第3話

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「精神の不健康だな」

 大塚はやはりそう言った。僕はボールを磨きながらその話を聞く。

「そもそもお前には父親がいない」

「いるよ。横浜でなんかやってるらしい」

「一緒に暮らしてないだろ?」

「うん」

「離婚家庭の子供が問題を抱える。これは歴然たる事実だ」

 僕も中学の頃からこの手の話をいろいろな大人にされてきたけれど、あまり相手にはしなかった。人による。そうとしか言えないからだ。実際、僕は非行に走ってはいないし、部屋が汚いくらいだ。部屋が汚い子供なら、離婚家庭でなくてもいくらでもいる。

「なんで跳ばないの!」

 急に深川さんが受付席でテレビを観ながら言った。メジャーリーグ中継だ。イチローがシアトルマリナーズに行ったお陰で、メジャーリーグ中継が増えた。僕もリプレー動画を見る。跳ばない方が正解の打球に見えた。

「あそこで跳んでも捕れないですよ。だったらフェンスにぶつかったクッションボールに備える方が正解です」

「私は―」

 深川さんはポカリスエットのペットボトルを受付席に置いた。

「―心意気の話をしてる」

「江森に言っても無駄ですよ。こいつは難しい打球を追いかけないことに定評があったんで」

 大塚が深川さんに言った。特に否定することもないので、僕は飛行機雲を見ていた。夏の飛行機雲はどうしてこんなに切ない気分になるんだろう。

「跳んで捕れる打球なら跳んでた。みんなそういうことは忘れる」

 僕はそう呟いてトイレに行った。

「思うに―」

 トイレから帰ると、少し意地になりながら、僕は大塚の言うことに反論を試みてみようとした。

「―なんでもかんでも原因があるって考え方はどうかな。こういう家庭の子はこうだって考え方には無理がある」

「問題なのは真実を捉えることじゃないんだよ」

 大塚はそう言って一〇〇〇円のカードを買った。三〇〇円で二十五球のところが、カードを買うと一〇〇〇円で二五球を四回打てる。

「じゃあなにが問題なの?」

「有効な仮説を立てられるかどうかだ」

 大塚はそう言って使用可能になった二番のバッターボックスに入った。深川さんは手先が器用なのか、機械を直すのを苦にしない。それとも単なる慣れだろうか。

 一番端の八番のバッターボックスには、中学生の三人組がいる。野球経験者だ。三人で騒ぎながらバットを振っている。

 二番のピッチングマシンは、つっかえることなく一二〇キロでボールを射出した。大塚はそれを力任せに弾き返す。こと動体視力とボールに力を伝える技術では、大塚に敵わない。それも別に悔しくはない。才能というのはどうしたってある。大塚にはバッターとしての才能があった。僕は大塚ほどの才能には恵まれないながらも、チームの中では打撃が二番目に上手かった。

「半分くらいしかストライクゾーンに来ねえ」

 大塚はそう言いながらボールを待ち、打ち抜いた。

「バッティングセンターってそういうもんだから」

 深川さんはメジャーリーグ中継を観ながら言う。

 中学生たちは、「古い古い」と言いながらビデオゲームの筐体を見始めていた。確かにここのゲームは一九九五年で時が止まってしまっている。そのためゲームに手を出す客はほとんどいない。

「有効な仮説を立てるって話、聞かせてよ」

 二十五球打ち終わった大塚に、僕は言った。

「本当のところ、江森が離婚家庭で苦労したかなんてどうだっていいんだ。問題は当面の自分に有効な嘘の物語を作って自分を納得させることなんだよ。真実を求めてなにもできないよりましだろ?」

「だとしたら離婚家庭云々っていうのは有効な仮説にならないよ。全然気にしてないもん」

「それならそれでいいよ。でもお前は仮説を作って動いてみることを怠ってる。それだけは言っておくよ」

 大塚はドクターペッパーを買うとベンチに座った。言われていることはわからなくない。嘘でもなんでも当面の目標を作る。僕はそれが苦手だ。それは仮説を作るのが下手だからなんだろう。ただ、どうしても人生に前向きになれない。これはもう僕の性分と言っていい。仮説を立てて人生に立ち向かう。恐らくそれは正解だ。でも僕はそもそも人生に立ち向かう気にならない。

「江森、爪噛んでるのか?」

 大塚が尋ねた。

「うん。これについては精神分析は聞きたくないね」

 自分でもわかっていた。これは自分でも気づいていないストレスの発散方法であることを。

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