第4話

 小さい時、教会の裏の小さな家——もとは寺男の住居すまいだったのだと思う——に住んでいた事がある。私たちが結婚式を挙げたあの教会だ。

 詳しいことは話してくれなかったけれど、誰にも頼ることができなかった母さんは、赤ん坊の私を抱えて教会に身を寄せていたのだろう。私が学校に上がると同時に母さんは家政婦の職をみつけ、古いアパートに引っ越した。だから、教会裏の家で暮らした記憶はそう多くない。

 家の周りには墓地があり、私は毎日そこで遊んだ。芝生の中から不規則に暮石が生えたような古い墓地には、いつも季節の花が咲き乱れていた。摘んでいい花と摘んじゃいけない花があった。私はよく摘んでもいい方の花で、花束や花輪を作って母さんのところに持っていった。洗濯物を干している母さん、礼拝堂を掃除している母さん、草木の手入れをしている母さん。母さんは必ず教会の敷地のどこかにいた。私はかくれんぼのように母さんを探し当てるのが好きだった。白いエプロンに顔を埋めて清潔な匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 夜眠るときには、母さんが絵本を読んでくれる。私は大好きなぬいぐるみを抱えて母さんの声を聞く。昼間は公園のようなのどかな墓地から、夜にはお化けが出てくるようで怖い。大丈夫よと母さんが言う。死んじゃった人は、なんにもできないのよ。


 この教会の裏にも墓地がある。

 私はマーサが貸してくれたクラシックなコートを着て、サイズの合わない長靴を引きずるようにして、墓地を歩く。一歩一歩、雪の上に不恰好な足跡がつく。一番新しいお墓に刻まれた没年は、1971年だ。

 マーサが心配して呼びにくる。私が出て行ってしまうか、あるいは自殺するとでも思ってるようだ。

「真冬の墓場を散歩するなんて、あんた変わってるよ」

 マーサは、私が彼女の墓の上を歩いたかのように身震いする。

 少し歩いただけで私はひどく疲れている。

 


 事実を事実として受け止めない限り、前には進めない。超常現象なのか、神の思し召しなのか、宇宙人の仕業なのか、それとも私の気が狂っているのか。原因はわからないとしても、結果をありのままに観察することはできる。

 一つ、私がいる現在は1999年でなく、1972年である。

 一つ、ここでは誰一人、私を知る人はいない。

 一つ、私はこの先起こることを知っている。ニクソン大統領が失脚することを。株価が大暴落することを。ベルリンの壁が崩されることを。湾岸戦争を。ソ連の崩壊を。

 一つ、私は生きている。

 神父の言った通り、あの事故で私たち二人が生存できたとは思えない。SUVに乗っていた人間も、タンクローリーの運転手も、もし、生きていたとしたら、それこそが奇跡だろう。きっと地形が変わるくらいの爆発だ。少し離れていた警官たちの中にも、死傷者がでたかもしれない。

 私は、死ぬ代わりに、過去に飛ばされたのだろうか? 何らかのエネルギーの作用で? それとも誰かの思惑で? だとしたら、もしかして、アランも。アランも時空を超えたかもしれない。アランも生きているかもしれない。


 そして、私はもう一つの事実を眺める。腕のなかの赤ん坊を。

 一つ、この子は生きている。



 私が落ち着いたと見るや、マーサは赤ん坊を私のところに連れてきた。神父以外の人たちは、この子が私の子だと信じているから、私が面倒を見るのは当たり前のことだった。赤ん坊の名前はエイダで定着してしまっていた。小さなエイダは必死でミルクびんに吸い付いた。眠ったり、起きたりした。抱っこすると胸に顔を擦り付けてきた。泣くのにはいつも理由があった。私も赤ん坊の横で眠ったり、起きたりした。



「社会保障番号のことは、私がなんとかしましょう」

 神父はそう言ってくれた。

「あなたがもう大丈夫と思ったら、ここを出て働くこともできますよ。元と同じ仕事というわけにはいかないでしょうが」

 私は頷く。

「紹介できる仕事もいくつか見つけられるでしょう。……その時、あの子を連れて行くかどうかは、あなた自身が決めることです」

「もう少し、ここにおいていただくことはできますか?」

 私は尋ねる。

「雑用でもなんでもします。どうしたらいいのかがわかるまで、もう少しだけ」

「もちろんですよ。必要なだけここにいていいのです」



 小さなエイダは忙しく成長していった。変化するものを見るのは楽しく、私は夢中になった。あらゆるものから切り離されて、存在自体が不確かな私と対照的に、同じく何者でもないはずの赤ん坊は、そんなことおかまいなしに強烈に存在し、全力で生きていた。

 エイダが笑うと私も笑い、エイダが熱を出すと私は心配で生きた心地がせず、エイダが興味を示すもの全てを私も面白いと感じた。

 エイダと一緒にいると、無性に母さんを思い出す。

 私は遠い未来の母さんに問いかける。

 母さん。母さんもそうだったの? 私が、母さんの人生を決めたの? 家を追い出され、天涯孤独になってまで、望まれない子の私を産んだのは。父親が誰かも言えない私を産んだのは。里子にも出さず、たった一人で私を育てたのは。私が生きている命そのものだったから?

 私はこの子の母親になってもいいの? この子は私が母親で良かったと思うかしら?


 夏が終わる頃、エイダはすっかり私の娘になっていた。


 母さんの名もエイダといった。

「うちの家系の女の子は、みんなエイダ・ルイスというのよ」

 母さんは、よくそう言って笑った。

「母さんの母さんも?」

 幼い私は母さんに尋ねる。

「そうよ」

「そのまた母さんも?」

「ええ、みんなよ」

「母さんの母さんはどんな人だったの?」

「そうねえ、あなたにとてもよく似てるわ。やさしくて、勇敢な人だったわ」

「死んじゃったの?」

「……いいえ、ここにちゃんと生きてるわ」

 母さんは私を抱きしめた。私は少しに落ちなかったけれど、母さんが嬉しそうな悲しそうな顔をするので、いつもそれ以上は聞けなかった。

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