1-10
涙が滲んで一筋流れる。ここは自分の部屋ではないのに涙が止まらない。
扉をノックする音が聞こえても泣き止むことができなかった。
『あんたハーブティー飲める? ……泣いてんのか?』
加納が戻ってきても有紗は泣き続けた。崩れてしまった心はなかなか平静には戻らない。
短い溜息とパイプ椅子の部品が軋む音がした。耳元で加納の息遣いを感じたと思えば、有紗の身体は温かくて優しいぬくもりに包まれていた。
このぬくもりは意識を失う寸前にも感じたあのぬくもりだ。
『いつもはバカみたいにうるさくて元気なのにな』
「バカって……ひどい……」
あったかい、やさしいぬくもり。早河に似ている落ち着くぬくもりにさらに涙が溢れた。
『あんたの過去に何があったか知らないけど、一緒にいた友達とか……あんたの味方になってくれる人間は沢山いると思う。だからそんなに泣くな』
加納だって事情を何も知らない。でも今は彼の言葉が嬉しくて彼のぬくもりに救われた。
「加納くん、ミントティーならすぐ出来るけど……うわっ! ごめんね、お取り込み中だったね」
有紗の接客を担当してくれた女性店員が更衣室の扉から顔を出してすぐに扉を閉めた。舌打ちした加納は有紗から離れ、閉められた扉を開けて廊下に出た。
『お取り込み中ってそんなんじゃないですから』
「いいのいいの、気にしないで。彼女が目を覚ましたなら加納くんも一緒に帰ってあげなよ。もう今日は上がっていいって店長言ってたよ」
『何で俺が一緒に……』
「あの子のこと心配なんでしょ?」
廊下でのやりとりは有紗には聞こえない。口ごもる加納を押し退けて女性店員は更衣室にいる有紗に声をかけた。
「大丈夫?」
「はい。ご迷惑おかけしました」
ハンカチで涙を拭った有紗はかけられていたブランケットを丁寧に折り畳む。
「帰る前に温かい飲み物でも飲んでもう少し落ち着いてから帰った方がいいよ。こっち来られるかな?」
女性店員に手を引かれて立ち上がる。足元がくらっとしたが歩けないほどではない。
加納が有紗のコートと荷物を持って後ろをついてくる。
「まだ営業中だから騒がしくてごめんね。ここに座ってて。加納くんも一緒にいてあげてねー」
カフェのバックヤードに連れて来られた有紗は困惑の表情で加納を見上げた。
「私がこんな所にいていいんでしょうか……」
『
麻生とはさっきの女性店員のことだ。エプロンの名札にアソウの名札があった。
有紗と加納はバックヤードの隅のスツールに腰掛けた。
『あんたと喧嘩してたキャバ嬢みたいな女……』
「美咲のことですか?」
『ああ。同じ学校だった奴?』
「去年までは……。あの子は退学したので」
『へぇ。聖蘭学園ってお嬢様ばっかり通ってるイメージだったけどあんなケバい女もいるんだな』
美咲を酷評する加納に有紗は何も言えなかった。今日会った美咲はまるで去年の自分を見ているようで、加納からすれば去年までの有紗も美咲と同類に見られてしまうかもしれない。
話が途切れたタイミングで麻生が湯気の立つマグカップを運んできた。
「はい、ミントティー。すっきりするよ」
「いただきます」
ミントの爽やかな香りを嗅ぐだけで気分がすっきりする。
「美味しい……」
「良かった。ゆっくりしていてね」
麻生はまた厨房に戻る。ミントティーは有紗のためにわざわざ作ってくれたようだ。
「あ、お茶のお金払わないと……」
『サービスだからいい。麻生さんと店長の気持ちだ。有り難く受け取っておけよ』
店で倒れたあげく、ミントティーをタダで提供してもらい申し訳ない気持ちになる。でも有紗を心配してしてくれたことだ。
善意を無駄にしてはいけない。
加納も麻生も、たまにここにやって来て様子を見て声をかけてくれるスタッフ達も興味本位に有紗に事情を尋ねたりしなかった。
美咲の話し声は店中に響いていた。加納以外のスタッフ達も有紗のせいで人が死んだと美咲が言っていた言葉を耳にしているだろう。
有紗はミントティーの入る温かいマグカップに冷えた手を添えた。
「美咲があんな大声で話していたのに皆さん何も聞かないんですね」
『人の事情を根掘り葉掘り探るほどみんな暇じゃねぇよ。クッキー食べる?』
カウンターにはキャラクターの絵のついたお菓子の缶が置かれ、缶の蓋にはご自由にどうぞと貼り紙がしてある。スタッフの誰かがテーマパークに行った時のお土産のようだ。
有紗は加納からクッキーを受け取った。クッキーの袋にも可愛らしいキャラクターの絵柄がプリントされていた。
『中には詮索好きな奴もいるけど、それなりに生きてればみんな色々抱えてるものだろ。身軽な人間の方が少ない』
「加納さんも色々抱えているんですか?」
『俺はまぁ……強いて言うなら大学の奨学金の返済とか就職とか。麻生さんもあれでシングルマザーなんだぞ』
「そうなんですかっ? あの人まだ大学生くらいに見えましたけど……子どもがいるなんて見えなかった」
ミントティーを作ってくれた麻生がシングルマザー。人は見かけによらない。
『あんまり人のことペラペラ喋るもんじゃないけど、麻生さんは高校の時に出産してるって言ってた。子どもは小学生だ。みんな色々抱えてるんだよ。だからその……あんたはうちによく来てくれる常連だし、常連の顔はスタッフは覚えてるものだ。あんたの事情がどうあれうちの店の大切なお客さん。あのケバい女よりもな』
加納の言葉に涙腺が緩む。最近は泣いてばかりだ。ちょっとしたことでも涙が出る。
『話聞いて欲しいなら聞くけど、なんだかデリケートな話っぽいし、あまり言いたくないだろ?』
泣きながら有紗は頷いた。無愛想で態度が悪いくせにどうして今日の彼はこんなに優しくしてくれるのか不思議だった。
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