第12話「秘湯へ」(お題W5『温泉旅行』より)
夏休みに入って間もない頃だった。
「温泉旅行?」
「そ。実家が旅行券を送ってきてくれたんだ。暑い時期だけどあえて温泉に行って、心身をリフレッシュしようよ」
そうね、と私は即答した。私とカナメが同棲していることは周りに内緒にしているので、一緒に外出できる機会が滅多にないからだ。
そんなわけで私たちは温泉旅行に出かけることになったのだが、電車に乗るとどこでカナメのファンの目に触れるかわからないので、桐生家お抱えの運転手である小森さんの出番となった。乗る車はもちろん黒塗りの高級車。こいつでわざわざラーメンを食べに行ったことを思えば温泉に行くのは贅沢とは思えない、と若干感覚が麻痺しているのを自覚する私。
目的地の温泉は知る人ぞ知る秘湯らしく、有り体に言えばお嬢様学校の生徒が好んで行くような場所ではないと聞く。逆に言えば人の目を気にしなくていいということだ。何にせよ、温泉は久しぶりなので楽しみだ。
車は高速道路を、途中の
やがて小森さんが正しいと証明された。小さな脇道に入るとすぐに小さな旅館が見えてきた。狭い駐車場で停車すると、私とカナメだけは降りて小森さんは「ではごゆっくりと」と言い残して帰っていった。どうせなら一緒に泊まれば良いのにと思ったけれど、本人が固辞したから致し方なかった。
「父さんに勧められてここを選んだんだけど、その、なかなか歴史を感じる建物だな……」
カナメはポジティブな表現を心がけていたが、私の目には単なるボロ旅館にしか映っていなかった。駐車場には一台も停まっておらず、恐らく私たちだけだと思われた。辺りからはセミの鳴き声しか聞こえてこない。
「とりあえず、行くか」
私はカナメに続いて玄関をくぐった。
「いらっしゃいませ」
応対に出た女将さんは、七十代後半と思われるお婆さんだった。
「あの、今日予約していた桐生ですけど」
「桐生さんですね、ようこそ遠いところからいらっしゃいました」
女将さんは愛嬌のある笑顔を見せ、そのまま部屋に案内してくれた。
「お二人は高校生ですか?」
「ええ、親戚どうしでして」
「まあ、じゃあ今日はお二人でごゆっくりとくつろいでくださいな。今日はお二人しか客がおりませんので」
「はあ」
つまりは周りの目を気にする必要は全くないということ。ポジティブに考えよう。
女将さんの説明では、風呂はいつでも入れる上に露天風呂もあり、食事はもちろん部屋食。トイレは共同だけど私たちしか客がいないので特に気にする点ではない。だけどWi-Fiが使えるのには驚いた。十畳の部屋はそれこそ「歴史を感じる」ものだったにも関わらず。
「それでは、ごゆっくりと」
女将さんは退室した。足音が遠ざかっていくのを見計らって、カナメに問うた。
「ねえカナメ、お父さんが勧めたところ間違ってたんじゃないの?」
「いや、確かにここだって言ってた。ちょっとびっくりするかもしれないが良い場所だとも言ってたし……」
「じゃあお父さんの言葉が本当かどうか、温泉に行って確かめようか」
そういうことで早速温泉に浸かることになった。
温泉は弱アルカリ性単純温泉で、肌に良いと説明書きが更衣室に書かれていた。一応、温泉分析書もちゃんと掲示されている。まじまじと読んでたら「疑り深いなあ」とカナメに笑われてしまった。
カナメはすでに一糸まとわぬ姿になっていた。一緒に暮らしていても全裸を見る機会は今まで無かったけれど、程よく引き締まったボディについ見とれてしまいそうになった。
そんなカナメがこんなことを口走った。
「みずはの胸、大きくて良いなあ……」
「はあ?」
私は上だけ先に脱いでいた。美貌に似合う引き締まった肉体の持ち主が私の胸を羨ましがる構図がおかしくて、笑いがついこみあげてきた。
「大声で笑わなくていいじゃないか」
「まあ、まあ。早く入るわよ」
浴場は広くはなかったけれど、二人だけが入るのなら充分だった。しかし洗い場に置かれていたシャンプーとコンディショナーとボディソープはどれも高級品だったのが目を引いた。外観と部屋がボロかっただけに不意打ちを食らった気分だ。
頭と体をしっかり洗ってからいよいよ入浴へ。暑すぎずぬるすぎずの良い湯加減で、つい大きなため息が出そうになったが、オッサン臭いので堪えた。
「これはなかなかいい湯ね。疲れが溶けて出ていきそう」
「う~極楽極楽」
「カナメ、オッサンみたい」
そう言った途端にお湯を引っ掛けられた。私がやり返したら、カナメも面白がってまた引っ掛けてくる。それから童心に帰ったかのようにお湯を掛けあっては笑いあったがが、もし他の客がいたら迷惑行為で怒られるところだ。
しばらくしてカナメが「露天風呂行こうよ」と言って、浴槽から出た。お湯を滴らせる姿は艶っぽくて、私が見てもドキッ、とさせられるものがあった。ファンだったら卒倒して湯の中に沈んでいたかもしれない。
露天風呂は簡単な囲いで覆われただけの素朴な作りだが、セミの大合唱を聞きながらの湯はなかなか風情があるものだった。ここに来て私はようやくカナメのお父さんには審美眼がある、と認めることができた。
二人並んでしばし湯に浸かっていると、カナメが不意に呟いた。
「天国って現世にも実在するんだな……」
「カナメったら大げさな……」
カナメの顔を見たら、まぶたがトロンとしている。
あ、これはもしかして。
カナメは抗う様子を見せたものの叶わず、ついに眼が閉じられた。その途端、カナメが私により掛かってきた。
「ちょっ、カナメ……」
くーくー、と鼻と口から息が漏れている。
しばらくそっとしてやりたい気持ちはあったけれど、ここはあいにくお湯の中だから放っといたらふやけてしまう。私は体を揺さぶって、夢の世界から連れ戻した。
「んあ?」
ものすごい寝ぼけ顔だった。ファンが見たら泣くような。
「ほら、上がるわよ」
「おわっ!」
私はカナメの顔に湯をぶっかけて覚醒させた。弱アルカリ性の湯は顔面をツルツル美肌にしてくれることだろう。
(続く)
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