第4話

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「進学先って、地方でもいいの?」

 僕は母さんに訊いた。

「別にいいよ。アルバイトはしてもらうけどね」

「うん」

 看護士の仕事をしながら、母さんが大学へのお金を貯めてくれていることは知っていた。僕はそれが死ぬほど嫌だった。自分もいつか高校を卒業して、大学に入って四年間すごし、就職する。そんなことは考えたくもなかった。

 僕は自分の部屋に戻ってマンガを読んだ。マンガだけが僕を現実から遠ざけてくれた。


 高校に行くと、野球部が夏休みの練習をしていた。僕はこそこそするのも違う気がしたので堂々と練習の脇を通って図書室へ向かった。

「江森くん、辞めさせられたんじゃなかったの?」

 茂木さんが図書室で僕に言った。同じ中学出身の茂木さんはなにかと僕に話しかけてくれる。僕も悪い気はしない。笑顔と鼻歌が似合う女の子だと昔から思っていた。

「辞めさせられたよ」

「その割に普通に野球部の横を通ったね」

「別にどうでもいいんだ」

 僕はそう言うとなるべく田舎で偏差値の低い大学を探した。

「どんな大学狙ってるの?」

 茂木さんが言う。僕は正直に言った。

「誰も僕を知らない土地の大学」

 僕はせめてそんな土地に逃げたかった。それでも、そこで就職して一生をすごすと思うと気が滅入る。

「江森くんは将来のこと、真剣に考えられる?」

「考えたくもない」

「私も。なんか今年の夏休みが終わったら、来年も夏休みで、再来年も夏休みで、その先も夏休みならいいのにって思う。ずっと高校生で」

 高校生活なんて楽しくもない。でも茂木さんの気持ちは痛いほどわかった。

 二年生の内から大学の資料集めをしておいた方がいいと、担任も母さんも言う。なんだか少しずつ死んでいくみたいな気持ちだ。僕は爪を噛んで、野球部の練習を図書室から眺めた。

 猛暑日の中、みんな元気よく練習している。声もよく出てる。動きも機敏で、誰も手を抜いていない。確か、僕も一ヵ月前まではこの一員だったはずだ。声出しをサボっていたわけではないし、ダラダラと動いていたわけでもない。それでも二年生の癌と思われてしまうほど僕はやる気なく見えてしまうらしい。


「おはようございます」

 バッティングセンターに着くと深川さんに挨拶して、僕はタイムカードを押した。

「なんかやることありますか?」

「ボール磨き」

「はい」

 僕は受付席に置かれている黄色いカゴの脇にパイプ椅子を持って来て、ボールを磨きはじめた。

「深川さんから見て―」

「うん」

「―僕ってやる気ないように見えますか?」

「見える」

「そうですか」

 深川さんは相変わらず僕の知らない作家の本を読んでいた。時折来る客に店のシステムを説明しながら、熱心に読んでいる。

「小説って楽しいですか」

「苦しいよ」

「苦しいのに読むんですか?」

「苦しいから読む」

 僕には深川さんの言っている言葉の意味がさっぱりわからなかった。僕がマンガを読む理由は楽しいからだ。読んでいて興奮も爽快感もある。苦しいものを自分から読もうとなんて思ったことがない。苦しいものは、怖い。

「なんで苦しいのに読むんですか?」

「そこに自分の秘密が隠されているような気がするから」

 深川さんも自分の人生に立ち向かう側の人なんだな。僕はそう思った。苦しい自分を直視する。そして生きる意味を作る。大塚の理論だ。生きる意味を与えてもらうのを待つよりはずっといいんだろう。僕は二人の意見に納得しながらも決して真似はできないと思いながらボールを磨き、歪んだボールははじいていった。

「最近、野球やってた頃よりも眠るんですよ。十二時間くらいは眠りますかね。どうしたんでしょうね」

「疲れてるんでしょ」

 深川さんは本から視線を切らずに言った。

「疲れるようなことしてませんよ」

「精神的に疲れてるんじゃない?」

 見えないストレス、隠された疲労。そんなことばかり言われる。自分と対峙するのを避けていると言われているみたいだ。実際、そうなんだろう。

 僕は緑で塗りつぶされたバッティングセンターで一二〇キロの球を打つことにした。いつものように左右に打ち分けるのではなく、ホームランを目指して。

 結果は散々なものだった。いつもなら当てられる球にも当てられず、力みすぎたスイングで二十五球を終えた。

「江森くんは、なんで打球に跳びつかないの?」

 深川さんが本を閉じて尋ねた。

「跳びついても捕れないからです。それ以外に理由はないです」

「そういうところ責められて辞めることになったんでしょう?」

「仕方ないですよ」

「本当に仕方ないと思ってる?」

 面倒なところを突かれた。僕は何事も仕方ないで片づける癖がある。本当に仕方がないかと問われるのは、けっこう面倒臭い。

 ちょうどよく、三番のバッターボックスのピッチングマシンが詰まった。僕は隣の四番のバッターボックスに親子を案内して、業務用のカードで二十五球打てるようにした。

 父親は夏休みだろうか。子供に熱心に教えている。少しやりすぎなくらいだ。要領を得ないアドバイスが続き、無駄な叱責が響く。

 小さい頃、僕もそうやって父さんにバッティングを教わった。まさにこのバッティングセンターで。なにも楽しくはなかったけれど、打てると褒めてくれた。その後、リトルシニアで三番を打てるようになったのは父さんのお陰だろう。でも、楽しくはなかった。

「こんにちは!」

 受付席で急に大きな声がした。高い身長、引き締まった身体、中西だった。

「あおい高校の中西です。江森くんいますか?」

 深川さんは黙って中西の後ろにいる僕を指差した。

「今日、野球部の脇通ったね」

「うん。大学の資料集めに図書室に行ったから」

「戻って来る気はないの?」

 中西は僕が野球人生でチームメイトになった中でも、ぶっちぎりの天才だ。球は速いし、変化球も多彩。なによりコントロールがいい。精神的にも隙のないピッチャーだ。打撃のセンスもある。いわゆる運動の天才というやつだ。

「戻って来るもなにも、追い出されたんだからねえ」

「あれは江森にはっぱをかけるつもりが、江森が本気にして辞めただけだよ」

「いずれにせよ気持ち良くはなかった」

「引退する三年生の陰謀だよ」

「それはわかってるよ。でも僕にやる気がないのも本当なところあるからね」

「やる気がなくても実力があればいいだろ?」

 これが中西の考え方、いや、スポーツ界の考え方だ。やる気、態度、そんなものは二の次三の次、大事なのは実力。わかりやすい。単純な世界だ。ただ、あおい高校野球部全体はそこまでドライにはなっていない。

「とにかく少し休みたいんだよ」

「中西くん、江森くんはそんなに戦力になるの?」

 深川さんが受付席から訊いた。

「とにかく守備がいいんですよ。肩が強くて。江森のお陰でクロスプレーをアウトにしたことが何度もあるんです」

「バッティングは?」

「悪くないですよ。でもバッティングはいいんです。俺が点を取られなければいいので」

 中西は挨拶をすると、すぐに帰った。風のような奴だなと思う。

「自信満々、自分のことしか考えてないって感じだね」

 中西が帰ったのを見ると、深川さんが言った。

「あいつだって本当に自信があれば私立に行けばよかったんですよ」

「でも他人から熱烈に求められるのは悪くないね」

「悪くないですけど、重荷ですよ」

 深川さんは苦笑して言った。

「そういう時、重荷だけど悪くないって言えるだけでも違うんだけどね」

 その通りだ。そして思う。つくづくこの街の人間は僕のことを知っていると。誰も知らない、自然の豊かな地方大学に行ってやろう。そこで一から……、一から? 一からなにをやり直すっていうんだ?

 セミの鳴き声が頭の中で反響して、僕は立ち尽くした。

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