新田有希

「ただいま」


 玄関を通り抜けながら私は声に出す。相手に届くかどうかなんて関係ない。一応言いましたよという合図のようなもの。


 廊下を抜けて自分の部屋へ直行した。


 マンションの445号室にある私の部屋はそれほど広くない。木製のベッド、近くに本棚が、反対側には勉強用の机、真ん中に丸い短足のテーブルとクッションがある。中学生の頃から変わらない、私の部屋だ。


 早足で部屋に入ってカバンは机の上に放り投げ、自分はベッドに横になる。まぁまぁ良いベッドマットを選んだはずだが、もう何年も使い続けているせいか、少し反発が弱くなっていた。


 曇り空特有のうっすらとした灰色の光だけが照らす部屋でぼうと天井を眺めた。


 ――私の背中を押して。


 華凛の言葉を思い出す。それに対して、私は別に何の感情も湧いてこない。


 学校と同じように雨が窓を打ち付ける音がする。私は目を閉じて、今一度その音を聞いた。


 ……聞こえてくるのは、ただの雨の音だ。学校で聞いたあのメロディはどこにもない。子供が興味だけで雑に打楽器を鳴らしているような雑音だった。


 そこへさらなる音が加わる。


 乱暴に開け放たれたドア、それと同時に侵入してきたのは母だった。


「有希、醤油を買ってきてほしいってメールしたんだけど?」


「ごめん、気づかなかった」


「もー、なんのためにスマホ持ってるのよ」


 ベッドに寝転がったまま一切動かない私を見て余計に苛立ったのか、母は足音を大きくして去っていく。


 そんなに大事なことなら、誰かに任せず自分で買って来ればいいのに。


 メールなんて見る保証はない。授業が終わって見ることもあれば、家に帰るまで見ないこともある。場合によっては家に忘れて出かけることもあるだろう。


 そんな不確定なものを”見てる”と決めつけて行動するのはどうなのだろう。


「はぁ……」


 はっきりとため息が出た。今のやり取りだけで相当なストレスだ。


 私はこの手のやり取りが大っ嫌いだ。


 例えば友達が少ないこと、いや、いないことに対して口を出されること。


 友達が多ければ多いほどいい、というのはあんたたちが考える常識、または理想でしょう。


 なぜそれを当然として押し付けてくるのか。


 最近ではなくなったが、昔は「今日どうだった?」という質問もあった。


 これにどう答えろと言うのか。


 その日あったことを逐一報告する必要があるというのか。面倒にも程があると思う。それも毎日毎日。そんなに毎日変化するわけじゃないのは、人生を私より長く生きたあんたたちのほうが知っているだろうに。


 思考がぐるぐると頭の中を駆けて、考えなくてもいい余計なことまで考えてしまう。


 友達というのもそうだ。


 私はあんなふうに、人とくっ付いて話していられない。とんでもなく疲れる。

 会話を避け続けてきたわけじゃない。私だって、その中にいようとしたこともある。けれど、苦しくていられなかった。


 誰かと一緒になって、離れてひとりになって、そこで誰もいない状態が一番心地いいことに気付いたんだ。


 それが私にとってベストなこと。なのに、なぜそれがおかしいと言われなきゃいけないのか。


 人と話すことが凄く嫌なのだ。喋っているという行為がとてつもなく面倒と感じる。


 周囲と私との間には、人間のコミュニケーションという場において大きな亀裂があるのだろう。距離があるから、お互いに話そうとすると疲れてしまう。


 まるで断絶した孤島にひとりでいるような気分。だから私は、大きな溝の向こうの世界を眺めることでしかできない人間なんだ。


 だから家族という存在は厄介だった。私のような人間がいたとしても拡声器を使って何かあるたびに声を掛けてくる。


 毎日、毎日、毎日毎日。


 まるで囚人みたいだ。お前はおかしいと声には出さないが言われ続けていて、監視されている気分になる。これが何よりも苦痛だった。


 そして学生でなくなった後は会社に勤めて、新しい人間関係を作らなければならない。


 それはもう一生、人という監視が付いたまま生きるということなんだ。


 学校では勉強を、職場では仕事をさせられる。自分がしたくないことも、強制的に。なんという監獄。


 そんな苦しい生活は嫌だった。


 将来なんて全然楽しみじゃない。絶対辛くて苦しくて、嫌になる。


 だから死にたいと思っていた。


 これからもずっとずっと囚われて監視は続く。お前はズレている、おかしいことをしないように監視され続ける。


 別に犯罪行為をしようってわけじゃないのに、悪者を見る視線を受け続けるのは面倒だ。


 ため息をして、はいはいと返事をして、そのまま死にたい。誰の目線も感じない、静かな世界が欲しい。


 こんなにも、死にたいと思うなんて。


 壊れた人間なのだ。私も。


 けど、そう考えても死ねなかった。


 やっぱり、死ぬというのは怖いことだったから。


 ベッドの上で自分の首を絞めてみる。顎の下をぎゅっと掴んで呼吸できないようにする。


 苦しくて、すごく安心する。穏やかな気持ちが私の中に生まれてくる。


 このまま意識を失えば、すっと死ねるのかなと思う。


 でも、そこから先、本当の死が迫ってくると、私はぶるっと体を震わせて手を放し、目を見開いて天井を見る。


 死にたいと口にするだけじゃない。心からそう思っているのに。いざ目が覚めなくなると感じると、体は、脳はそれは拒む。もう何度やっても、たとえ他の手段であったとしても、死を受け入れられなかった。


 ひとりでは、自分では死ねないんだ。


 華凛も、これを感じたことがあるんだろう。自分で死ねないって言っていたのは、こういうことなんだろうな。


 だからこそ、私も華凛と。


 ――うん、私も、そうしよう。

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