第5話


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 また図書室に行った。野球部の練習を脇に見ながら。向こうも僕を見ていた。表情までは太陽の光でわからないけれど、どこか気まずい感じだったと思う。新しいライトの練習を見てると、僕よりかなり下手だった。でも平均より下回っているわけじゃない。やっぱり僕の帰る場所はない。

 図書室にはまた茂木さんがいて、勉強していた。どこに向けての勉強なんだろう。

「江森くん、また野球部見てたね」

「うん」

「戻りたい?」

「どっちでもいい」

「変な答え」

 茂木さんは笑って勉強に戻った。彼女はこのままずっと来年も再来年も夏休みが来てほしいと言っていたんじゃなかったっけ。それでもしっかり受験勉強はするのか。

「なんだかんだ言って勉強はするんだね」

 僕は皮肉をこめて言った。

「だって迫って来るものは止められないもん」

 そうだ。時間は止められない。もうすぐ十七歳になって、いつかは二十四歳になって、三十一歳になる。全然、想像ができない。いや、想像したくないのか。かといって当面やりたいこともない。中途半端な人生だ。それがこのまま中途半端に進んでいく。嫌だ。その気持ちはある。でも逃げようがない。

 仕方がない。いつもの結論に戻る。野球部を辞めさせられたことも、受験勉強に熱心になれないのも、仕方がない。母さんもいずれ老いる。病気になるかもしれない。働かないなんてことは許されない。

「自由な時間もあと一年半だね」

 茂木さんが言う。卒業までということか。そのあいだを僕はなにに活かせるというのだろう。マンガを読んで終わりだ。

「なにもぶち破りたいものがない人生だ」

 僕は口に出して言ってみた。

「私もだよ」

「どうしても逃げ出したいわけでもない」

「私も」

 やっぱり地方の大学に行こう。誰も僕を知らない、僕も誰も知らない土地へ。そこで給料をマンガやビデオに使って、そこそこ満足しながら歳をとっていく。それ以外の道が自分にあるだろうか。

 図書室には適度な温度の冷房が効いている。こんなんじゃ嫌だ。もっと強い冷房の部屋で眠っていたい。


 眠りたいのを我慢してバッティングセンターに行くと、深川さんがショートケーキを持って待っていた。イチゴと生クリームの、ごく普通のショートケーキだ。

「履歴書見たら、明日誕生日だったのに気づいた」

「ああ、そうですね」

「あげる」

「ありがとうございます」

 それ以上なんと言っていいかわからなかった。深川さんも自分の楽しみのために人を祝ってみたにすぎないだろう。僕は図書室から続く眠りたいという欲求の中で、半ばぼんやりとショートケーキを食べた。

「反応薄いと思ったよ」

「いえ、嬉しいです」

 田舎に行けば、僕の誕生日を知っている人もいない。いいことだ。やっぱり田舎に行くべきだ。

「なんでお前ケーキ食ってんの?」

 大塚がバッティングセンターにやって来て尋ねた。

「江森くん明日誕生日なの。でも明日は非番だから」

「おめでとう。最近は絡んで悪かったな」

 十七歳のなにがおめでたいのかわからない。人生で一番無力な時期だ。大人のように好きに逃げることもできず、子供のままではいられない。泣きたくなる。でも僕は無力感から涙するようなこともないだろう。そこまで力が欲しいわけでもないからだ。

「大塚、僕も進路決めたよ」

「どうするの?」

「山形の農業大学に行く」

「なんで?」

 深川さんが訊いた。なんでと真っ直ぐに言われると答えにくくなる。

「誰も知らない土地でやってみたいから」

 大塚も深川さんもなにも言わなかった。呆れているのだろうか。そうかもしれない。ただ僕は、もう何者にもならずに消えてしまいたい気持ちが強い。

 深川さんは「農業ってなにやるの?」とさらに訊いてきた。「なんの農家?」。

「わかりません。とにかく田舎で農家です。それだけ決めてあります」

 やはり二人はなにも言わなかった。僕は業務用のカードを使ってバッターボックスに立つことにした。客は他にもいる。全員、大人だ。どうして大人がバッティングセンターに来るんだろう。僕も行くことはあるんだろうか。

 二十五球中、快打が五球もあった。満足のいく打席だった。

「それじゃあ私、買い物に行ってくるから留守番よろしくね」

 深川さんはそう言って受付席を離れた。代わりに僕が受付席に座る。

「誰も知らない土地ならやり直せると思ったのか?」

 大塚がドクターペッパーを持って近づいてきた。

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

「いずれにしてもここにはいたくないと」

「そうだね」

 大塚は一〇〇〇円で二十五球を四回のカードを買うと、六番のバッターボックスに立って緩い球を打ち始めた。八〇キロだろうか。大塚の打つ球はネットに突き刺さるように飛んでいく。

 ふと、父さんが褒めてくれた打球が頭をよぎった。小学校六年生の夏休みだったと思う。力を抜いて振り抜いた一打だった。それが思いのほか飛んだ。父さんは「それだ、それを忘れるな」と言ってくれた。僕がバッターボックスで脱力して立つようになったきっかけだ。監督はもっと力強く立てと言ったけれど、僕には父さんの教えを守る方が重要なことのように思えた。結局、僕は自分のバッティングフォームを誰にもいじらせなかった。

「江森、ここストライク入らねえよ」

「そういうバッティングセンターじゃん」

「今日は特に入らないよ」

 僕は六番のバッターボックスに入ると、業務用のカードで球を何球か射出してみた。

「本当だ。よくここで打ったね」

 使用中止の札を下げると、僕は大塚の悪球打ちを褒めた。

「必殺、脱力打法」

「なんだそりゃ」

 大塚が言った。

「昔、ここのバッティングセンターで父さんに教えてもらったんだ」

「それでお前、力を抜いて打席に入るんだな」

「うん」

「野球部、戻りたいと思わないのか?」

 みんなに訊かれる。戻りたいように見えるのだろうか。もちろん、戻りたくないほど嫌いな場所じゃない。でも戻りたいほど好きな場所でもない。

 そもそも野球はほとんどピッチャーで決まるスポーツだ。僕のような外野はそこそこ打てさえすればいい。試合の責任がのしかかってきたことは滅多にない。

「お前の誰の邪魔もしない打撃は貴重だけどな」

「誰の邪魔もしない?」

 僕は大塚の言っていることがわからなかった。なんの話をしているんだろう。

「俺が四番でお前が三番だと、大体いつもお膳立てされてるんだ。チームのみんなも、江森じゃダメだって感じで見たことはないと思う。気がつくと打ってる。だからかな、お前が打球を追って跳びつかないと、できるのになんでやらないんだって気持ちになっちゃうんだよ」

 僕は「臨床心理士としてはどう思う」と訊いてみた。

「わからない。ただ、お前が本気でやってなかったように見えたのは確かかな。実際のところは知らないよ。でも才能に任せてプレーしてるように見えたんだろうな」

 僕の才能、大塚の才能。それは所詮、中学校レベルの才能だ。中西のように高校でも異彩を放てるほどのものじゃない。当然、私立の強豪校から特待生扱いで呼ばれることもなかった。来たいなら来なさい。そんなレベルの才能だ。掃いて捨てるほどいる才能の一粒にすぎない。

「江森は悔しくないのか?」

 またそれか。人生で何度それを言われればいいんだ。

「悔しくないのが悔しいよ」

「それは自分の限界に挑戦してないからだろ?」

「そうだろうね」

「すれば悔しいよ」

 僕はこれを言ったら大塚に殴られるかもしれないと思ったけれど、言った。

「真剣になれない病気なんだよ」

 大塚は僕を殴らなかった。殴る価値もないと判断したようだ。溜め息をついて去って行った。

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