背中を押して

 6月6日の雨はとても美しかった。ぱちぱちと窓に当たる雨音が綺麗で、降り注ぐ雨は木々の葉を揺らしている。


 窓に付いた水滴が、差しこむ光を屈折させて、明かりのない室内にゆらゆらと影を作り出す。


 まるで水族館のように、少しだけ、ほんの少しだけ幻想的な空間に私たちはいた。


「やっぱり、気持ちは変わってないんだね」


 私がそう言うと、華凛は少しだけ優しい笑みを浮かべた。


「ええ、もちろんよ」


 今日という日を迎えても華凛は何も変わらない。本当は誰よりも死ぬことを怖がっている筈なのに。


 あれから一緒に、授業が終わった後の教室で過ごしてきた。普段の何気ないことを話しながらも、私たちはお互いの考えを、その背にある悩みを共有していった。彼女を見れば見るほど、そこには私が映っていた。


 でも分かってる。お互いに大切な友達だとはいっさい考えていない。


 私たちは誰とも触れ合えない。ずっとひとりのままでいる人間だ。隣に立つことは誰にもできない。


 今日は特に言葉をかわさなかった。お互いに窓の外を見て、雨を眺める。


 そうしていつもの別れの刻限。華凛は静かに席を立った。しおりを挟んだままの本はそのままに、窓へ寄っていく。


 私は止めることもなく、その動きを目で追った。


「有希、お願いね」


「……うん」


 分かってる。華凛は自分では落ちることができない。自分で自分を終わらせることができない。だから私が背中をそっと押してあげる。


 そして私も。


 私自身も、自分で死ぬなんてできない。だから、彼女に惹かれる形で落ちる。そう決めた。


 最期の言葉はない。恐怖で体が揺れることもない。


 華凛はそっと窓枠を越えて、外の出っ張り部分に立つ。


 もうほとんどの生徒は帰宅しているし、雨で傘を差しているため上を見上げる人はいない。


 止める人は誰もいない。


 その中で華凛は雨を感じている。淵に立って、落ちる雨粒を肌で感じて、その心地よさに浸っている。そのままそっと落ちたいんだ。


 背中に回って、私はゆっくりと手を伸ばしていく。願いを叶えるために。


 初めて興味を惹かれた相手。

 初めて共感した相手。

 初めて心地よさを感じた相手。


 その背中にそっと触れる。後は少し押し出すだけ。力はいらない。少し傾くだけの力を加えれば、彼女はそのまま身を任せて前へ倒れて、落ちていく。


 彼女を雨の中に――。


「…………有希」


「…………ごめん」


 私は制服を掴んで、掴んだまま固まっていた。


 気付いた。気付いてしまった。


 私たちは人のいない世界に憧れた。人のいない世界に行きたいと思った。


 だけどそう、私たちはどこかへ行きたいんであって、無くなりたいわけじゃない。


 死ぬことで終わらせたいわけじゃなかったんだ。


「……そっか」


 諦めた声。まるで10円ガムのくじが外れたような、あっさりとしたものだった。


 華凛はくるりと回転し、中に戻って来て、そのままいつものように席に座って雨を眺め始めた。


「ねぇ、華凛」


「なに?」


 私たちは死ねなかった。だから私はひとつ提案することにした。

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