、こんな安物を後生大事に握りしめて……」
母と死出の旅を共にする供養品が、たった499円であることが、水来はどうしても許すことが出来ない。
拭っても拭っても、後から後から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お母さん……」
経年劣化でくすんだ紅石同様、水来の瞳からも輝きが失われていく。
リルルルルル
そんな水来を、大型窓の外から巨大な
アパートごと押しつぶされるその瞬間まで、ついぞ水来は、その存在に気づくことはできなかった。
■ □ ■ □ ■ □
そして、再び現在。
放心した水来を、難なく呑み込んだアバドン蟲は、次は、恋と終に狙いを定める。
「あああああ!!」
水来の全身は、アバドン蟲の体表に呑み込まれ、さながら白い底なし沼でもがいているようであった。
五体は無事とは程遠く、すでに身体の半分近くが消化されてしまっている。
水来が超人でなければ、とっくの昔に息を引き取っているだろう。
もっとも簡単に死ねた方があるいは幸福だったかもしれないが……。
リルルルルル
ご馳走を味わっているアバドン蟲が、歌うように鳴いた。
「待ってろ、水来。今助ける!」
素早く、恋が水来を助け出そうとする。
「ち、ちょっと待てって」
終が、慌ててそれを諫めた。
「なんで止める!」
「落ち着け。あれは見え見えの罠だろう」
「だからって、だまって見てられるか。このままだと水来は完全に喰われてしまう」
「だから、落ち着けって。誰も助けるなとは言ってない。順番が重要なんだ」
「順番?」
恋が目を血走らせながらも、終の話にようやく耳を傾ける。
「そうだ。水来を助けようと近づいたら、確実にお前もアバドン蟲に取り込まれる。だから、まず先にアバドン蟲の消化活動を止めるんだ」
口と消化器官を機能停止させてから、安全に水来を救助するのだと、終は説明する。
「要は、あの不愉快な魔獣を、先に殺しちまえばいいのか」
「お前の得意分野だろ」
「もちろんだ。ライフワークだよ」
恋の顔に、味方すら怯えるような笑みが浮かぶ。
「で、奴の弱点はどこだ? 知っているか?」
「もちろん。そっちは僕の得意分野だぞ」
終が言うには、アバドン蟲の主要器官は、身体の中央に軸索状に連なっているという。
「ただし、ちょっと面倒な条件がある」
アバドン蟲全体をを覆う消化器官は、並々ならぬ強靭さを誇る。
小ぶりの弾丸なんぞ打ち込んでみたところで、半分と進まず溶かされてしまうという。
「なら、真正面か」
「それしかない。頭部にある巨大眼球をぶち抜くコースが、唯一相手の心臓部にたどり着く方法だ。なんだが……」
終が言葉を濁した理由が、恋にはすぐに分かった。
「邪魔なモノがあるな」
二人の視線は、目にとってまつ毛の位置に配された、巨大な触手で交錯する。
おそらくは、役割もまつ毛と同様で、目を冒そうとする異物の排除。
「くやしいが、いい魔獣設計だ。弱点というのは、下手に消そうとすると、むしろ穴が大きくなる。弱点を明確にする代わりに、巨大な眼と強力な触手を配置して、鉄壁の防御を敷く。設計者は物事をよく分かっている」
「言ってる場合か。来るぞ」
いつまでも
リルルルル
アバドン蟲本体より長いその触手。太さは電信柱ほどもあるだろうか?
それが付近に残されていた一軒の民家に絡みつく。
易々と、家が基礎ごと引っこ抜かれた。
「ま、また投げつけてくる気か?」
終の予測は、半分当たって、半分外れていた。
リルル
アバドン蟲は、先ほどのように、悠長な放物線など描かない。
自身の斜め下に向かって、全力で民家を叩きつけた。
「「!?」」
凄まじい衝撃で家は木っ端みじんになり、建物を構成していた建材が、一斉に地面を走る。
硬質な大津波が、恋と終に迫った。
「くっ」
「ひ、ひええ」
触れたもの全てを砕く怒涛を、二人は紙一重で逃れた。
終は水平に走り抜け、恋は空高く垂直回避する。
恋が最寄りの住宅の屋根に着地を決めるも、それを待っていたかのように、触手が迫る。
遥か上段から振り下ろされた一撃。
二階建ての家が一刀両断される。
「ちっ! やはり連続攻撃を仕掛けるだけの知能はあるか」
恋はぎりぎりのところで、三軒向こうの屋根に飛び移っていた。
彼女の反射神経をもってしても、あらかじめ予期していなければ、回避は難しかっただろう。
「気をつけろ! アバドン蟲の触手は、象の鼻の百倍近い腕力を有しているぞ」
「バカ力は見りゃ分かるさ。さて、どうするか?」
敵を仕留める算段を巡らす恋は、それは楽しそうな表情を浮かべる。
「ま、やることは一つだよな」
一発殴られたら、一発やり返す。
戦いの基本と言うか、恋の人生の鉄則であった。
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