第6話

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 朝起きると、父さんがいた。誕生日プレゼントに新しい左利き用グローブを持って。

「父さん、僕もう野球辞めたんだよ」

 そう言われた父さんは、少し悲しそうな顔をした。二人の唯一の思い出が野球だった。

「でもこのグローブはもらっておく」

「ああ、そうしてくれ」

 父さんはまだ老けてはいなかった。四十歳にしては若々しい。考えてみると、僕の両親が僕の両親になったのは、二十三歳の頃だ。僕にはとても真似できない。

「お母さんから電話で聞いたけど、山形の大学に行くんだって?」

「うん」

「寂しくなるな」

「今までも会わなかったじゃん」

「それでもだよ」

「そうだね」

 僕は父さんと母さんがなんで離婚したのかは知らない。案外、母親に生活力があれば離婚する家庭は多いのかもしれないけれど、とりあえず僕の両親については謎だった。四年前に離婚してからは会おうともしない。今日の朝に父さんが来たのも、母さんに会わないためだ。お互いに連絡は取り合っているみたいだけれど、会うのは嫌みたいだ。

「じゃあ、まあ、頑張れ」

「うん」

 その時、ふと気がついた。今まで僕に、真っ直ぐに頑張れと言ってくれた人がいただろうかと。やる気はあるのか? 悔しくないのか? そればかりだった。

「頑張るよ」

「ああ、それと図書券。マンガでも買え。参考書でもいいけどな。とにかく楽しめ」

「父さんは―」

「なんだ?」

「―楽しんでる?」

「いや、もう楽しいことはないな。これからあるのかな」

 僕はなにも言えなかった。きっとあるよとでも言えばよかったのだろうか。


 昼に図書室に行く前、野球部の練習を眺めた。やっぱり誰も手を抜いていない。ベンチの日陰には、チームメイトの両親もいる。みんな声援を送っていた。今日は土曜日だったんだ。そのことを思い出した。

 図書室に行くと、茂木さんが勉強していた。茂木さんは毎日いる。

「毎日いるね」

「江森くんもいるじゃん」

「まあね」

「野球部を見に来てるんでしょ」

「え?」

「凄く熱心に野球部見てるよ?」

「そんなこともないんじゃないかな」

「今度、八ミリビデオで撮ってあげる」

「なにそれ」

 僕はそこで初めて、茂木さんが美大の映像学科に行きたいということを知った。彼女は女優ではなく、映画監督になりたいらしい。

「撮るのは勝手だよ」

 僕はそう言って勉強に集中した。といっても、野球ばかりやっていた僕は、自分がどの程度の偏差値なのかもよくわかっていない。ただ高校二年生の問題集をやっているだけだ。二学期になれば、担任に受験勉強の仕方を教わろうと思っている。


 帰り道、僕は非番だけれどバッティングセンターに寄ることにした。今、家に帰って気が立った母さんと一緒にはいたくなかった。

「あら、今日は遊びに来たの?」

 深川さんが相変わらず本を読みながら尋ねる。

「はい」

 土曜日ということもあって、バッティングセンターは混んでいた。一番から八番まで、すべてのバッターボックスが埋まっている。

「ちょっとお邪魔していいですか?」

 僕は受付席にパイプ椅子を出して座ると、深川さんを見た。

「なに?」

「前に言ってた、苦しいから読むって話を聞きたくて」

「その話か……。それじゃあ、夜の九時まで待ってよ」

「じゃあ一度帰ります」

「そうして」

 僕は家に帰る気にはなれず、喫茶店に入った。一人で喫茶店に入るのは初めてのことだ。こんな普通の高校生なら毎週のようにやっていることも初めてなんて、恥ずかしい気がした。

 喫茶店では、父さんがくれた図書券で買ったマンガを読んだ。一〇冊買ったのでしばらくはもつ。なんてことはないギャグマンガだ。

 我ながら、不毛な時をすごしているなと思う。冒険活劇やギャグマンガが悪いとは思わない。そういうものは、一般的に辛い日常を一時忘れるためのものであるはずだ。ただ将来のことを考えたくもない高校生が現実から逃げるために描かれているとは思えない。大塚や中西のような奴が、一時の娯楽で読むのが正解だろう。

 僕は違う。僕は空想の世界に頭の先まで浸かっている。そうして本当は考えなければいけない日々を、無理矢理やりすごしている。これから先も、仮に農業をやるとして、農業以外の時間はマンガを読んで映画を観るんだろうか。そうして父さんの歳にまでなる。自分の無計画さにゾッとする。

 そんなことをなめくじのように考えていたら、九時近くになった。十七歳なのに、時間がすぎるのが驚くほど早い。

 僕は自転車にまたがってバッティングセンターまで走った。

「改まっちゃってごめんね」

 深川さんはいつもの黒いスカートに白いシャツで、髪の毛をまとめずにいた。それだけで雰囲気が変わって見える。深川さんは閉店準備を終えると、「少し歩こう」と言って公園に向かった。

 ブランコが二つ、ジャングルジム、砂場、ベンチが四つ。それだけの小さな公園で、深川さんはブランコを選んだ。僕も隣のブランコに座る。

「昔、眠ってばっかりの時期があってね。大学三年生くらいかな」

 深川さんは静かにブランコを揺らすと喋りはじめた。

「一日十二時間くらい眠ってた」

「はい」

「疲れてたの。物凄く」

 深川さんはブランコを揺すって言った。

「なんでですか?」

「それが自分でもわからない。ただ、将来が来ると思うと不安で仕方がなかったから、それが原因かもしれない。二十一歳はほとんど寝てた」

 今の僕みたいだ。十二時間眠って、図書室に行って二時間勉強して、バッティングセンターでアルバイトして、帰って眠る。

「その頃、私は小説家になりたいって少し思ってたの。笑う?」

「笑いません」

 実際、深川さんみたいな作家がいてもおかしくはないように思えた。

「でも小説家になるための努力はなにもしてないの。一編の小説も投稿したことない。本当にただの夢」

「そうなんですか」

 二十一歳の、眠ってばかりの小説家志願者。それが上手くイメージできずにいたけれど、目の前の深川さんを見ることにした。三十歳くらいだろうか。遠い昔の話、というほど昔ではない。

「でも私に欠けているものはすぐにわかった」

「なんですか?」

「なんでも俯瞰で見てしまうの」

「それって小説家向きなんじゃないですか? よくわかんないですけど」

「ただ俯瞰して見てもダメなの。そこに当事者意識がないと。私は、他ならぬ私自身は、こう思う。そういう心に欠けていたのね」

 それは僕にもないものだった。自分の核心のようなもの。それがない。ギャグマンガで誤魔化し続けている隠れた自分。

「それからかな、苦しいくらい自分を突き付けてくる小説を読むようになったのは。私、まだ小説家になること諦めてないの」

 深川さんは午後三時から六時までよくバッティングセンターを留守にする。それは、決められた五枚の原稿を書くためだったのだ。

「でも、苦しい話って必要ですかね」

「これは自分の話だっていうような苦しい話は必要だよ。フィクションは人生の予防接種って言う作家がいる」

 作家と呼ばれるような人たちのほとんどは、そうして自分のもっとも苦しかった局面を物語にするのだと、深川さんは言った。なんだか僕の持っていた売り上げやマニアの評価という話とはかけ離れすぎていて、すぐには呑みこめなかった。

「江森くんだって、打球に跳びつけるのは江森くんしかいなかったんだよ」

「そうですね」

「ピンと来ない?」

 なんとも言えなかった。僕は跳ぶことを怖れてる。それはもうどうやら間違いなさそうだ。でも、なにをそんなに怖れる必要があるんだろう。跳んで、捕れなかった。だからなんだっていうんだ? 僕はそんなに自分の評価が下がるのが怖いのだろうか。

「違う」

「なに?」

 深川さんが僕の独り言に反応してブランコを揺らした。

「深川さんが小説を投稿しなかったのは、勝負するのが怖かったからですよね」

「そうだよ。その通り」

 僕もそうだ。ここが瀬戸際。そんな勝負、したくなかったんだ。自分の価値がわかることから、逃げ続けてきた。

 深川さんは結局、とある企業に就職したらしい。でも、そこで付き合っていた男の人に子供が欲しいと言われてわかれたそうだ。そうして会社も辞めてしまった。

「母親になったら、人生のすべてが変わるってビビっちゃった。実際に同級生を見ると、そんなに単純なものでもなくて、母親は母親なりに自分の人生を生きなきゃいけないみたいだけど」

 一人暮らしもやめて、深川さんはバッティングセンターに帰って来た。それから立て続けにご両親を亡くして、今の立場にいる。はっきり言って、バッティングセンターは運営費と客が落とすお金を秤にかければ、安定して黒字だ。それどころか、結構いい商売と言える。

「深川さん、小説家になってくださいね」

「ありがとう」

「頑張ってください」

 深川さんは笑った。

「意外と言われないんだよなあ、頑張ってって」

 みんな遠慮しているのだろう。でも、僕も頑張ってと言われたい。

 深川さんの話は、今すぐに僕を変えるようなことはなかった。でも確かに僕を変える最初のきっかけだった。その夜から僕は、山形の農業大学に入るより前に、もう一度野球部に戻ってみたいと思うようになった。

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