8.落ち葉の約束
――10年前、2001年11月
佐久間芽依が児童養護施設みどり園に入所して2週間になる。室内で思い思いに遊ぶ子ども達の中で少女は誰とも口を利かずひとりで絵を描いていた。
「芽依ちゃん何描いてるの?」
長屋園長が声をかけても芽依は沈黙を守ったまま赤い色鉛筆で絵を描いていた。
「落ち葉? もみじの葉っぱかな? 上手だねぇ」
園長は白い画用紙に次々と描かれる赤い葉の絵に感心した。赤い落ち葉はお世辞ではなく本当に上手い絵だった。
葉脈までひとつひとつ丁寧に描かれ、ギザギザと細かく刻まれた葉の形、色の付け方も赤、ピンク、オレンジ、茶色を使って濃淡をつけている。
芽依の母親の佐久間聡子は教育熱心な親だったらしく、習字や英会話塾に芽依を行かせていたとは聞いているが、絵画教室に通わせていた話は聞いたことがない。
だが芽依の絵の描き方はプロに教わったとしか思えないほど、小学生が描くにしては非常に精巧な絵だった。
芽依はハサミを器用に操って描いた落ち葉の絵を切り抜いた。白い紙から切り抜かれた赤い落ち葉は本物のもみじの葉のようだ。
「凄いね! 本物そっくりだ」
園長が褒めると芽依が初めてにこっと笑った。作品を褒められたのが嬉しかったらしい。彼女は笑うとえくぼのできる笑顔の可愛い少女だった。
「この葉っぱの作り方は誰かに教えてもらったの?」
園長が尋ねると笑っていた芽依の瞳にまた影が差し、可愛い笑顔は元の無表情に戻ってしまった。園長の質問を無視して芽依は黙々と葉を切り抜いている。
芽依の落ち葉の作品は園内で有名になり、芽依が作った落ち葉を集めた貼り絵は額に入れられて園の玄関に飾られた。
*
現在、2011年10月9日
長屋園長が沙耶を玄関に案内する。アヤコ先生に連れられて入った玄関は職員用だったがここは児童用の玄関だ。
子ども達の靴が並ぶ靴箱の隣、白い壁を背にして40号サイズの額が飾られている。
「これが10年前に芽依ちゃんが作った落ち葉の貼り絵です。10年経った今でも飾ったままにしています」
額の中には画用紙いっぱいに貼り付けられた赤い落ち葉。様々な形の葉は葉脈の模様も丁寧に描き込まれ、落ち葉の赤の色合いも絶妙な濃淡だ。
背景は絵の具で描かれた真っ赤な夕日。茜色の夕焼け空に赤い落ち葉がひらひら舞っていた。
絵心のない沙耶でもこの絵を当時小学生の少女が作り上げるには常軌を逸していることはわかる。
「凄いですね……これを芽依ちゃんが?」
「ええ。落ち葉も夕日もすべて芽依ちゃんがひとりで作ったものですよ」
「当時10歳の子がひとりで全部? 信じられない……プロ並みですよこれは」
昔に何度か遊んだことがある佐久間芽依にここまで絵の才能があるなんて知らなかった。
「私も信じられませんでした。芽依ちゃんは驚くほど絵が上手だったんです。彼女は絵画教室に通っていた経験はありません。芽依ちゃんの絵の才能が天性のものか誰かに教わったものかもわかりません」
園長もじっと落ち葉と夕日の赤い情景の作品を見つめている。
「私も芽依ちゃんと遊んだことがありますけど芽依ちゃんが絵を描いてるところを見たことはありません。落ち葉の作り方や絵の話になると芽依ちゃんは口を閉ざしてしまうんですよね?」
「そう。ここにいる1年の間に他のことはお話してくれるようになったんです。でも事件の話と絵のことは……。折り紙で落ち葉を折るのも上手でしたね。そういった創作を誰に教わったのか聞くと芽依ちゃんはいつも黙ってしまうの」
外で遊んでいた子ども達が戻って来た。元気いっぱいな子達の中には沙耶を見ると職員の後ろに隠れてしまう少年や少女が数人いて、アヤコ先生や園長が「大丈夫だよ」と優しく声をかけていた。
廊下を行く子ども達の賑やかな声が少しずつ遠ざかって玄関前は再び静寂に包まれた。
「芽依ちゃんが事件前まで通っていた小平市の小学校の先生にも聞きましたが、芽依ちゃんの絵が上手くなり始めたのは小学3年生の秋頃だそうです。事件が起きた時に4年生でしたからその1年前ということですね」
「小3の秋……。その時期に芽依ちゃんはプロの絵描きや絵心のある人と出会って、その人に絵を教わった……? ひょっとしてその人物が犯人?」
「西崎さん」
園長の冷ややかな声に沙耶は肩を竦める。
「すみません。軽率な発言でした」
「私も芽依ちゃんにはご両親とは別にして誰か、芽依ちゃんにとって大切な人がいたような気はするんですよ。芽依ちゃんを慈しみ、愛してくれた人がいたんじゃないかって。この絵の題名を見てください」
園長が額の下のプレートを指差した。プラスチックのプレートには作品のタイトルが書かれている。
赤い夕日に舞う赤い落ち葉の絵の題名は……約束。
「〈約束〉……芽依ちゃんと誰かとの約束?」
「西崎さん。私はあなたの意見を真っ向から否定するつもりもないんですよ」
プレートの文字に首を傾げる沙耶の隣に園長が並んだ。
「これは私がこの10年、心に仕舞い続けてきたことですが……芽依ちゃんはその大切な誰かを庇っているのではないかと思えてならないんです」
「芽依ちゃんの大切な誰か、この絵の〈約束〉の相手が佐久間夫妻を殺害したと園長先生はお考えですか?」
「あなたもそう考えているのでしょう?」
沙耶は迷いなく首肯した。
「はい。少なくとも芽依ちゃんが事件後1週間、衰弱や怪我もなかったことや、芽依ちゃんの衣服が事件当日と異なっていることを考えると芽依ちゃんの衣食住の面倒を1週間誰かが見ていたことになります」
昨夜から事件資料を読み込み、ここに来るまでの間に思い至った結論を彼女は述べる。
「佐久間夫妻に兄弟はなく、夫妻のどちらの実家も関東ではありません。小学生の女の子が親戚ではない他人の家に1週間も滞在できるでしょうか? それも事件はテレビで話題になって芽依ちゃんの捜索も大々的に行われていました」
「もしも芽依ちゃんがどこかのお宅で保護されていたとしても、すぐに警察に届けられるでしょう。1週間あの子が誰とどこにいたのか……」
「芽依ちゃんと1週間一緒にいた人物が芽依ちゃんに絵を教えていた、彼女の大切な誰かだと考えれば筋は通ります」
沙耶と園長は玄関前から廊下を歩いて園長室に戻った。
「あの絵の題名の〈約束〉の意味も芽依ちゃんは教えてくれませんでした。誰とした、どんな約束なのかは芽依ちゃんのトップシークレットなのよ。芽依ちゃんにその大切な人についての話を聞くことは彼女の心を傷付けることになります」
「はい……」
「真実は必ずしも人を幸福にするとは限りません」
沙耶は無言で頷いた。長屋園長は戸棚からファイルを出して何かを探している。
「だけど私も知りたいのです。私達に心を開かなかった芽依ちゃんが何をそんなに守っていたのか。あの小さな体で誰を必死に守っていたのか知りたいと思っています」
ファイルのページを見ながら園長はメモ用紙にあることを記入する。そのメモを沙耶に渡した。
「芽依ちゃんは子どものいないご夫婦と養子縁組をしました。これが今の彼女の名前です」
「
園長の達筆な文字で書かれた清宮芽依の名は沙耶の知る10年前の佐久間芽依がすでに存在しないことを意味していた。
みどり園を出て車に戻った沙耶は園長に渡されたメモを見つめる。
清宮芽依。この名前が今の彼女の名前。
芽依を養女として迎えた清宮夫妻には長年子どもがいなかった。養子を迎えることを考えていた清宮夫妻は定期的にみどり園を訪れ、園で過ごす子ども達の中から自分達と家族になれる“運命の子ども”を探していた。
彼らにとっての運命の子どもが佐久間芽依だった。
11歳の時に佐久間芽依は清宮家の養女となり、清宮芽依に生まれ変わった。10年前に10歳だった彼女は20歳になっている。
長屋園長からはくれぐれも芽依の現在の幸せを壊さないようにと念を押された。沙耶にしても昔一緒に遊んだ女の子が掴んだ幸せを邪魔するつもりはない。
でも誰も傷付けずに真実を追うなんて果たしてできるだろうか?
いや、それよりも誰かを傷付けてまで真実を追うべきなのか。
真実の先に待つものが希望ではなく絶望ならばその真実は誰も幸せにしない。
誰も望まない真実を見つけたところで何になる?
幼稚園とも小学校とも似て非なる場所に別れを告げて沙耶の車は走り出した。
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