第4話「空腹との戦い」 (お題D44『ガム』より)

「カナメ様、お気をつけて!」

「じゃあ、またねー」


 私は女の子たちに手を振ると、小森さんが運転する送迎車に乗り込んだ。


「あー疲れたー」


 気が緩んだ途端にふぁぁ、と大きくあくびが出てしまった。聖女学院の王子様として振る舞っている以上、取り巻きの女の子たちの前では絶対に見せられない態度だ。


 今日は人付き合いが大変な一日だった。生徒会の人たちにお茶会に誘われて足を運んだはいいが、彼女たちの目的は私の人気と家柄にあやかること。見え透いたお世辞を聞かされるのが辛いのなんの。紅茶もお菓子も全然美味しくなかった。


 それに比べたら、みずはの手料理の方が遥かに美味しい。今日のみずはは委員会活動が無いので一足先に帰宅している。晩御飯のメニューは私の大好物の一つ、ボルシチだ。ああ、早くみずはのボルシチが食べたい。


 車が国道に入ったときだった。私は思わず「何これ?」と口走った。道路はいつになく渋滞していて、ピクリとも動かなくなってしまったのだ。いくら交通量が多い時間帯とはいえこれ程までに混雑しているのは見たことがない。


「おかしいですね、カーナビには渋滞情報が入ってきてないですが……」


 小森さんが申し訳なさそうにこちらを見た。


「何だろうな、一体」


 その原因はすぐわかった。道路脇に「1km先緊急工事中」の看板が立てられているのを見たからだ。


「カナメさま、申し訳ございません」

「小森さんが謝ることじゃないよ。仕方ない」


 こういう日もあるものだ。


「あ、そうだ。みずはに電話しないと」


 私はスマホを取り出して、みずはの番号に送信した。


『もしもし』

「あ、みずは。ごめん、車が渋滞に巻き込まれてさ。帰るの遅くなる」

『わかった。ボルシチを用意して待ってるからね』


 改めてボルシチの名前を聞いた途端、とめどない空腹感が襲ってきた。それはぐ~、という、情けない音で表現されてしまった。


「……」


 聞いたのが小森さんだけだったのが不幸中の幸いだった。


「食べますか?」


 小森さんがすかさず、私に差し出した。それはガムだった。


「ありがとう。頂きます」


 この際、空腹が紛れるなら何でもいい。私はガムを口に放り込んで、咀嚼した。その瞬間、きついミントの香りが鼻から抜けていき、くしゃみが出てしまう程だった。


「な、何これ? 普通のブラックガムじゃないよね?」

「通常の十倍の刺激物が入っている特製品です。ドライバー必須のアイテムですよ」


 そんなシロモノを食べさせるとは……でも空腹感は刺激のおかげで中和することができた。


 しかしその効果も束の間で、味が無くなると今まで以上に空腹感を覚えだした。車はすでに工事地点を通り過ぎて、鬱憤を晴らすかのように制限速度プラス20km/hで走る。普段は安全運転の小森さんも、私の気持ちを汲んでくれているようだ。


 私はカバンからポケットティッシュを取り出して、その中にガムを吐き出して丁寧に包み込んだ。もうみずはお手製のボルシチのことしか頭に無かった。


「小森さん、もう少し飛ばせないかな?」

「申し訳ございません、これが限界です。我慢なさってください」


 私の胃が大きく鳴って、空腹を主張した。


「小森さん、ガムをもう一枚ちょうだい!」

「申し訳ございません。さっきので最後です」

「ああああ!!」


 私は悶えた。


 ようやくマンションに着いて、エレベーターの↑ボタンを連打して乗り込んで、四階で降りてすぐ側にあるみずはの部屋。カードキーをかざしてロックを解除すると、私はローファーを脱ぎ捨てて猛ダッシュでダイニングに向かった。


「あ、おかえり……」


 私はみずはに抱きついて叫んだ。


「ただいまーっ! もうお腹ペコペコで死にそう!」

「わ、わかったから放してよ……苦しい……」

「ごめんごめん」


 今晩のみずはのボルシチは恐ろしい程に美味しく、滅多にしないおかわりをしてしまった。

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