5.あなたの中に海がある。

40話 いまさら泉と言われても

 遠い異国の地で、どういうわけか俺は便器を見つめていた。


「見なさい、これがマルセル・デュシャンの『泉』よ」


 俺の隣に立つ美少女が得意げに言った。泉、と言われても、ショーケースの中にあるのはどこからどう見ても小便用の便器だ。


「ただの便器にしか見えないんだが」


「まあ、あんたに高尚な芸術は理解できないでしょうね」


「篠原にはわかるのか、この便器の良さが」


「あ、あったりまえよ! 他の便器とは一線を画しているわ。ほ、ほら見なさい、この曲線なんて、とても繊細よ」


「これは『泉』のレプリカって書いてあるんだが」


 日本語のパンフレットにはっきりと複製の文字があった。


「れ、レプリカにしてはよく出来てるって言ったのよ」


 付き合い始めて一ヶ月は経ったというのに、彼女は俺の前で変に強がる癖が抜けてない。そろそろもっと自然に振る舞えてもいい頃合いだろうに。まあそんな彼女も可愛らしいのだけど。


 フランス、パリの中心部に立つポンピドゥセンターは、その外観からして風変わりな建物だった。建築現場の足場のような鉄骨に覆われ、透明な外壁は内部を晒している。建物の対角線をなぞる様にチューブ状のエスカレーターが張り出し、まるで工事の途中でほっぽり出したような見た目だ。そして何より上階の美術館には便器が展示してある。便器だけじゃない、絵の具をただ撒き散らしたような絵や、真っ赤な背景に黒い四角が一つだけ描かれた絵とか、芸術に疎い俺にはさっぱり理解出来ない物ばかりだった。


「言っておくけど、あなたが行きたいって言い出したのよ」


 トイレから戻った俺が不満気に見えたのだろう。篠原は自分に非はないと強調した。ちなみになんの配慮なのか知らないが、センターのトイレに小便器はなかった。


「いやこのスニーカーの起源を拝んでおきたくてな。まさか現代美術がこんなに斬新だとは思わなかった」


 彼女の足元にも俺と同じ不釣り合いにゴツいスニーカー、そして腕にはこれまた同じ不釣り合いな時計が嵌められている。いや観光で歩いて回るにはスニーカーや丈夫な時計は適しているかもしれない。今日の彼女は白いワンピースに濃紺のジャケットを羽織っている。装飾の少ないシンプルな格好だ。俺は小さいリュックを背負っていたが、彼女はポシェットに手荷物をまとめている。他の荷物は既にホテルに送ったそうだ。


「さあ急ぎましょう、次はピカソ美術館よ。折角パリに来たのだから、楽しまないとね。レッスンが始まったら、観光なんてしてる暇もないんだから」


 それほどルイ先生のレッスンは厳しいのだろう。久々に訪れるパリを篠原は見て回りたいらしい。俺も初めての海外に浮き足立っていないわけじゃない。けれど、俺の目的は観光ではないのだ。彼女に旅行に誘われてからずっと考えていたことがあった。篠原には悪いけれど、ピカソ美術館はキャンセルさせてもらう。


「悪い篠原、トイレに忘れ物をしたみたいだ。すぐ取ってくるから、先に出口で待ってくれ」


「忘れ物? トイレに何を忘れるのよ?」


「それは……携帯用ウォシュレットだ。それ以上は聞かないでくれ」


「あなた、まさか……」


「ああ、旅の必需品なんだ」


「……今度、良い病院を調べておくわね」


 篠原は俺の嘘を疑いもせず、快く送り出してくれた。俺はトイレに行くふりをして、別の出口からこっそりとセンターを後にした。センターから離れてしばらくすると、スマートフォンから着信音が鳴り始める。俺は彼女を心配させないように短いメッセージを送った。


『悪いが急用ができた。夜にはホテルに戻る。安心してくれ』


 そうして俺は、見知らぬパリの街路を歩き始める。




 俺が日本を発つ前、篠原には内緒で、俺と妹とその友達の瀬川塔子の三人で家に集まった。妹に頼んでまで塔子に来てもらったのは、知り合いの中で唯一パリに行った経験があったからだ。


「ムーラン・ド・ギャレット?」


「ええ、モンマルトルにあるレストランです。かつてはルノワールやロートレックの絵画にも描かれた有名な場所なんですよ、お兄さん」


 なぜだろう、塔子にお兄さんと呼ばれると背中にナイフが滑るようなぞくりとした感覚が走る。篠原は塔子のことをえらく気に入っているようで、あの写真の一件以来、2人でよく話すらしい。俺の方はどうにも彼女が苦手だ。それでも今はパリをよく知る彼女だけが頼みだった。


「それで、そのモンなんとかはパリから近いのか?」


「モンマルトルはパリにある小高い丘です。頂上にはサクレ・クール寺院があります。詳しい事はメールで送りますよ」


「それは助かる。横文字を覚えるのは苦手なんだ。それでそこに行けば可能性はあるんだな?」


 俺はよしのにもう一度確認する。


「はい、雑誌のインタビューにも馴染みのお店だと書いてありましたから。でも可能性は低いと思います」


「それでもいい。元から賭けみたいなもんだからな」


「大丈夫ですよ。お兄さんは必ず会えますよ」


 どういうわけか彼女はキッパリとそう断言した。


「塔子、適当なこと言わないでください」


「どうしてそう言い切れるんだ?」


 俺は責める妹を制して、塔子に訊ねた。


「行けばわかりますよ。放蕩と禁欲、隷属と支配、敗走と凱旋、芸術と汚穢、要は全てが揃っている。パリはそういう街です。いずれはお兄さんの欲するものにかち当たるでしょう」


 彼女の語り口には妙に説得力があった。本当に全てが揃う街ならば、そこには出会いも、別れもあるのだろう。


「だいたいどうして篠原先輩に聞かないんです? その方が手っ取り早いじゃないですか」


 彼女の疑問は至極真っ当だ。篠原に相談もなく俺が出しゃばることもない。


「まあ、これは俺のわがままみたいなものだ」


 確かにこれは身勝手で、わがままで、余計なお世話で、どうしたって蛇足の域を出ないそういう類のことなのだ。だがたまにはそういうことがあってもいいんじゃないかと自分に言い聞かせている。


「お兄さんのそういうところ、私は嫌いですよ」


 二人とも素直になればいいのに、塔子はそう呟いてから、


「まあそれはそれで気持ち悪いか」


 と、勝手に一人で納得したのだった。


「……とにかく助かったよ。後は向こうでなんとかやってみる」


 とは言ったものの、いざ言葉の通じない大都市に一人で立ち尽くしてみると、言い知れぬ不安に襲われる。空港からセンターまでは篠原の案内があったから、なんら困ることはなかった。ここからは俺1人で目的地を目指す必要がある。


 しかし、スマホがあればそう苦労はないだろう。空港で買ったSIMカードは既にスマホ入れてある。GPSのある現代では迷子になる方が難しい。都会だから移動手段も無数にある。金はかかるが、最悪タクシーで目的地に直接向かうこともできるのだ。


「その前に腹ごしらえだな」


 パリを歩けばすぐに観光名所にぶつかるようで、前方に城のような豪奢な建物と観光客の姿があった。何故かは知らないが、建物の前にはメリーゴーランドがポツンと設置されていて、子供たちで賑わっていた。そのすぐそばにバケットサンドを売るフードトラックが停まっていた。空港でコーヒーを飲んだきり、何も口にしていなかった俺はすぐに飛びついた。


 途中で、一人旅の観光客に英語で呼び止められた。英語も苦手なんだよな、と思っていたら、単に建物をバックに写真を撮ってもらいたいだけのようだった。渡されたカメラで数枚写真を撮ってあげると、観光客は偉く感謝した様子で礼を言って去っていった。なんだ言葉が通じなくても意外と意思疎通できるじゃないか、と俺は得意げになり、そのまま屋台の列に並んだ。


 順番が来ると俺はさっきと同じ要領で、メニューを指さしたり、身振り手振りを交えて注文をする。しかし上手く伝わらなかったのか店主は首に横に振った。仕方なく俺はカタカナ発音の英語でメニューを読み上げた。元よりフランス語など話せるはずもない。やはりというべきか、店主はまた首を振った。そして店主は痺れを切らしたように鼻鳴らしてから言う。


「ワルイガ、サンドイッチ、ウレナイヨ」


 それは発音は怪しいが普通に日本語だった。観光客相手に覚えたのだろうか。


「カバン、ミロ」


 店主に促されるまま、俺は自分のリュックを確かめた。鋭利なナイフか何かで切り裂いた大穴が開いている。そしてその穴を通ったのだろう、財布とスマホが姿を消していた。


「まさか、さっきの観光客が……」


 1人が声をかけカメラを覗かせている間に、もう1人の仲間が財布をするのだろう。まんまと引っかかってしまった。


「ヨーコソ、パリヘ、ニホンジン」


 愛想笑いも浮かべずに店主は言い放った。

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