第2話 病院

(まるで重油の中に浸かっているようだ)


 もちろん、水来には重油を見た経験はない。


 ただ、全身にまとわりつく重い液体の感触と、艶光する黒色に、このような比喩を思いついただけだった。


(ここはどこだ?)


 水来からは事故の記憶がすっぽ抜けていた。


 それどころか、今は自分が誰かさえも判然としていない。


『お願いします。どうか水来を、水来を助けてください』


(!?)


 母さんの声だ。


(……母さん?)


 それすらも明確ではない。


 ただ、この人が泣いていたら、自分が近くに行かなければならない気がした。


 そういう決まりだった。


 大昔に、自分で自分とした約束だ。


(母さん、今行くよ)


 重油と比喩した液体の中を泳ごうとする。


 しかし、身体を動かそうとすればするほど、むしろ液体は重みを増す。


(ぐ、ぐぐぐ……)


 もがけばもがくほど、身体は黒水の底へと沈んでいく。


『お母さん。大丈夫です。手術はきっと成功しますからね』


『水来! 水来―!!!』


 ガラガラという、車輪の転がる音。


(母さん! 母さーん!!)


 黒い水底に近づけば、朧げな認識はさらに歪んで、水来の意識は完全に混濁した。



            ■ □ ■ □ ■ □



 あれからどれほどの時間が経ったのだろう。


 水来は、まだ暗闇の中にいた。


「母さん! 母さん!」


 闇の中で手をもがかせると、


 パキリ


 指先が、暗黒の淵に触れた。


 何かを砕いた感触があって、白い亀裂が空中に走る。


 暗闇の一角が音を立てて崩れ、そこから強烈な光が水来に注ぎこむ。


「うわっ!?」


 あまりのまぶしさに目を覆う水来だったが、若い視細胞はすぐに光に適応する。


 ゆっくりと目を見開いた水来は、はじめて自分をとりまく異常に気付いた。


(な、なんだ? ここは?)


 自分の身体が、恐ろしく窮屈な空間にある。


 狭い箱のようなものに水来は押し込められていた。


「わわ、わわわわ」


 狼狽の声を上げながら、箱から出ようと試みる。


「ぷはあ」


 脱出に成功した水来は、大きく息を吐いた。


 先ほどは強烈な光と表現したが、実際のところ、光源は小さなLED電球一つに過ぎなかった。


「こ、ここは、……どこだ?」


 そこは、まったく見覚えの無い場所だった。


「白い部屋? 倉庫?」


 見渡す限り白で統一された、真っ白な空間に自分はいる。


 閑散とした部屋の隅に、雑に段ボールが積まれていた。


 水来は、自分を閉じ込めていたものを、改めて見る。


「……か、棺桶?」


 自分で言って、その言葉の響きに怯えた。


 人間一体をちょうど格納できる箱。


 器具備品の類ではなく、機械仕掛けの何らかの装置のようである。


「???」


 水来の知識では、その装置の役割は見当もつかない。


 もちろん、自分が入れられていた理由なんてもっと分からない。


 すぐに水来はとてつもないことに気付く。


「う、うわ。お、俺、どうして裸なんだ」


 現状、自分が一糸まとわず、貧相な身体を大気にさらしていたのだ。


「な、な、何か着るものは」


 更衣室以外で全裸になるのは、現代人にとって恐怖にも近い恥辱である。


 大慌てで手近な段ボールの箱を漁り、何か羽織れるものを探す。


「あ、あった」


 幸運にも、水色の服の束が、段ボールの箱の一つに収納されていた。


 それを急いでまとう。


「これって、入院着だよな」


 前で止めるだけの簡便な衣装は、水来の記憶の中にある。


「てことは、ここは病院なのか?」


 考えてみれば、全面白色の内装なんて、病院くらいしか候補がない。


「おーい、誰かいませんか?」


 部屋の外へと声をかけるが、反応は何もない。


「おーい。看護師さーん? 先生―?」


 三度ほど同じ試行をくり返して、水来は別の手段を取ることに決めた。


 もちろん、自分から部屋の外に出るのである。


 横スライド式の扉に指をかける。


 水来の力に抵抗する反力が、扉から加えられてきた。


「鍵がかかっているのか?」


 水来が無意識に、手に力をこめる。


 ガギン


 破断の音がして、扉が勢いよく開く。


 頑丈な金属錠がへし折れているのが、目に入った。


「マ、マズイ」


 先ほどとは真逆に、今の音が誰にも聞きつけられないことを期待する。


「……ふう、誰も来ない。……しかしまいったなあ。後で謝っておかないとなあ」


 この時の水来の加害者意識はわずかにすぎない。


(こんな不良品のカギを取り付けるなんて、いいかげんな業者もいたものだ)


 このような理論で、カギ屋へと責任を転嫁する。


 それも致し方がないことだろう。


 カギに何一つ異常が無かったなどと言う発想には、たどり着けるわけがないのだ。


 部屋の外に出ると、そこには案の定、病院の風景が広がっている。


 耳鼻科、内科、外科、心療内科……。


 どうやらここは、かなり大きな総合病院のようである。


(それにしても、えらくボロっちい病院だ)


 壁の白色は、さっきの部屋では気づけなかったが、経年劣化でグレーがかっている。


 診察室前のソファも傷だらけで、スポンジが大きく飛び出していた。


 当然、人気ひとけは全くない。


「廃病院って奴なのか?」


 自分で言っておきながら、かぶりを振って、その発言を打ち消した。


 廃病院で棺桶に閉じ込められていた。


 これ以上ないホラーなシチュエーションである。


「よく考えて見たら、これって本当に現実なのかな?」


 水来にしてみれば、そもそもそこから疑わなくてはならない。


 あまりにも状況が現実離れしている。


 水来は、もう自分が事故にあったことを思い出していた。


「う、うう」


 回転するタイヤに、身体が引きずり込まれる感触まで思い起こし、身震いした。


「い、今の俺は夢の産物に過ぎなくてさ。げ、現実の俺は病院のベッドで悪夢を見続けているのかもしれない」


 ぞっとする想像であった。


 水来は身体を走らせて、強引に恐怖を振り切ろうとする。


(ここが悪夢だろうと現実だろうと、やることは一緒だ!)


 ここから出ていけばいい。


 床に記された、『会計行き』のラインの上をひた走る。


「あ、あった」


 会計と、処方せん発行所と、受付が一体化した長大なカウンター。


 その先に、ひび割れたガラス扉がある。


 そこから、人工灯とは明らかに異なる自然の光が入り込んでいた。


「やった。出られるぞ」


 さらに走るスピードを上げる水来だったが、その行く手を阻むものが現れる。


 グルルルル

 フシュウウウ

 ガウウウウウ


「!!?」


 水来が足を止めた。


「な、何?」


 長いカウンターを飛び越えて、大型の獣たちが、一斉に姿を現した。


(い、犬の群れ!?)


 それが誤認であることは、すぐに分かった。


「ば、化け物……」


 ふらつく足取りで、水来が後ろに退がった。


 刃物みたいに鋭利な牙とツメ。


 ギラギラと光る赤目が、全身いたるところに配されている。


 口は裂け、そこから垂れる唾液は、床に触れると酸性の特徴を示した。


「あ、あ……」

 怪物の群れが、怯える水来を、たちどころに取り囲んだ。


 怪物たちは、水来の知らない目をしていた。


 それは、飢えた獣が、餌を見つけた時の歓喜の目である。


「!?」


 水来には、抵抗どころか、覚悟の間も与えられなかった。


 囮の一体が、水来の真ん前で、気を引く動きをする。


 同時に背後から、特に鋭い牙を持った個体が、水来の延髄に噛みついた。


「!?!?!?」


 太くて尖ったものが、後頭部にめり込む感触。


 同時に、水来の五感が消失する。


 ガルルルルル


 怪物の群れが、弛緩した水来の身体に殺到する。


 手が、脚が、頭が、噛み千切られる。


 水来の五体は、怪物たちに奪い合われて、さらに細かく引き裂かれた。


 怪物たちは、夢中でご馳走をほおばっている。


 水来がいた痕跡は、床に散らばる血痕と、水色の布切れだけだった。


 ギャウウウウウウ


 満腹気に目を細めていた怪物が一匹、突如苦しみだした。


 異変が瞬く間に伝播する。


 四肢を引きつらせて、全ての怪物が床の上をのたうち回っていた。


 怪物たちは、悶えながら、腹の中の肉を吐き出した。


 吐しゃ物は、異様な輝きを放っていた。


 青にも緑にも似たゲル状の物体。


 それが、床の上を這いまわりだす。


 怪物たちは、それから距離を取った。


 ゼリーの質感を持った物体が、一塊ひとかたまりになる。


 ゲルは縦に大きく伸びると、人の形を再び取り出し、


「え?」


 ペールオレンジに着色されて、北山水来が蘇った。


「え? え? え?」


 グルルルルル


 水来を見る怪物たちの目は先ほどとは一変している。


 全身の瞳が強い警戒感で充たされていた。


 怪物たちの逡巡と思しき間が、少し続いた。


 コォォォォォ


 突然、リーダーと思しき個体が独特の声で鳴く。


 怪物たちは、再び水来を取り囲んだ。


 目を見張るスピードで、水来を中心に、何重もの円軌道を取り出す。


 一斉かく乱からの同時攻撃が仕掛けられた。


 牙が、爪が、全方向から水来に迫り―――


「うわああああああああああああ!!!!」


 水来が絶叫した。


 見る間に、その体に変化が起きた。


 皮膚が裂け、体内から無数の刃が飛び出す。


 放射状に延びた刃から、さらに刃が枝分かれする。


 刃の枝葉が、怪物たちの身体をズタズタに切り裂いた。


 無数の断末魔が病院に木霊する。


 敵性体が完全に沈黙すると、水来の身体は再び人の形をとった。


「ああ、ああ、ああああ」


 水来を中心に、血の海が広がっていた。


 怪物たちの肉片が、島のように浮かぶ。


 水来は、自分がしたことされたことを、正確に理解していた。


 怪物たちに喰われた感触も、刃となって敵を切り裂いた感覚も、五感以上の何かによって、正確に感じとれていたのだ。


 震える足で、水来が真っ赤な海を横断する。


「これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ」


 うわ言のように呟きながら、病院から逃げ出そうとする。


 ここから出れば、夢は醒める。


 またいつもの現実がはじまる。


 母さんが、志郎が、みんなが俺を迎えてくれる。


 ひび割れたガラス扉を大きく引いた。


「―――」


 そこには、あまりにも絶望的な風景があった。


 大地に広がるのは、大量の血を吸ったような紅い砂漠。


 海原は毒々しい紫色に染まる。


 空は、黒と灰のマーブル模様が渦巻き、月が蒼ざめた色で輝く。


 そして、陸空海のすべてを、見たこともない化物たちが、我が物顔で跋扈ばっこしていた。


「うううう、うわあああ」


 水来は砂の上にへたり込んだ。


 夢と言うものは、脳が見せるものである。


 従って知らない夢は見ることが出来ない。


 自分の想像力ではとても補うことのできない超常的な風景に、水来は打ちのめされていた。

 これは現実なのだと認めるしかなかった。


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