いつかベネチア食堂で
森内優希
第1話 cry for the smile
「母さんごめんな。一生懸命頑張ったけど、うちらの生きていける場所、もうどこにも無かとよ」
車椅子を止めた川岸には、ひまわりの花が、朝もやの中で揺れていた。
「なんば泣きよっとね。あんた一生懸命頑張ってくれたやろう。母さん、本当に感謝しとるとよ。謝るとはこっちよ、迷惑ばっかりかけて」
そう言うと、ほとんど視力のない目で懸命に僕の顔を探し出し、乾いた両手で涙を拭いてくれた。
「もう、ここでよか。あんた一人でなら生きて行けるとやけん。ここにあたしば置いてから家に帰らんね。あとは一人で出来るけん。そして、これからは幸せになるとよ。母さんの分まで長生きするとよ」
僕は声にならない声でむせび泣いた。
オヤジが亡くなってから、次第に発症した母さんの認知症。昼夜が逆転し、突然怒り出したり、泣き出したり、外を徘徊したり。この4年、母さんの介護中心の生活を送ってきた。だけど、介護と両立出来る仕事は少なかった。休職してデイケアを利用しても、負担料金は家計を圧迫し、やっと見つけた仕事も退職を余儀なくされた。生活保護は失業給付金などを理由に認められず、残金は千円を切っていた。頼れる親族や友達も、もう居なかった。
「なんか食べたかもんある?」
すると母さんは少し照れながら言った。
「いつか誕生日に連れて行ってもらった、ベネチア食堂のかぼちゃスープば、もう一度食べたかねぇ。色々大変やったけど、父さんも元気やったし、あの頃が一番幸せやったかも知れんねぇ」
そう言うと、涙でうるんだ顔を見せた。
「そやね、あげん綺麗なレストランで外食すること無かったもんね。でもごめんね、もう連れて行ってあげれんで」
ありふれた会話がこんなに愛しいなんて知らなかった。最後になると分かっていたから、もっともっと色んなことを話したかった。だけど、だんだんと周りが明るくなり、もう少しすれば早朝に散歩する人も現れる時間になる。
「どこで歯車の狂ったとやろうね。なんも悪かことしとらんとにね」
母さんの言葉に涙が溢れた。
「でも、また生まれ変わっても、母さんあんたの母親になりたか」
そう言うと、母さんは車椅子の安全補助のレバーを外した。
「振り返らずに帰るとよ」
言葉は枯れはて、嗚咽しか出なかった。
「あんたは身体の弱かとやけん、健康には気をつけるとよ」
かさかさの両手で、僕の顔を何度も何度も包み込む。
「母さんごめん、なんも出来んで。本当にごめん」
「なんば言いよっとね、良くしてくれたたい。だけん行かんね、振り返らず行かんね」
するとオカンは全てを決したように、川に向かって車椅子をこぎ出した。
誰でも愛の物語を1つくらい持っている。会社への通勤途中、すれ違う何人かの見知らぬ人だって、思い出すだけで、胸が熱くなるような、愛の物語を持っている。相手は初恋の人かもしれないし、人生を変えた友人かもしれないが、たいていの人は、同じような日常の中にそれを置き去りにして、僕と同じように、些細なことで誰かを憎んだり疑ったり、いつの日か、誰かからもらった素敵な愛の物語に込められた、やさしい感情をすり減らしてしまうものだ。そして、その愛が消えてな
くなろうとした時、やっとその大きさに気づくのだ。
それは、ある夏の日のことだった。前の会社にいた時に患って、転職後に再発した幾度目かの神経症のために、僕は人知れず人生の淵にいた。四十を過ぎて、仕事以外の時間は部屋から出れなくなった。そんな情けない息子のために、初老にしては幾分元気な両親は、交代で長崎から福岡に出て来て、洋服や本の散乱した、まるで枯れ果てた僕の心情のような部屋を、黙々と汗をたらして片づけしてくれていた。
ある日、母さんは僕をじっと見つめて、ぽそりと言った、「もう、こん部屋ば出ようね」。自宅の窓からは、闇夜に浮かび上がる転職先の社屋がぽっかりとそびえ立っていた。思考能力が低下する症状だったとはいえ、昔は出来ていたことが日に日に出来なくなっていく毎日の中で、僕のプライドや尊厳は、ぽっきりと折れていた。だからこそ、帰宅してからも、その社屋に見下ろされる環境にいた僕のことを不憫に思っていたようだった。母さんはその頃のことを思い出して、たまにこんな風に行っていた。
「福岡に行くバスば、長崎の停留所で待っとるときに、そんバスのブレーキの壊れて、こっちに突っ込んできてくれたら、母さんどげんに楽になれるとやろうかと思ったとよ」
そして母さんの76歳の誕生日。僕らは、けやき通りにあるベネチア食堂っていう、こじんまりしながらも、手入れの行き届いたイタリア料理屋にいた。家に引きこもることに慣れて、人目にさらされるだけで手が震えてしまっていた僕は、周りで幸せそうに食事をする家族やカップルに挟まれて、自分へのすごく情けない気持ちと、そんな姿を見て、心を痛めているだろう母さんへ、なんとも堪らない気持ちに打ちひしがれていた。そして、精一杯微笑みかけながら、「おいしかね、お父さんにも食べさせてやりたかね」という母さんが、自身も更年期という、厳しい症状と闘っていることを知らなかった。
そして数日後、仕事を終えて部屋に帰ると、
あと何日かいるはずだった母さんの荷物が消えていた。「急用が出来たので帰ります」という置き手紙だけを残して。母さんへの電話はずっと留守電になっていたので、気がかりに思った僕は、父さんに電話を入れた。すると「よかとよかと、なんかちょっと急用のあったけん。別に心配することはなかけん、はよ今日は寝らんね」と。
次の休日、僕は長崎行きの長距離バスの中にいた。当時は福岡にいるのが厭でしょうがなかったから、休みともなると、毎度のように帰省しては、ただただ実家の慣れ親しんだ部屋で、眠剤を飲んでは寝て過ごしていた。しかし、その日は様子が違っていた。玄関のチャイムを鳴らすと、出迎えてくれるはずの母さんの姿がなかった。リュックに入れていた鍵を取り出すと、そのまま玄関を開けた。「帰ったよ、、」返事もないのでうろつきまわると、畳の部屋に布団がしかれ、母さんが気まずい顔で寝ていた。そしてその足には、白いギブスがまかれていた。
「母さん、こないだお友達の吉田さんのおばちゃんと散歩中にちょっとこけたとよ、ごめんね、おっちょこちょいで」
電気を消した部屋には、湿布の匂いと畳の匂いが充満していた。そして、仕事から帰宅した父さんの作ってくれた料理を食べて、僕はいつものように自分の部屋で休日を過ごし、福岡へと戻った。バス停までは、普段から口数の少ないオヤジが送ってくれた。そしていつものように、ドアを閉める時に手をギュッと握ってくれた。
おだやかな環境が育ってきた長崎の田舎に似てるからという理由で、少しだけ郊外に引っ越しをすることにした。手続きもすべて両親まかせで、僕は業者の人が新居をうろうろしている間、ずっとクローゼットの中に隠れていた。そして部屋の荷物が片付けられた頃、さすがにいたたまれなくなった僕は両親に「ありがとう、がんばるけん、本当にごめん」と謝りながら、本当に思ってることがあったら正直に話して欲しいと話した。
溢れでた両親の感情。
「心配だし病気のせいだってわかってる。でも、もっと頑張れることもあるでしょ?わたしたちだって若くはないし、出来ることと出来ないことだってある。ほんとうに、どうしてやっていいのか分からんとよ」と泣きながら母さんは叫んでいた。
受け止められなかった僕は、「なんとか頑張るけん、早く病気治すけん」と、何を思ったのか思いっきりビンタしてくれと頼んだ。
オヤジからバチン。こんな時ながら、手加減するものと思っていた甘い僕。そして母さんも泣きながら「頼むから、しっかりしてよ」って。だけど母さんは、一発じゃ足りなかったのかもう一度思いっきり、ビンタしてきた。僕はあの時の両親の顔を、今でも鮮明に覚えている。そして、あの頬の痛みは一生忘れないだろう。
それから数年、職場の配慮や自分に合う精神科医と出会えたことで、僕の症状は緩やかに改善していった。もちろん一番大きかったのは両親のサポートだった。もう薬を飲まなくてよくなり、仕事もこなせるようになった。ふつうに生活出来ることが、なんて幸せなことだと気づくことが出来た。そしてようやく二人に恩返しが出来ると思っていた矢先のことだった。オヤジの肺に腫瘍が見つかった。それも手のつけようの無い、ステージ4の末期ガンだった。タバコもギャンブルもやらず、ただただ真面目に誠実に生きて来た人なのに、、、人の悪口や辛くても愚痴もこぼさない人なのに、、、僕は神様の理不尽さを憎んだ。
「まだ胸が痛む?」
病室に行くと、母さんがリンゴを剥く横で、やせ細ったオヤジがベッドで横になっていた。
「ごめんな心配ばかけて」
読みかけの朝刊を置くと、こっちを向いた。
「仕事は順調ね」
「あぁ、なんとか出来てるよ」
「そうやったらよか」
ぎこちない会話が続く。
オヤジは早くに父親を亡くし、中学校で母親を失ってから、天涯孤独で生きて来た。そして夜間学校に通いながら造船所で働いていた。オヤジにいつか「一番嬉しかったことは?」と聞いたことがある。
「そいは、母さんと結婚して、お前が産まれたことさ。父さんは家族のいなかったけん、やっと家族の出来たって」
そう言うと、痩せこけた手を伸ばして来た。
それをギュッと握り返すと涙がこぼれた。
あれは高校生の時だった。仕事では作業着、普段着も決してお洒落とは言えないオヤジに「立石くんのお父さんみたいに、もっと服に気を使っててよ」と言ったことがあった。すると、とても申し訳なさそうな顔をして、こう言った。
「父さんは生きのとか家庭ば守るとに必死で、お洒落とか考える時間のなかったとさ。ごめんね。これからは、もっとお洒落になるけん」
そして次の日、どこで買って来たのか、赤いセーターを恥ずかしそうに着ていた。
病気が発覚してから2カ月後、オヤジは天国へと旅立った。夜勤明け、急いで向かったけど間に合わなかった。深夜の急な体調異変で眠るように亡くなったそうだった。
「お父さん、安らかにいったとよ。苦しまずにいったとよ」
母さんは病室の椅子に座り、オヤジの手を握りながら泣いていた。
「あんたに、ありがとうって言いよったよ。何度も何度、ありがとうって」
葬式の日は、奇しくも僕の48才の誕生日だった。親戚はいないけれど、定年まで勤めていた会社で慕われていただけあって、元同僚の人がたくさん来てくれた。色んな人が「本当にお世話になった」と伝えに来てくれた。
そして無事に納骨や様々な手続きを終え、一息つけた4日目の晩、オヤジの携帯を解約しようと何気なく触っていると、写真フォルダに目がいった。それを開くと、家庭菜園が趣味だったオヤジらしく様々な野菜の写真が写っていた。そして動画フォルダを開くと、病室で撮影されたようなトップ写真が見つかった。震える手で、それを再生した。
「これを見よる頃には、父さんはこの世におらんと思う。本当にごめんな」
オヤジは苦しそうにベッドから体を起こしていた。
「やっと、お前が元気になって来てくれて、これからは母さんと一緒に3人で旅行に行ったり出来るようになったと思っとったとにな」
その目からは涙が溢れていた。
「母さんは繊細な人やけん、宜しく頼むぞ。もっとそばにいてあげたかったけど、もうそれは無理みたいだ」
鼻からチューブが通されて苦しそうに話す。
「だけど、母さんと結婚して、お前が産まれて来てくれて、父さん本当に幸せな人生やったよ。本当にありがとう。そしていつか、、、」
そこでプツリと動画は切れていた。他にも動画はないか探したけど、それしか無かった。
オヤジが亡くなってから半年、法事などもあって、実家には頻繁に帰っていた。そこで気付いたのが、母さんの緑内障の悪化だった。二度ほど手術を受けていたが、最近は家に引きこもるようになって、通院を休みがちになったからか、右目はほとんど見えなくなっていた。それは長崎のように坂の多い町では車の運転も出来ず、生活用品の買い出しが出来ないことに繋がっていた。
「母さん、福岡で一緒に住もうか?」
何度か誘ったけれど、やはり慣れ親しんだ長崎の方が暮らしやすいようだった。だから食事や日用品の宅配もしてくれるデイサービスを申し込むことにした。
そしてオヤジの一周忌が過ぎた、ある日の早朝のことだった。母さんから泣きながら電話があった。
「お父さんの帰ってこんとやけど」
最初は何を言っているのか分からなかった。
「買い物に出たまま、連絡のなかと」
たぶん寝ぼけているのかと思った。
「昨日はおったとよ、一緒にご飯ば食べて」
取り乱しているようだから、会社に休みの連絡を入れて、すぐに長崎に向かった。
「なんがあったと?どうしたと?」
母さんは何かに怒っているようだった。そして後から駆け付けた、デイサービスの職員の人が小さな声で言った。
「医者の再検査を受けてはどうでしょうか」
僕は嫌がる母さんを連れて病院に向かった。
「なんも無かったら、それで安心やけん」
母さんは車の中から、不安げに外をながめていた。しかし悪い予感は的中した。医師の診断は、要介護度3で中度の認知症。思った以上に容体は良くなかった。出来れば早急に誰かと住んだ方が好ましいとの事だった。長かった僕の病気の時のオカンの献身的なサポート、それを思い出すと迷っている時間は無かった。
「僕が母さんの面倒を見ます」
会社の上司に話すと、介護休職を勧めてくれたけれど、それは最大で93日。これから長く続くだろう介護生活のことを考えると、
長崎の友人が誘ってくれた会社の営業職で働く方が賢明だった。福岡のマンションを引き払い、実家の賃貸アパートへ。家具などいらないものは、友人にあげたりリサイクルショップへ引き払った。こうして50を手前にした僕と、80を過ぎた母さんとの共同生活が始まった。
最初の夜はスーパーの見切り品のお寿司で、ささやかな門出を祝った。今後のことを考えると贅沢は出来なかった。母さんの症状も少し落ち着いて来たようで、仕事前にデイサービスから迎えが来ると、嬉しそうに手を振って中型のワゴンに乗って行った。
「今日はみんなで、折り紙ば作ったとよ」
母さんはお茶を入れながら微笑んだ。そんな姿を見るにつけ、僕は自分の選択が正しかったと思っていた。だけど戸惑うこともいくつかあった。母さんには母さんなりの生活のルールがあり、それを無視すると、母さんは子供のようにそれを嫌がるのだった。
「はい、青汁。野菜不足は体に悪かけんね」
朝5時になると、母さんは必ず僕の部屋にやって来た。
「なんね、こげん早くに。昨日は遅かったけん、もう少し寝かせてよ」
そう言っても、母さんは飲み終わるまで部屋から出て行こうとしなかった。思い返せばそれは、オヤジと母さんの日課だった。
「今日は何ば食べたか?」
身の回りの世話と掃除洗濯は僕が、食事は母さんが担当することになっていた。
「別になんでも良かよ」
そんな答えをすると悲しい顔をするので、「今日は肉かな」「久しぶりに魚」なんて適当に答えると、嬉しそうに「ありがと」と言うのだ。そして会社に出かけると、小学生の息子を見送るように、僕の姿が見えなくなるまで手を振り続けるのだった。
新しい職場は慣れるのに大変だった。ずっと内勤で、外回りの仕事は初めてだったから、自分よりふた回りも年下の上司の後をついて仕事を覚えるのに必死だった。そんなある日の深夜だった。トイレに起きると、お風呂場に電気が灯り、中から小さな声ですすり泣く声が聞こえた。
「どうしたと、こげん遅くに」
呼びかけると母さんは、その洗っているものを隠した。
「俺がするけん」
変わろうとすると、母さんはその手を振り払い、また泣き出した。それは黄色く汚れた下着だった。
「ごめんね、起きたら濡れとった」
「よかとよ、謝らんで」
その日を境に、母さんは色んなことから自信を失っていった。
「味の濃くなかやろか?最近あんまり分からんとさね。美味しくなかったら残してね」
あんなに得意で大好きだった料理。砂糖と塩を間違うことも多くなった。
「いや、美味しかよ。母さん食べんと?」
僕は無理して残った塩辛い卵焼きを頬張った。
そして事件が起きる。デイサービスから帰った母さんが、部屋の中で転倒し右手の骨を折ったのだった。
「ごめんね、うっかりしとったとよ」
職場から駆けつけると、母さんは病室のベッドで小さく横になっていた。荷台に乗って棚から荷物を取ろうとした時に、バランスを崩して転倒したそうだった。
「でも、なんですぐに電話してこんやったと?」
救急車を呼んでくれたのは、連絡を受け駆けつけてくれたデイサービスの職員だった。
「あんたの仕事に迷惑のかかると思ったと」
母さんはそう言うと枕に顔を埋めた。
退院には二週間かかった。医師の診断によると、緑内障は悪かった右目だけではなく、左目にも進行しているようで、近い将来、視力を失う可能性が高いとのことだった。そして足腰の衰えから認知症は悪化することが多いので、気をつけて欲しいと念を押された。
そんなある日の夜のことだった。真夜中過ぎにトイレに立つと、寝ているはずの母さんの姿がベッドに無かった。開け放たれた玄関のドア。急いでジャンパーを着ると、母さんを探しに外に出た。いつもいく公園、近くのコンビニや公民館、、、どこにもいない。そして思い切って飛び込んだ交番にパジャマ姿の母さんはいた。
「うちの母です。何かあったのですか」
「いえ、真夜中に県道を歩いている老人がいるとの通報があり、保護したところでした」
母さんは靴も履かず、足は泥だらけだった。
この日を契機に、夜間の徘徊が始まったのだった。
「お父さんのおらんとよ」
残業に疲れ、家事をし終えた頃に、母さんが泣きながら僕に尋ねてきた。
「さっきまでおったよね」
僕はなんて答えていいか分からなかった。
「お父さんはどこ?」
「もう、おらんとよ」
僕は母さんを抱きしめるしか出来なかった。
あんなにしっかりした人が、どんどん知らない人になっていく。昔、テレビで見た認知症の番組そのままだった。朝起きても父さんのいない現実に混乱。夜は父さんを探して徘徊。正直もう、いい加減にしてよと思ったこともあった。それでも、それを相談出来る人は身近にいなかった。これまで、母さんが注いでくれた優しさや愛情に報いていくしかなかった。
「ごめんね、こげんことまでさせて」
オムツを替えていると、母さんは申し訳なさそうに謝った。
「なんば言いよっとね、お互い様やろが。小さい時は、僕がしてもらいよったし」
そう言うと、少しは気分が楽そうだった。だけど、介護に仕事に病院の送り迎えで、僕の疲労は溜まっていた。
「今日はデイサービス行きたくなか」
朝ごはんと仕事の用意をしていると、母さんが急にぐずり出した。
「なんば言いよっとね、もう迎えの来るよ」
「だけん行きたくないとって」
そして布団から出て、車椅子に乗ろうとしない母さん。それをなんとか説得し、着替えを済ませて急いで会社に向かっている時のことだった。僕は追突事故を起こしてしまった。
「介護で疲れとったとは分かるけど、会社の規範やけん、ごめんな」
会社に誘ってくれた同級生は言った。
「どうにもならんのやろか」
「すまん、力になれんで」
田舎の零細企業、同級生の配慮があったとはいえ、事故を庇ってまで50過ぎの新人社員を雇っていく余裕はもう無かったようだった。僅かばかりの退職金をもらい、僕は職場を去ることになった。
「いやー厳しかですねー。その年齢で正社員の再就職となると」
「母親の介護もあるとです。なんとか、ならんでしょうか」
ハローワークでの押し問答は続く。僅かながらの蓄えや退職金、母さんの年金では、デイサービスや病院の治療費、事故の示談金やアパート代を払っていくのは厳しかった。
「お父さん朝よ、仕事に行かんば」
その頃になると、母さんは僕のことをオヤジと間違うことが増えてきた。そして、いつものように、その手には青汁が握られていた。失業保険は三ヶ月、なんとかその間に新しい仕事を見つけなければならなかった。僕は母さんにそれを悟られないように、スーツに着替えると、朝もやの中、同じ時間に家を出るのだった。夜は母さんの徘徊に備えて熟睡出来ない分、どこかで寝ておく必要があった。ハローワークで仕事を探した後、公園のベンチや市立図書館で仮眠をした。そして夕方になるとスーパーの見切り品を買って帰る日々。もうこの頃になると火事が怖くて、母さんに料理を任せるのは厳しくなっていた。そして失業保険が打ち切られた、ある夏の日のことだった。母さんの緑内障の手術を境に、デイサービス代やを払うことさえ出来なくなった。そして目が覚めると、一時間くらい朦朧とする日々。神経症が再発したのは明らかだったが、病院に行く余裕は無かった。
冷房をかけれないアパート。
「ごめんね、暑かろう?」
「母さんは大丈夫とよ。あんたこげん汗ばたらしてから。風邪ばひくよ」
そう言うとタオルで汗を拭ってくれた。
「ごめんね、母さんが迷惑ばっかりかけてから。本当にごめん」
「なんば言いよっとね。全然迷惑じゃなか。そいじゃ、会社に行ってくっけん」
そう言って立ち上がろうとすると、母さんが僕の手を引いた。
「もう嘘つかんでよかよ、母さん分かっとっとやけん。ごめんね、あんたに嘘ばつかせてから。きつかったやろ、ごめんね」
その目からは涙が溢れていた。
財布には二千円しかなかった。返すあてもなく借りてしまっていた消費者金融も限度額に達していた。
「もうよかとよ、色々頑張ってくれて。母さんこれ以上、あんたに迷惑かけとうなか」
「どげん意味ね」
「あんただけ生きて欲しか。母さんはどこかに置いてこんね。お父さんのとこに行くけん」
そう言うと、僕を強く抱きしめた。
「また生まれ変わっても、あんたのお母さんになりたか」
また、僕を強く強く抱きしめた。
「では被告は入廷し、被告人席に立ってください」
裁判官に促され、静かに検察官の冒頭陳述を聞いた。
「被告人は被害者である母親が、自殺の意思があることを知りながら、2019年8月18日の早朝、浦上川の川辺に連れて行き、それを幇助。その後に自らも自殺を図ったものの一命を取り止めた。罪状は日本国刑法202条、自殺幇助罪に当たるものとする」
静まり返る法廷に裁判官の声が響く。
「違っている点はありますか」
「ありません」
絞り出した声は裏返った。
あの日、僕は母さんの言う通り、振り返ることもせずに走り出した。そして罪悪感に苛まれ、その場所に戻った。しかしそこにはもう母さんの姿は無く、着ていたカーディガンが川面に浮かんでいた。それを見た時は、やっと母さんが楽になってくれたと涙が止まらなかった。続く裁判の過程でも、その気持ちは変わらなかった。もう二人で生きていく場所はこの世になかったのだ。それは母さんの最期の願い事であり、最期の親孝行だった。
そして判決の日を迎えた。最後に裁判官は一呼吸置くと口を開いた。
「自らの母親の尊い命を奪う手助けをしたと言う結果は、取り返しのつかない重大犯罪であるが、経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し 自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当と考える。よって被告人を懲役1年6ヵ月に処する」そして続いてこう言った
「この裁判確定の日から3年間 その刑の執行を猶予する」
法廷内がどよめくのが分かった。
「被害者は被告人に感謝こそすれ、決して恨みなど抱いておらず、今後は幸せな人生を歩んでいける事を望んでいるであろうと推察される。今後あなた自身は生き抜いて、絶対に自分で自分をあやめる事のないようにお母さんのことを祈り、お母さんのためにも、幸せに生きてほしい」と語った。
僕は涙を堪えることが出来なかった。
「また、お母さんに会いたいですか?」
「はい、今度はこの手で、優しく肩を叩いてあげたいです」
いつかベネチア食堂で 森内優希 @ukick1976
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