第3話

「とにかく、なんかひどいショックを受けてるようなんだ」

「しかし、なんだって、あんな格好で?」

「さあ、警察にもそれらしい届けは出てないそうだけど、ありゃ、きっと亭主の暴力に耐えかねて……」


 誰かが遠くで話している。気持ちのいい、暖かい布団。そうだった。ここは、海岸のコテージだ。

「アラン?」


「お、目が覚めたかい?」

 知らない顔が覗き込んでいる。知らない顔。知らない顔。

「あんた二日も眠っていたんだよ。頭を打ったようだとお医者さんが言ってた。あちこち怪我をしているし、少し火傷もしていると」

「ここは?」声がかすれる。

「教会さ。あたしゃマーサっていうんだよ。ああ、薬がまだ効いてるはずだから、起きない方がいい。安心してゆっくり休みなさい。赤ちゃんも元気だよ」

「あ……かちゃん?」

「今、連れてきてあげよう。少し凍えてたけど、ミルクもよく飲むし、かわいい女の子だねえ」

 じゃあ、赤ちゃんを助けたのは夢じゃなかったんだ。

 ベッドに起き上がって、見知らぬ赤ん坊を抱かせてもらう。よかった。温かい。動いている。

「名前はなんていうんだい?」

「エイダです。エイダ・ルイス」

 私の抱き方が下手なのだろう、赤ん坊が泣き出す。

「エイダ。いい名前だね。小さなエイダちゃん、またお腹すいちゃったかな? ママは、もうちょっと休まないといけないから、マーサおばちゃんとあっちに行こうねえ」

 エイダは私の名前であって、その子の名は知らないと言う間もなく、マーサは行ってしまった。


 薬が効いていると言っていた。だから、頭が朦朧もうろうとするのだろう。あんな事故にあったのだから。事故? そうだ、事故だ。

「アラン!」

「アラン!」

 マーサとは別の知らない人が部屋に入って来る。

「アランはどこですか?」

「アランってあんたの……?」

「夫です。結婚したばかりの。私たち一緒に事故にあって」

「事故なんて無かったけどねえ。あんたは赤ちゃんを抱えて森の中を歩いてたんだよ。いったいどっから来たんだか」

「ユーカイアです。カリフォルニアの」

「州境を超えて南に少し行ったところだね。ここはオレゴンだよ」

「私たち州境に向かっていたんです。私、きっと、事故で頭を打ってよくわからずにここまで歩いて来たんだわ」

「じゃあ、向こうの州警察にも問い合わせて、すぐに見つけてあげるから、あんたはまず体を休ませなさい」

「あ、でも母に電話をかけてもらえませんか? きっとすごく心配してるわ」

「ああ、いいよ。番号は?」

 私は実家の電話番号を唱えた。



 目がさめる。

 マーサが部屋に入って来る。

「どう、少しは頭がはっきりしたかね?」

「母とは連絡が取れましたか?」

「それが、実はどうも電話の調子が悪くってね」

「じゃあ、警察とも?」

「いやね、これから保安官が来て、あんたに事情を聞くってさ。いいかい、話したくないことは黙っててもいいんだよ」


 保安官が入って来る。

 事故のこと、気がついたら夜の森の中だったこと、赤ん坊を拾ったことを話す。住所も名前も職業も電話番号も言う。

 保安官は変な顔をして、しきりに汗を拭う。

「事故のこと、調べてくれたんですよね? 逃走車を追跡中の、あんなに大きな事故だもの。全国ニュースになったはずだわ」

「いや、それが、そんな事故は……。大体、あなたね、今日が何日だと思ってるんです?」

「……七月七日? ひょっとして八日なのかしら?」

 保安官とマーサは不安げに顔を見合わせる。

「どうしたっていうんです? アランは無事なんですか? 確かめてくれたんでしょ?」

 酷く気分が悪い。何かとてもよくないことが起きている気がする。

「いや、まず落ち着いて。あなたの言う、アラン・パウウェルなる人物は今の所、見つかっていないんです。知っている人もいなくてですね……」

「そんなはずないわ! フリーのカメラマンで、大きな新聞にだって時々写真が載るわ。サクラメントの新聞社に問い合わせてくれれば……」

「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて。きっと落ち着けば思い出しますよ」

「何も忘れてなんかいません」

「そうですか、……じゃあ、あの赤ちゃんのお父さんはどなたなんです?」

「知らないわ。初めて会った子だもの」

「アランという人が父親なんですか?」

「違います。アランと私は結婚したばかりで、子どもなんていません」

「その、アランという男は偽名を使っていたんじゃないですか?」

莫迦ばかなことを言わないでください。アランがそんなことするわけがないわ」

「いやあ、どうも、おかしいですなあ」

「おかしいのはあなたの方よ! ちゃんとアランを探してちょうだい!」

 私は叫ぶ。何人もの人が部屋に入ってきて私を抑える。

「アランはどこにいるの? 無事なの? 生きているの? 母さん! かあさん!」

 医者らしき人が腕に注射針を立てる。

「ママ…」

 明るいのに暗闇に落ちていく。



 目がさめる。

 今度はうまくやろう。

 私はそばに誰もいないのを確かめて、ベッドを出る。身体中が痛む。こじんまりとした清潔な部屋。教会だと言っていた。窓から外を見る。見覚えのない山あいの景色。一面雪に覆われている。雪。

 私は、そっと廊下に出て、洗面所を見つけ、中に入る。鏡に映っているのは間違いなく私の顔だ。傷だらけの顔。母さんによく似た緑色の目が私を見返す。ここはどこなの? みんなどこに行っちゃったの?

 階下から賛美歌が聞こえる。今日は日曜日だったかもしれない。階段の上の部屋は事務室のようで、デスクの上に古風なダイヤル式の電話がある。

 急いで受話器を取り耳に当てる。よかった、通じている。慣れないダイヤルを回して実家を呼び出すが、ガサガサした雑音がしてつながらない。私とアランは新居の電話をまだ契約していなかった。そうだ、職場なら。私は自分の勤める小さな新聞社の番号を回す。数回のコールの後、「はい、レッドウッド・デイリー・ニューズです」若い女の人が出る。

「ああ、よかった。モリー? 私、エイダよ。この間は結婚式に来てくれてありがとう」

「……あ、あの、どちらにおかけですか?」

「あら、モリーじゃないの? 新人の子?」

「こちらは、レッドウッド・デイリー・ニューズです。失礼ですが、広告についてのおたずねでしょうか?」

「違うわ。私、記者のエイダ・ルイスよ。モリーに代わってちょうだい」

「すみません、モリーという名前の社員はおりません」

「そんなはずないわ。じゃあ、誰でもいい、ジョン・スタントン、フィリップ・ノース、ケイトリン・ムーア……」私は同僚や上司の名前を挙げていく。「……テディ・ブラウン」

「あ、テッド・ブラウンなら在籍しています。替わりましょうか?」明らかにホッとした声が言う。

「もしもし、テディ? 私よ、エイダよ。」

「エイダ……どちら様?」聞き覚えのない年配の男性の声。

「悪い冗談はやめてちょうだい。事故があって大変だったの。お願いだからモリーを出して」

 誰かが階段を上がって来る。

「いやよ、薬は嫌! 眠りたくない」

「わかりました。薬は無しです。でも、落ち着いて」穏やかな人……神父さん?「ほら、まずは座りましょう」

 黒い服を着た神父は、私を窓辺の長椅子に座らせてから、受話器を耳に当てた。

「もしもし? ……ああ、切れているようだ」


「さて、私は人の話を聞くのが商売でね」

 神父はゆっくりとした動作で水差しから切子のグラスに水を注ぎ、私の前のローテーブルに置いてくれた。

 私は、育った家のこと、母さんのこと、新聞社に入ってアランと知り合ったこと、結婚式の後コテージに向かう途中で事故にあったこと、森の中で気がついて赤ちゃんを拾ったことを話した。神父はほとんど口を挟まずに頷きながら聞いてくれた。

 話し終わって、しばらくの沈黙の後、神父が口を開いた。

「あなたは聡明で冷静ですし、だいたいにおいて辻褄つじつまもあっているようだ。ええ、私はあなたが本当のことを言っていると信じます。……その上で、二つほどお聞きしたい」

 神父は手を組んで身を乗り出す。

「今は何年ですか?」

 私は心臓が跳ね上がるのを感じた。何年ですか? 何年ですか? なぜそんなことを聞く?

「……1999年です」

 私はなぜか渋々答える。

 神父の手が少し震えている。神父は傍らに置かれたマガジンラックから新聞を抜いて、私の前に広げる。

「今朝届いた新聞です」

 新聞名も一面記事も目に入らない。日付だけが、1972129と書かれた日付だけが私の視界を占領する。そんな莫迦なことがあるだろうか? 1972年? 私は神父を見る。誠実そのものに見える神父の顔を。この顔で、たくさんの人をだましてきたのかもしれない。私はカルト教団に捕まって、洗脳されようとしてるのかもしれない。

「電話を……電話を貸してもらえますか?」

「もちろんですとも」

 神父は重たげな電話機を持ち上げて、長いコードを引っ張り、テーブルの上に置いてくれた。

 411をダイヤルする。「はい、番号案内です。ご用件は?」オペレーターが即座に出る。

「……ポートランドのホテルの番号を教えてもらえるかしら?」

「はい。どのホテルがよろしいでしょうか?」

「どこでもいいわ。一番いいホテルはどこ?」

「それでは、……ヒルトンホテルではいかがですか」

「ええ、そこでお願い」

 オペレーターは番号を読み上げる。二度繰り返す。

「ありがとう。あ、そうだ、今年は何年かしら?」

「1972年です。では、ご利用ありがとうございました。」

 私は受話器を戻して、両手に顔を埋める。1972年。1972年。オペレーターは確かにそう言った。

「ホテルには電話しないのですか?」

「番号を……忘れてしまいました」

 私は顔を上げて神父に答える。


「では、もう一つの質問です」

 少し時間をおいて神父が申し訳なさそうに問う。

「あの、赤ん坊はあなたの子どもではないのですね? 全く知らない子だと?」

「はい」

 私は頷いた。

「私はあの子を知りません。でも、親元に戻したりしないでください。雪の中に子どもを捨てる親なんて」

「ええ、わかっています。あの子は教会で預かります。可愛い子ですから、里親もすぐ見つかるでしょう」

「ただ、……思うのです」神父は続けた。「もしも、あの子がそのまま雪の中にいたら、確実に助からなかった。数時間で凍え死んでしまったでしょう。そして、お話を聞くかぎり、あなたも、もし事故の現場に居続けた場合は、おそらく亡くなっていたのでは?」

「私は死んだのだと?」

「いえ、こうは考えられないでしょうか? そのままでは死んでしまうあなたを、あの子の魂が呼んだのではないかと。あの子の生きたいという強い願いを神が聞き届け、あなたをつかわしたのではないかと。……神は時に我々には思いも寄らない奇跡を起こされますから」

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