ふたりの時間の始まり

 私が新田有希あらたゆきと知り合ったのは5月のはじめ。


 新しい月に入ったことで席替えが行われ、有希が左端の前から3列目に、私がその後ろに移動した。


 だけどその時点ではなんでもない。私は目の前の女子に興味もないし、向こうも私に興味なんてないらしく、挨拶もしなかった。


 それから授業を終えて、自由になれる時間。


 私はいつも帰るのを遅らせていた。クラスの人と一緒に出るのが嫌というわけじゃない。


 その頃にはもう私に声を掛ける人なんていなかったし、いたとしても無視して帰るだけのこと。


 ただ到着しているであろう迎えの車に乗り込みたくなかった。家へ帰るのが嫌なだけだ。授業が終わった後に訪れるこの時間は、とても大切な休息の時間なのだから。


 椅子に座ったまま本を読むのが日課。私は物語が好きだった。


 だって、物語の中には生きた人がいる。まわりの世界のように、無機質な人間が徘徊している世界じゃない。


 作り物だけど、私にはあちらのほうが本物の世界に見えた。


 その好きな物語を、雨が降る教室の中で誰に邪魔されることもなく読める。ここ数年で私が得た唯一の大切な時間だ。


 5月はじめの雨はまだ寒く、窓を開けていると、流れ込む空気が肌を刺すような痛みがある。でも、私にとってはそれすらも心地よい。


 雨は好きだ。


 さーっと滝のように落ちる音が水の流れを感じさせてくれる。

 ぱちぱちと打ち付ける音が水の弾みを教えてくれる。


 決して人の手の入らない自然のみで構成された音楽。

 このたくさんの音が耳に飛び込んでくることに安心を覚える。


 ひとりでいることが好きだけれども、何の音もしない空間は落ち着かない。

 だってそれは死を思わせるから。


 誰もいない部屋。穏やかで急かされない空間。そして生き生きとした自然を感じられる音。それが私の理想。雨の日の誰もいなくなった教室はまさにそれだった。


 そうして30分小説を読んでいた。第1章が終わったところで本を閉じて、そこで気づいた。目の前に人がいると。


 もちろん私のほうを見ているわけじゃない。ただ机に突っ伏して、彼女は寝ていた。


 ちょっと、驚いた。


 私はどうしても様々な人から意識を向けられる人だったから、人の存在、意識というものに敏感だ。なのに、こんな目の前にいて私が気付かないくらい薄い存在の人がいたなんて。


 名前は憶えている。新田有希。そっと身を乗り出して、彼女の背中を叩いた。


「新田さん」


 そこでハッとした。なんで私は声を掛けたんだろう。そのまま無視して帰れば良かったのに。


 なんというか、授業が終わっているのに呑気に寝ている彼女を見て呆れたというか。そんな、ついやってしまったことだ。


「うー……?」


 彼女はゆっくりと起き上がり、まわりを見渡してから後ろを見る。


「あれ、終わってる?」


「とっくにね」


「そっか」


 これが、私たちが初めてかわした言葉。なんてことないやりとり。だけど、これがスタート地点だった。


 翌日も彼女は同じように眠りこけていた。いつもこんな感じだっただろうかと思い返すが、そんなことはない。


 毎日私は少しずつ小説を読んでから帰るが、その時には教室に誰か残っていることはなかった。彼女も帰っていた筈なのだ。


 やれやれと思いながら、私は本を開かずに彼女の背に触れた。


「新田さん」


 とん、とん、と2回ノックする。


「……うー」


 のっそりと動き出す。


「よくそんなに寝ていられるわね」


「窓際が心地いいからね」


 それだけの理由だったのか。あまりの呑気さに呆れるしかない。


 ただ、不思議なことに不快感はなかった。目の前にいる彼女に、他の人に感じるような嫌な視線や思考はない。


「いいわね、新田さんは気楽で」


 私はそんなふうに寝ていられない。授業中の態度で何かあればすぐ家に連絡がいってしまうからだ。


「そうかもね」


 彼女はそう答えた。そこで私は、彼女の影を見てしまう。言葉とその裏側にある表情が一致していない。


 彼女はただ呑気に過ごしているだけなのか。いや違う。彼女も逃避しているんだ。まわりから。そういえば、彼女には友達はいなかった。いつもつまらなさそうな顔をして過ごしていた。そんな、もともと影を背負っているような子だったと思う。


「いえ、ごめんなさい。あなたもいろいろと大変なのね」


 言葉を返すと、彼女は一瞬驚いた表情をした。


「どうしてそう思うの?」


「そう顔に描いてあったもの」


「……それだけ?」


「ええ、そうよ」


 抽象的な会話だったが、彼女はそれだけで察したようだった。


「まぁ、少しだけね」


        ◇


 不思議な感覚。彼女の言葉は私の中にグイグイと押し入って来る癖に、嫌だと思うことはなかったんだ。


 変なの。家族ですら私のことなんて読めやしないのに、赤の他人のほうが分かってくれるなんて。それとも、これがお嬢様として育ってきた宮田華凛という人間なのか。


「あなたもいろいろ大変なのね」


 驚いた。私はさっき呑気に過ごす自分を肯定する返事をした筈なのだ。なのになぜ、彼女は裏側にある気持ちに気づいたような返事をしたのだろう。


「どうしてそう思うの?」


 務めて冷静に、動揺しないようにして言葉を返す。


「そう顔に描いてあったもの」


 え?


「……それだけ?」


「ええ、そうよ」


 さも当たり前のように言ってくれる。


 あなたのことはもう分かっている。いったい何をもってそこまで確信しているのか分からないけど、彼女はそう確信しているようだった。


 それが、開けた窓から入る冷たい風よりも心地よくて、私は久々に人と話そうと思った。


「まぁ、少しだけね」

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