38話 souvenir

 それは七月の半ば、クラス中が迫り来る夏休みに浮足立っている時だった。かくいう俺も、初めての彼女ができてすっかり浮かれていた。そんな弛緩した空気の中、それは不意を突くようにやってきた。やっぱり俺には青春なんてご大層なものは似合わないらしい。


「大変だよ、タカちゃん!」


 教室のドアが開くと同時に、横宮ひなたが大声で叫んだ。放課後の教室にまだ残っていた生徒の注目を浴びながら、横宮は俺に近づいてくる。篠原はすでに教室を出ていて、三好と二人でNSP(携帯ゲーム機)で遊んでいるところだった。


「タカちゃん、聞いて、大変なの」


 俺はゲームを中断して横宮に向き直った。


「あのね、あのね……」


 横宮は言い出す前から大粒の涙を流すものだから、教室から連れ出して、人の気のない場所で落ち着かせなくてはならなかった。


「いったいどうしたんだ?」


「さっき、顧問の先生に練習メニュー聞きに職員室に行ったの。そしたら、ミズちゃんと担任の先生が話してて……」


 なるほど、あいつ先に帰ったと思ったら職員室に行っていたのか。


「ミズちゃん、フランスに行くんだって」


「……そうか」


 どおりで最近の篠原はやけにそわそわしていると思った。そういうことだったのか。


「そうかって、タカちゃん。フランスだよ。フランスってすごい遠いんでしょう?」


「だろうな」


「それってミズちゃんに簡単に会えなくなるってことだよ」


「わかってるよ」


「なら、どうしてそんな平気な顔でいられるの?」


「俺たちが騒いだら、篠原だって辛いだろう。篠原が決めたことなら、応援してやらないと」


 こうなることを自分でも薄々わかっていたのかもしれない。篠原はまたヴァイオリンを弾き始めた。つまりあいつは本来進むべきだった道に戻らなきゃいけない。たとえ、それが俺たちとの別れ道だったとしても、あいつはその道を歩くべきなんだ。


「どうして、もっと早く教えてくれなかったのかな」


「お前がそうなるってわかってたからだろう」


「当たり前だよ! だって大事な友達だもん。本当に水臭いな、ミズちゃんは」


「詳しい事情は俺が聞いておくから、お前はもう部活に行ってろ」


「わかった。タカちゃんに任せるよ。彼氏だもんね」


 彼氏か。横宮を見送ったあとで思った。篠原は俺になんの相談もせずに決めてしまったんだな。そんなんで本当に彼氏だと言えるだろうか。



 翌日の放課後、俺は意を決して、篠原を誘った。そしたら、マックに行きたいなんて言い出すから、拍子抜けしてしまった。


「日本食じゃなくていいのか?」


「日本食? どうして? マックの方が高校生らしいでしょう?」


 篠原は駅前のマックに着くなり、メニューのどれが美味しいのか俺に頻りに訊ねた。俺はコーヒーだけでよかったのだけど、あいつがビッグマックだとか、ポテトだのナゲットだのしこたま頼んで、トレーはジャンクフードで埋め尽くされた。店内はわりかし空いていたけれど、とても重要なことを話す雰囲気ではない


「そんなに食うのか」


「あなたも手伝ってよ。いろいろ試してみたいの」


 ビッグマックに小さい口で齧り付くと、篠原は美味しいと声をあげた


「実はね、こういうお店にくるの初めてで、ずっと来てみたいって思ってたの」


「別にマックくらいフランスにもあるだろう」


「フランス? どうして知っているの?」


 しまった。つい口が滑ってしまった。


「実は横宮がな……」


 俺は結局、事の次第を全て話した。


「そっか、ひなた泣いていたのね……あなたは泣かなかったの?」


「お、俺は泣いていないぞ」


「そう、それは残念」


 俺は咳払いを一つしてから、話を切り出した。


「フランスには世話になった先生がいるんだろう。ヴァイオリンを続けるなら、その先生に付いていた方がいい」


「そうね、ルイ先生は教師としては世界一の人ね。彼から教われるなら、大金を積む人が大勢いるわ」


「だったら、フランスに行くのが篠原にとって最善の道だ。だから、俺は反対するつもりもない、笑顔で見送ってやるさ」


「本当にそれでいいの?」


「いいさ。その代わり俺はずっと待っているからな、お前が日本に戻ってくるまで、何年でも何十年でも、待ってやる」


 篠原はぼけっとした顔で話を聞いていた。手に持つハンバーガーからレタスがぽとりと落ちる。それから堰を切ったように彼女は笑い始めた。


「なにがおかしいんだよ」


「ごめんなさい、だっていろいろと残念だったから」


「残念な男で悪かったな」


「ええ、本当に残念だわ。あなたの驚く顔が見たくて、内緒にしていたのに。それにあなたが泣いているところも見たかったし、無理に笑顔を作っているところも見てみたかったわ」


 篠原はハンバーガーを置いて、俺を優しい瞳でみつめる。


「とても残念だけれど、あなたは私を待つこともできないし、見送ることもできないわね」


「どういうことだ?」


「何を勘違いしているのか知らないけど、私がフランスに行くのは夏休みの間だけよ」


「は?」


「担任の先生には、海外渡航するから報告しただけ」


 俺は深いため息を吐いた。まあ、どうせそんなこったろうと思っていたさ。ええ、ええ、わかっていましたとも、しょうもないオチだってことは。


「夏休みの間か、じゃあ、本当に見送ってやる必要もないな。せいぜい、お土産に期待しておくよ」


「何言ってるのよ、お土産souvenirなんていらないわ」


「なんだよ、土産くらい買ってくれてもいいだろう」


「あなたも一緒に行くのよ、パリに」


「へ?」


「当たり前でしょう。高二の夏休みなのよ。あなたも来るのよ。それで一緒に新しい思い出souvenirを作るの」


 パスポート取るの忘れないでね、と言ってあいつはまたハンバーガーを齧った。


 どうやら俺の青春はまだ続いていくみたいだ。

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