9.思い出の公園

 時刻はもうすぐ午後3時。芽依は自宅のベッドの上で小説を読んでいた。

今日は書店のバイトは休みの日。朝から好きな映画のDVDを観たり読書をしたり、休日を有意義に過ごせている。


 でもどんなに夢中になって映画を観たり読書をしても、彼のことを思い出してしまう。

赤木奏……あの男のことを考えると無意識に流れる懐かしくて物悲しい童謡のメロディ。

彼の右手の甲の火傷の痕を見た瞬間に全身が脈打ち、熱が出たみたいに顔は熱くなって心臓がドキドキした。


 10年前の“お兄ちゃんが”作ってくれたホットココアは美味しかった。10年前のお兄ちゃん……あの人はどこにいるの?

もう一度、あの人に会いたい。

どこに行けば会える?

どこに行けば……


 芽依はショルダーバッグに携帯電話と財布、自転車の鍵と電子マネーの乗車カードを詰め込んで部屋を出る。


「今からお出掛け?」

「うん。お夕御飯までには帰るね」


母にいってきますと告げて彼女は自宅を飛び出した。


        *


 赤い夕日の中で子供達が元気に遊び回る日曜日の公園。

東京都小平市の小平中央公園の小道を赤木奏は歩く。少しずつ紅葉の色づきを見せるイチョウの葉が赤い光を浴びていた。


地面に落ちている葉を拾い上げる。焦げ茶色の枯れ葉を見て赤木は口元を上げた。


(あいつによく落ち葉を作ってやったな……)


         *


 芽依は西武鉄道国分寺線の鷹の台駅で電車を降りた。乗り換えを三回、家を出てから1時間かけてここまで辿り着けた。


鷹の台駅は小平市にある。10年前まで暮らしていたこの街が芽依は好きではない。

彼女にとって良い思い出の多い街ではないからだ。


 鷹の台駅のすぐ側の小平中央公園の入り口の前で深呼吸をする。良い思い出のない街で唯一この公園だけが芽依の大切な思い出の場所。


ここであの人と出会い、あの人と楽しい時間を過ごした。この公園であの人と過ごす一時だけが芽依は芽依としての人格を持ち、何物にも拘束されずに自由でいられた。

ここは“お兄ちゃん”との思い出の場所だ。


 昔の記憶を頼りに小道を進む。入り口から少し入ったところにひょろりと背の高い男が立っていた。


(なんで……あの人が……)


進み出した足が震えている。芽依はゆっくり、ゆっくり、その人に近付いた。


「あの……赤木さん……ですよね?」


 芽依に声をかけられた赤木はしばらく無表情に彼女を見つめる。


『ああ……昨日の本屋の店員さん?』

「はい。こんなところで……偶然ですね」


赤木に向ける笑顔がぎこちない。どうして、どうして、ここにいるのと今すぐ問い質したかった。


「何してるんですか?」

『木を見てる』


彼は顔を上げて秋色に色づき始めた木々に視線を送る。ぎこちなかった芽依の笑顔はその答えを聞いて自然な微笑を見せた。


「見ればわかります」

『君はどうしてここに? 家がこの辺りなの?』

「家は……遠いところにあります。ここに来たのはなんとなく……。赤木さんはどうしてここに?」

『俺もなんとなく。こうして自然と触れ合うとデザインのインスピレーションが浮かぶから』


 今日の赤木は昨日見掛けたスーツ姿ではなく、ラフな私服だった。


「デザイン関係のお仕事なんですか? 昨日注文された本も美術書でしたね」

『デザイン事務所で働いてる。昨日の本は仕事とは関係ないただの趣味』


淡々とした抑揚のない話し方も昔どこかで聞いた覚えがある。抑揚のない声色に含まれる彼の優しさを芽依はすでに知っている気がした。


「いきなり変なことをお尋ねしてもいいですか?」

『内容によるけど、何?』


 赤木は木を見上げたまま答える。彼の右手の甲にはやっぱり今日も火傷の痕があった。

見間違いでも錯覚でもない、紛れもなく火傷の痕だ。


「赤木さんは10年前はおいくつでした?」

『10年前に小学生の子どもだったように見える?』

「いいえ……10年前にハタチくらい?」

『今32。10年前は22』


10年前にここで出会った“お兄ちゃん”も大学生だった。昨日から感じていた芽依の予感が確信に変わる。


「この近くに美術大学がありますよね。もしかして赤木さんはそこに通っていましたか?」

『そうだけど何が聞きたいわけ?』


苛つく様子の赤木が芽依に不審な眼差しを向ける。見ず知らずの人間に脈絡なく年齢や出身大学を問われれば誰でも不審がって当然だ。


「ごめんなさい。私は10年前までこの街に住んでいたんです。この公園は通っていた英会話塾の近くで……塾が始まる前によくここに遊びに来ていました」


 赤い太陽の反対側には長く伸びたふたつの影法師。刻々と迫る日没を前にして空に描かれる真っ赤な夕焼けは赤い絵の具みたいに鮮やかだ。


「小学3年生の時にここで大学生のお兄ちゃんと出会いました。お兄ちゃんはベンチに座って、スケッチブックを持っていて……お兄ちゃんは絵がとっても上手でした」


涙ぐむ瞳の向こうに赤木奏がいる。今の彼がどんな顔をしているのか涙で滲む視界ではよく見えない。


「お兄ちゃんの右手の甲には火傷の痕があって……」

『芽依……なのか?』


芽依の言葉を赤木が遮る。久しぶりに“お兄ちゃん”の声で名前を呼ばれた。その声で一緒に口ずさんだ童謡のメロディが記憶の中に流れ出す。


「そうだよ……“お兄ちゃん”」


 気付いた時には赤木に抱き付いていた。彼の身体は温かくて煙草の香りがした。10年前と同じ香りだ。

困惑する赤木は芽依を見下ろす。彼の両手は地に向けて下ろされていて芽依の身体には一切触れない。


『……芽依。離れてくれ』


今度の彼の声は重苦しかった。芽依の目から溢れた涙が頬を濡らす。


『俺から離れろ』


冷たくぶっきらぼうな口調が悲しくて芽依は泣き顔を歪めた。


「なんで?」

『“約束”忘れたのか?」


 約束……10年前の〈約束〉

ハッとした芽依は赤木の背中に回していた腕をほどく。二歩下がって彼と距離をとった。


「ごめんなさい」

『早く帰れ。ここにはもう来るな。ここはお前がいるべき場所じゃない』


芽依に背を向けた赤木は彼女を残して公園の入り口に歩を進めた。やがて赤木の姿はどこにも見えなくなり、ひとりにされた芽依は涙を流してうずくまる。


「やっと会えたのに……」


“約束”したから。

だからさよならなんだよ……

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