メモ7◆バイト帰りの駅のホームにて

 水曜の夜である。

 店長に叱られつつ、俺はバイトに勤しんでいた。

 メモには『客にはすぐに水を出す。料理が出来上がったらすぐ出す。誠意を持て』などと書いている。

 メモのページをめくると、先週の同じ曜日にも同じようなメモが残っていた。店長からも「先週言っただろう」というようなことを言われた。しかし、先週のバイト中のことなどほとんど覚えていない。俺は、先週も同じようなミスをしたのだろうか?


 入り口が開閉する音がした。新規の客だ。

「いらっしゃいませ!」

 居酒屋らしく声を張り上げ、客を案内する。

 女性の一人客だ。珍しいな、と思いながら案内しようとすると、女性客は「ちょっと!」と俺の腕を掴んで引っ張ってきた。

 俺が驚いて客を見ると、客はにこりと笑って「バイト先の住所聞いてたから、来ちゃった」と言った。

 長い黒髪に、白い簡素なワンピース、白いパンプス。合皮の茶色い鞄を持ち、長袖のジャケットを羽織っている。


「……えっと、」

 一瞬逡巡したものの、俺は思い出す。

「……香澄さん!」

「もしかして、迷惑だった?」

 香澄は、少し不安げに俺を見上げた。

「いえ! 迷惑だなんて!」

 俺は慌てて釈明したあと、香澄を席へ案内する。

「今日、どうしたんですか?」

「ううん、特に、何もないんだけど……、えっと、バイトって何時に終わるの?」

「終電までには」

「じゃ、それまでここで飲んでてもいい?」

「わかりました」

 俺は香澄に水を運び、ホールの仕事に戻ろうとして、店長に「水と同時にドリンクの注文!」と大声で注意された。


 やっとバイトを終え、帰ろうとしたところで、香澄のことを思い出す。うっかり置いて帰るところだった。

 香澄の席へ行くと、香澄はカクテル数杯と料理数品を食べたところだった。

 残っていた甘そうなカクテルを飲み干すと、香澄は立ち上がった。

「帰ろっか」

 香澄は酔っているらしく、頬は紅潮し、理由もないのに機嫌がよさそうであった。


 俺は、香澄と並んで駅まで歩いた。

 左隣の彼女は、俺の手を取り、指を絡めた。俺は、そういえば小テストがそろそろ近いことを思い出した。


 駅のホームに到着すると、彼女は、俺の腕を引いてどこかへ案内した。

 ホームに人はまばらで、静かである。

「あのね、君にプレゼントしたいものがあるの」

「プレゼント?」

 彼女は、合皮の茶色い鞄から、ラッピングされた箱を取り出した。片手で持てる程度の、長さと高さのある直方体の箱だ。

「開けてみて」

 言われた通り、包みを解いて中身を確認する。

 それは、時計だった。

 黒い文字盤の両端に、銀色の金属のバンドが繋がっている。文字盤の中には更に小さな文字盤があり、白い数字が空間を埋めている。それなりに値の張る時計だということが見てとれた。


「君、時計してないみたいだったから、プレゼントしてみました」

 彼女は、照れ恥ずかしそうに笑った。

「ありがとうございます」

 俺は礼を言ったあと、時計を取り出し、左手につけた。空になった箱は鞄へしまった。

「どうですか?」

「うん、格好良い」

 彼女は満足そうに笑った。


「この場所がどこか、わかる?」

 俺は、この場所についての心当たりがなかったため、素直に「わからない」と答えた。

「ここはね、一週間前、ちょうどこのくらいの時間かな? 私と君が出会った場所だよ」

 一週間前? この場所で出会った?


 周囲を見回す。近くにはベンチがある。少し離れた場所には、電車の乗り降り口であることを示すペイントが施されている。しかし、今いる場所にはペイントがない。


「一週間前、私はここで、自殺するつもりだった。でも、君はそんな私を助けてくれた。君は私に勇気をくれたの。これからも、前を向いて歩いていく勇気。すごく、感謝してる」


 そういえば、先週、この場所で自殺未遂の女性を助けたような気がする。

 時間を携帯で確認する。そうだ、ちょうど、この時間。


 駅にアナウンスが流れる。快速電車が通過するから注意しろとのことだった。


「私ね! やっぱりちょっと考え直したの。私、まだ、この街にいたい。君のいるこの街に、残りたい。君と一緒に、これから先を、歩いていきたい」


 俺と彼女は黄色い点字ブロックと平行に立っている。

 彼女が自殺しようとしていた場所に、立っている。

 ホームに人はまばらで、静かである。


「ねえ、××くん、私と、付き合ってくださ――」


 彼女が何か言う前に、俺は彼女を抱きしめた。

 そしてそのまま、線路へと突き落とした。


「え」


 彼女の間抜けな声を、快速電車が塗り潰した。

 柔らかい肉が轢き潰される音と、液体が飛び散る音を広げながら、快速電車が轟々とホームを駆け抜けていった。風が吹いて、俺の髪を散らした。

 俺はその場に立って、いろいろなところに撒き散らされた彼女を見ている。


 突き落とした瞬間は、まるでスローモーションのように脳裏に焼きついていた。彼女の、理解の追いついていない表情。風を受け広がる長い黒髪と白い簡素なワンピース。左袖から覗く白い包帯。そして、耳で揺れる、儚げな青色のピアス。


 ホームをはるか通り過ぎたところで電車は止まり、俺は駆けつけた駅員と警察に事情を聞かれることとなった。

 俺は神妙な面持ちで、彼女と偶然出会い、止めようと抱きしめたが、彼女はそれを突き飛ばすように拒否し線路へ飛び込んだと説明した。

 彼女が先週の同じ時間にも自殺未遂を試みていることと、俺たちがうっすら視界に入っていただけの酔っ払いの目撃者が『そのように見えた気がする』と証言したことから、俺は疑われることなくあっさりと解放され、彼女は『自殺』として処理された。


 殺したことに明確な理由はない。

 ただ、殺せそうだったから、殺した。

 今なら殺しても罪に問われないかもしれない、そんなベストなタイミングだったし、ちょうどできそうだなと思ったから、殺した。

 触れれば壊れそうな、陰のある、儚い雰囲気の女性だった。

 実際、突き落としたら、壊れた。

 とても、美しい最期だった。

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