7.癒えない傷
10月9日(Sun)
沙耶は東京都
国井副編集長に10年前の佐久間社長夫妻殺人事件の特集記事を任されてから一夜明け、沙耶はすぐに小平市に住む実家の母親に連絡を取った。
沙耶の母は町内では情報通と知られている。言ってみれば噂好きの
あの母ならば10年前に殺害された佐久間夫妻の娘がどこの施設に引き取られたのか知っているのではと彼女は考えた。
沙耶の勘は大当たり。母から佐久間夫妻の娘は小平市の隣の国分寺市の養護施設に引き取られたと教えてもらった。
10年も前のことを覚えている母の記憶力と衰えを知らない情報収集能力には呆れを通り越して脱帽するが、今回だけは母の記憶力と噂好きの性格に助けられた。
みどり園側には午前中に取材の旨を伝えてある。電話の対応では随分警戒した様子だったが園長が渋々取材を承諾してくれた。
一軒家やアパートが並ぶ住宅街の一角にみどり園は建っていた。園側から指定された園の駐車場に車を停める。
駐車場と駐輪場が一体になった敷地の隣にはビニールハウスと畑があり、養護施設の職員と思われる大人と子ども数名が土いじりをしていた。
門の向こうの庭でも子ども達が遊んでいる。子ども達の輪の中にエプロンをした若い女性がいた。彼女もここの職員だろう。
沙耶は門扉を挟んで女性に声をかけた。
「こちらの
門扉越しに沙耶は名刺を差し出す。女性は戸惑いがちに名刺を見てから「ああ……」と小声で呟いた。
「門を開けますのでお待ち下さい」
彼女はエプロンのポケットから門の鍵を出して鍵を外し、沙耶に向けて門扉を開いた。
「アヤコ先生ー! ショウ君が滑り台の順番守らないのぉー!」
5歳くらいの少女が女性に駆け寄ってくる。少女は“アヤコ先生”のエプロンの裾を引っ張った。
「ショウ君、順番は守らないとダメよー! ……すみません、どうぞ」
「先生、この人だぁれ?」
園に入ってきた沙耶に少女は興味津々のようだ。
「園長先生のお客様よ。ミライちゃんはみんなと遊んでてね」
アヤコ先生に言われて“ミライちゃん”は庭で遊ぶ子どもの群れに帰っていく。
アヤコ先生に案内されて沙耶はみどり園の建物に入った。廊下の壁には子ども達が作った絵や工作が飾られ、園内の雰囲気は幼稚園や小学校に似ている。
建物や遊ぶ子ども達の雰囲気も幼稚園や小学校と変わらないと感じたことをアヤコ先生に伝えようとした時、廊下の向こうから歩いてきた女の子が沙耶を見て立ち止まった。
「マミちゃん。この人は大丈夫だよ」
アヤコ先生が優しく“マミちゃん”に話しかけてもマミちゃんはその場を動かない。彼女は沙耶を威嚇するような鋭い眼差しを向けていた。
小学校低学年くらいのマミちゃんから放たれる冷たい視線に沙耶は背筋がぞっと寒くなった。
マミちゃんの反応は沙耶に興味を示したミライちゃんとは正反対だ。
「お部屋に行ってなさい」
マミちゃんの頭をアヤコ先生が優しく撫でるとマミちゃんは素直に頷いて階段を駆け上がっていった。
「申し訳ありません。あの子は親に虐待されていた子なんです。だから大人を怖がるところがあって、ここの職員以外の大人を警戒しているんです」
「そういった事情を持つ子達が引き取られている施設ですものね。でもさっきのミライちゃんは天真爛漫な印象を受けましたが……」
「ミライちゃんは1歳の頃からうちで育っているのでここ以外の世界を知りません。きっとミライちゃんの明るさはそれが幸いしているのでしょう。外の世界を知ってしまってからここに来た子達はあんな風にはいられません」
長い廊下をアヤコ先生と並んで歩く。最初に接したミライちゃんがあまりにも沙耶が抱く“普通の子ども”だったせいで忘れかけていたが、ここは小学校でも幼稚園でもない、児童養護施設だ。
「ミライちゃんのように自我が芽生える前からこの園で過ごす子もいますが、大半は小学校に上がる前に児童相談所に保護されてここに来た子達ばかりです。マミちゃんもここに来たのは去年なんですよ。みんな大人に体も心も傷付けられて癒えない傷を負って……最初は私達職員と目を合わせることもしてくれません」
幼稚園や小学校と似て非なる場所、それが児童養護施設だと沙耶は痛感した。言動のひとつひとつに細心の注意を払わなければならない。
廊下を曲がった先の茶色の扉をアヤコ先生がノックする。
「お客様をお連れしました」
「どうぞ」
品のいい婦人の応答の後にアヤコ先生が扉を開けた。短く刈り上げた白髪に銀縁の眼鏡をかけた婦人が立ち上がって沙耶を迎える。
「みどり園の園長の長屋です」
「風見新社の西崎です。この度はお時間をいただきましてありがとうございます」
沙耶の名刺を受け取った長屋園長は手振りで彼女をソファーに勧めた。
「本音を言えばあなたとお会いしたくはありませんでした。個人のプライバシーを無断で
「承知しております」
沙耶はソファーに座って頭を下げた。この園長の前では肩に力が入り萎縮してしまう。
「取材と言うのは佐久間芽依ちゃんのことですね」
「はい。お電話でも申し上げました通り、弊社の雑誌で未解決事件の特集を予定しています。10年前の佐久間夫妻の事件も取り扱うことになりました。殺害された夫妻のお嬢さんの芽依ちゃんが事件後こちらに引き取られていたと知り、当時の芽依ちゃんの様子などを……」
「要するに佐久間芽依ちゃんが今どこでどうしているのかをお知りになりたいのでしょう?」
長屋園長の射る視線に沙耶はたじろいだ。養護施設の園長ともなれば子ども達を守るための剣となり盾となり、常に世論と戦っている女性なのだろう。
「ご存知の通り、ここは養護施設です。環境や金銭的に恵まれて何不自由なく親に愛情を注がれて育ってきた子どもはここに居ません。ナイーブで繊細な子達が集まっています。退所した子のプライバシーを簡単に外部に漏らす行いは致しません」
想像以上の手厳しさだ。しかしここで易々と引き下がっていては社会部の記者は務まらない。
「重々承知しております。けれど私も報道に携わる者として事件を解決に導く手がかりを見つけ出したいと思っています。私の実家は佐久間さんのご自宅の近所にあります。芽依ちゃんとも面識がありました。ですからこのまま犯人が逮捕されないままなんて、そんな悔しいことはありません。芽依ちゃんに当時の話が聞ければ何かわかるかもしれないんです。どうかお願い致します」
園長へ深々と頭を下げる。ノックの音と室内に誰かが入る足音が聞こえても沙耶は下げた頭を上げなかった。
「事件解決のため……それでどうして芽依ちゃんへの接触が必要なの?」
顔を上げた沙耶はテーブルにコーヒーカップが二つ置いてあることに気付く。
「冷めないうちにどうぞ」
「いただきます」
園長に促されてカップを手に取った。熱いコーヒーが熱弁して渇いた口内に染み渡る。
「芽依ちゃんは事件後1週間行方不明になっていました。警察は誘拐の線で捜査をしていたようです。私は芽依ちゃんと1週間の時を一緒に過ごしていた何者かが佐久間夫妻を殺害した犯人だと考えています」
「警察も同じ見解をしていましたね」
「はい。芽依ちゃんは事件から1週間後に保護されました。でも空白の1週間のことをほとんど語らなかった。ASDと診断されましたが、事件直後の彼女の身に何が起きたのかいまだに不明なままです。芽依ちゃんは1週間もの間、誰とどこにいたのか……そこに事件解決の糸口があるような気がします」
沙耶の話を園長は黙って聞いていた。
「西崎さん。あなたもそうでしょうけれど、誰にでも他人に話したくない過去があります。たとえそれが真実だったとしても真実として語りたくないことがあります。あなたが芽依ちゃんに10年前の話を聞くことで芽依ちゃんがどれだけ辛い思いをすることになるか、考えました?」
園長の厳しい指摘に沙耶は押し黙る。他人の傷を抉り、掘り返すのがマスコミであり、ジャーナリストだ。
取材によって誰かが傷付き、記事になることでまた別の誰かを傷付ける。
言葉の出ない沙耶を見つめて溜息をついた園長が重たい口を開いた。
「芽依ちゃんはご両親を亡くされてから1年ほどここに居ました。ちょうど11月になる頃の入所でしたね」
沙耶の沈黙をどう受け取ったか、長屋園長は窓の外に視線を移した。彼女は園内で遊び回る子ども達を母親とも祖母ともとれる眼差しで見つめている。
――何も喋らない、何も見ていない、人形のような女の子だった……そう言った長屋園長は10年前の佐久間芽依との出会いを語り始めた。
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