終末の水来

アリムラA

第一章 終わった世界

第1話 オシマイ


「で、であるからして、こ、こ、このxが右辺に移って、符号がマイナスからプラスに変わり――」


 緊張で震えたピンクのチョークが、黒板上を揺れながら這いまわる。


 若い男性教師の額は、まだ春先だというのに、汗の珠が無数に浮かび上がっていた。


「で、できました。……うん。間違いない」


 教師は、自分の計算過程を、何度も何度も見返す。


「はい、みなさん注目」


 軽い倦怠に包まれていた教室で、二十八×二の瞳が、一斉に上向く。


「こ、これが45ページの公式の導出過程ですね。ぜひノートに取っておくように。す、数学というものは、式を暗記して問題に当てはめるだけではダメなんです。このように自ら公式を導き出せるようになっておくことで、素晴らしい数学の世界をより深く……」


 名誉挽回とばかりに饒舌になる教師だったが、

「先生、その数式、教科書と違ってます」

 最前列の女子生徒が、非情にもミスを発見してしまう。


「え、えええ? そ、そんなはずは」


 しどろもどろになった数学教師は、手元の教科書と黒板を何度も見返す。


「……あ、ほ、本当だ。最後の項の正負が違う?」


 ドっと教室中が沸き上がった。


「佐渡先生。またですか?」


「本当に東京の一流大学を出たんですか?」


「中学校の内容ですよ」


 散々に冷やかしの声を浴びせられるも、教師・佐渡からの反応はない。


「え、ええと。え、ええと」


 佐渡は、自分のミスを探すのに精いっぱいだ。


 この佐渡という人物が特段無能なわけではない。


 教育学部での成績はトップクラスだったし、人格的にも高い評価を得ていた。


 ただ、経験不足はいかんともしがたい。


 大学卒業から二月と経たない現状、授業も満足にこなせず、生徒の統率など夢のまた夢の有様だった。


「ど、どこだ。どこが間違っているんだ」


 佐渡の知能は、緊張で本来の十分の一も発揮できていない。


 中学レベルの問題に必死に目を凝らす。


「あははははは」


 その様子が、また中学生たちには楽しくて仕方がない。


 大きな笑いが、教室を揺らした。


「う、う、う」


 佐渡がさらに追い詰められていく。


「先生。三つ目の式です。そこから四つ目の式に移る際に、符号を一つ書き間違っています」


 この年代特有の、少年とも少女ともつかない声が、涼風のように流れた。


「あ、ああ、そ、そこか」


 ミスを発見した佐渡が、高速で板書を修正していく。


「ちぇっ、言っちゃった」


「もうちょっと遊びたかったのに」


「お節介すぎるぞ、水来」


 教室中の不満げな視線を、中性的な一人の少年が集める。


(い、いやいやいや。みんな意地が悪すぎるって。佐渡先生もういっぱいいっぱいだったじゃないか)


 子供と大人の中間であるこの年代は、大人の冷酷さと子供の残酷さを併せ持つ、ある意味もっとも怖い年頃であった。


 それは、同じく14歳の北山水来ミラから見ても、時に背筋が寒くなる。


 他人より多感で、特に繊細な少年は、見るに見かねて助け舟を出してしまったのだ。


「で、できた。うん。今度こそどこも間違っていない。はい、みなさん、注目です」


 佐渡が、公式の成り立ちやら、数学的価値を説明していく。


 こういう説明をさせれば、佐渡の能力は、ベテラン教師にも劣らない。


 生徒たちは、学習への集中力を取り戻し、無言でノートを取る。


「ちっ、北山の奴め。余計なことして」


 クラス後方から、悪意に満ちた声が一つした。


 その声は、特に悪質に佐渡をからかっていたものと同一である。


「それでは、これから練習問題を――」


 佐渡がそう言ったタイミングで、授業終了のベルが鳴る。


「れ、練習問題は宿題にします」


 数学は本日最後の授業であった。


 部活動に熱心な生徒たちが、早々と準備をはじめだす。


 クラスから教師の姿がなくなると同時に、


「おい、北山! なんで余計なことをした!」


 目つきの悪い男子が二名、水来の席に近づいてくる。


 彼らは、水来を挟み込むように、立ち位置を定めた。


「い、いや、だって。あれ以上やってたら、佐渡先生がさすがに可哀そう――」


「空気を読め!」


 あまりの大声に、クラス中の音がかき消える。


「ち、ちょっと」


「橋元君、言いすぎじゃないの?」


 声を上げようとしたクラスメイトもいるにはいたが、大柄な橋本に睨みつけられると、すごすご我関せずを決め込む。


「いいか、北山。空気を読む能力はさ、社会に出た時に一番大事なものなんだよ」


「お前だってイヤだろ。楽しんでる最中に横から茶々を入れられたらさ」


 橋本のお付きが、すぐさま主人ボスの意見を補強する。


「お前は何か勘違いしてるみたいだけどさ、あのやり取りは、佐渡の奴もイジられるのを喜んでいたんだ。イジッてイジられて、両者合意の楽しいレクリエーションだったんだよ。なのに、何をどう解釈しちゃったのか、おかしな横やりを入れちゃってさ」


 男らしい外見をしているくせに、ネチネチと水来の非をでっちあげる橋元。


 クラスメイトの多くが、心情的には水来の味方だったが、橋元の巨体を前に、口を動かせずにいた。


「う、うう……」


「そんな顔をするなよ。俺だって別にお前を嫌いでこんなこと言ってるわけじゃないんだ。ただ、お前の先行きを心配して、厳しいことを言ってるだけなんだよ」


 橋元が急に猫なで声を出した。


 もちろんこれを口撃の終了ではなく、ただ単に責めに緩急をつけただけである。


「……ふ、ふうん」


 気のない返事をするというのが、水来にできるささやかな抵抗であった。


 ところが、そのわずかな反抗が、橋元を激昂させた。


「なんだ! その返事は!」


 いきなり水来の机を殴りつけた。


「俺はお前のために言ってやってるんだぞ! それなのにそんな態度を取るとは何事か!」


 立て続けに、机に拳を振るう橋元。


「ね、ねえ。先生呼んできた方がいいんじゃあ」


 尋常でない怒り方に、クラスメイト達がさすがに危険を感じだす。


「で、でもうちの担任頼りにならないし」


 その時、水来とは対照的な、男らしい声がした。


「なんだよ、騒々しいな。うちのクラスまで怒鳴り声が響いてきたぞ」


 その少年が隣の教室からやってきたとき、


「「「あ」」」


クラスメイト達が、一斉に歓喜の声を上げた。


「し、志郎?」


 水来が、幼馴染の少年の名を呼んだ。


「よう、水来。一緒に帰ろうぜ」


 そう言って、谷口たにぐち志郎しろうは、気さくに手を振った。


 志郎が水来の隣に立つ。


 自然と、橋元と肩を並べる。


 二人の肉体の違いは顕著だった。


 空手部のエースとして鍛え上げられた志郎の筋肉を前にしては、橋元はただの早熟児だと露見してしまう。


「う、うう」


 にこやかに自分を見つめる志郎に、橋元はただ呻くだけだ。


「……」


 橋元のお付きは、すでに主人から数歩距離を取っていた。


 志郎の身体がピクリと動く。


 それだけで、橋元の顔面は蒼白になった。


「すまなかったな、橋元くん」


 いきなり、志郎が謝罪を口にした。


「「「え?」」」

 クラスにいた全員が驚く。


「いやさ、随分と水来の世話を焼いてくれたみたいじゃないか? 親友として俺からも礼を言うよ」


「あ、いや、その」


「こっから先は、俺が言っとくからさ。後は任せてくれないか?」


「? え?」


「どうか、頼むよ」


 志郎は、大げさに頭を下げて見せた。


 谷口志郎の後頭部を見上げるというシチュエーションに、橋元の顔が喜色に歪む。


「……き、今日は見るに見かねて苦言を呈したまでだ。俺だって北山のことは友達だと思ってる」


「分かってるよ。橋元くんは男らしい人だからね」


「俺におかしな意図はなかった。あくまで北山のことを想っての発言だ。それは分かってくれるよな」


「もちろんだ。もちろんだとも」


「そうか。それさえ分かってくれればいいんだ。ははは」


 橋元は、鞄を担ぐと、どこか満足げな足取りで教室を出ていく。


 俺はあの谷口志郎を謝らせたんだぞ。


 そんな自信が足運びから見て取れる。


 クラスメイトたちは、どこか不満げに事の顛末を見ていた。


 彼ら彼女らとしては、志郎が爽快に橋元をやりこめる展開を期待していたのだろう。


 だが、橋元という少年の陰湿さを、志郎はよく知っていた。


 ここで橋元の面子を潰しては、後でややこしいことになりかねない。


 自分が恨まれるならともかく、水来を逆恨みされては、助けに入った意味がなかった。


「はあ」


 昭和の家屋が居並ぶ住宅街。


 志郎と二人、帰路に着く水来が、突然ため息をついた。


「どうした?」


「いやね。……俺はいつになったら志郎から卒業できるのかなあって思って」


「ふふふ、なんて言い草だよ。水来は、三歳からつづく俺との友情に、ピリオドを打ちたいのか?」


「そ、そんなわけないだろう。志郎とはこれからもずっと仲良くしていたい。でも……」


 水来の負い目も、当然のことと言えた。


 幼少の折りから、その弱気を侮られて、今日のようなトラブルに巻き込まれてばかり。


 そんな時、助太刀に参じてくれるのは、いつも志郎である。


 厚い友情には心から感謝しつつも、親友を用心棒扱いしているようで、水来は心苦しかった。


「考えすぎだって」


「でも、実際のところ、俺は君に何もお返しができてない。俺は君に散々助けてもらってるのに」


「いいじゃん、別に」


「けど」


「お前は、他の人を色々助けているだろう。今日だって、佐渡の手助けをしてやったとか」


「君が俺にしてくれてることに比べれば、ささいなことだよ」


 誰にでもできることだと、水来は思う。


「俺のしてることだって、そんな大層なことじゃないさ」


「……」


「いいんだって。俺が水来を自分のできる範囲で助ける。水来は他の奴を無理のない範囲で助ける。そうすれば善意がぐるぐる世の中を回るだろう。いつかはきっと、水来の善意が俺にまで回って来るさ」


「はあああ」


 水来の口からさらに大きなため息が零れた。


「こ、今度はどうしたよ?」


「……なんでもない」


 言っていることがあまりにも立派すぎて、次は、劣等感が鎌首をもたげてしまったのだ。


『臨時ニュースです』


 女性アナウンサーの緊張がちな声が、突如、二人の耳に飛び込んできた。


 水来と志郎の耳目が、小さな電気店の外窓に設置された、展示用テレビに向く。


『本日午後二時ごろ、L国に隕石が落下した模様です』


 大きく破損した市街地が大型液晶には映し出されていた。


『幸いに死者は無かったようですが、多数のけが人が出ている模様です。警察車両や救急車が行き交い、現場は大変混乱しています』


 その映像を見ながら、

「L国のLって何の略だっけ?」

 と、志郎が尋ねた。


「お、俺に分かるわけないだろう」


 確か、おそろしく長ったらしくて、発音しにくい名前だった。


 クイズ番組で、『L国の正式名称は?』という問いが出題されたこともある。


「確か、水来のクラスの橋元みたいな国だったよな」


 その言い様に、水来は思わず吹き出してしまった。


 確かにL国は、国際社会の問題児として、よくニュースに取り上げられる。


 アメリカと揉め、中国と揉め、ロシアとも揉める。


 現在の工業に欠かせない希少な素材が、大量に埋積しているという地理的有利を言いことに、やりたい放題の国だった。


 テレビ画面が切り替わって、L国の国王が大写しになる。


 二人が初めて見る国王は、奇妙なことに、どこか橋元と似た顔立ちである。


『レイデュエル国王陛下。まずはこの度の事故につきまして、お悔やみの言葉を申し上げさせてください』


 国王に対峙する記者の一人が、沈痛な顔つきでそう言った。

『お悔やみ?』


『はい。隕石落下と言う不幸な事故で、大勢の負傷者が――』


『逆だ。君が今私に述べるべきは、お祝いの言葉だよ』


『……え?』


 記者席がざわつく様子が、しばし流れる。


『これは神の意思だ。我らが崇める神が、世界を我々の手に収めよと啓示を下したのだ』


『は、はあ。……あの』


 ジャーナリストという人種が言葉に詰まるのを、水来は初めて見た。


 国王は憐みの目で記者を見ていた。


『直に分かる。直にね。私の言葉が正しかったことを、世界中の人間が理解することになるだろう。ふふふ、ははははは』


 高らかな笑い声が、延々と公共電波を占領する。


『つ、続きましてはスポーツの話題です』


 画面が切り替わって、うろたえ気味の女性アナウンサーが映し出された。


「なんつうか、マジでイッてるな」


 志郎が、自分の頭の上で、くるくると指を回した。


「あるんだな。今でも、ああいう人が治める国って」


 日本の政治家も散々に批判されるが、さすがにアレよりはマシな部類だろう。


『――空手の村国選手が、総合格闘技への転向を発表しました。早ければ、来月の7日にも――』


「マジ! 村国が」


 格闘技マニアの志郎が、そのニュースにかぶりつく。


 水来はしばらくその様子に付き合ったが、いつまで経っても志郎は、そこを動こうとしない。


「マジマジ!? え? ガルシアと闘うかもしれないの?!」


「志郎。そろそろ」


「もうちょい。今いいとこなんだ」


「まったく。……ん?」


 車通りの少ない地区で、珍しくエンジン音がした。


 現在、水来たちのいる道は、歩道と車道の明確な区別のされていない、旧い道である。


 その細道の上を、猛スピードで、一台のワゴン車が走って来る。


 ワゴンを運転しているのは、作業着姿の中年男性。


 男は、携帯電話を片手に、ながら運転をしていた。


「志郎!」


 念のため、友達に注意喚起を促した水来だったが、


「もうちょい。もうちょい」


 志郎にその意図は全く伝わらない。


 そして、一生に一度、起こるか起こらないかの不運が、その時起った。


 道路上に放置されていた何やらを、ワゴンが踏みつけた。


「!?」


 高速で走る車体がバランスを崩し、吸い寄せられるように、志郎に突っ込んでくる。


 志郎はいまだスポーツニュースに夢中である。


「!!!!」


 水来は無我夢中だった。


 何一つとして考えていなかった。


 逆に、一つでも何か考えていたら、もう身体は動かなかっただろう。


 志郎の身体を、車の軌道から突き飛ばす。


 それにより、自身の身体が、危険なコースのど真ん中に位置する。


「いやあああああああああ」


 接触の瞬間、絶叫の声を上げたのは、被害者ミラではなく、運転手の方であった。

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