10話 スニーカーヘッズと加水分解

 世の中にはスニーカーヘッズと呼ばれる人たちがいる。文字通り、スニーカーのことしか頭にない連中だ。俺の親父がまさしくそうだった。まあ、母さんと結婚した時にコレクションはほとんど処分したらしいけれど。


 俺が今履いている芋虫は特に親父のお気に入りで、スニーカーヘッズを卒業してからも、これだけは復刻のたびに苦労して手に入れてたみたいだ。最近の復刻で買ったスニーカーなのでまだ新品のように綺麗だが、結局親父はほとんど履くことがなく終わってしまった。


「親父の遺言なんだ」


「遺言?」


「加水分解を防ぐために定期的に履いてくれってさ」


 スニーカー好き、特にレトロなモデルを愛好する人間たちにとって厄介な問題が加水分解だ。スニーカーのミッドソールに使われる素材は、水分に触れるだけで劣化が始まってしまい、たとえ履いていなくても長期間経つと加水分解を起こしてボロボロにソールが崩れてしまう。


 加水分解を防ぐために、スニーカーを真空パックしてしまうマニアも中にはいる。しかし、靴を履かないで飾っておくなんてナンセンスだと親父は言っていた。定期的に足を通すことでも、ソールが加水分解するのを遅らせることができる。それでも、使っていたらどのみち靴は劣化するんだけど、履かないで壊れるより、履きつぶして壊れた方がいいと言うのが親父の考えだった。


「だから親父に頼まれたんだよ、タンスの肥やしにはしないでくれって」


「そうだったの」


 俺と篠原は都心の街に向かう電車の中にいた。車内はそこそこ混み合っていて、二人でつり革につかまりながら、スニーカーの話をする。


 車内には俺たちと同じように制服に身を包んだ中高生がいくつか目についた。中には明らかにカップルで、放課後デートと洒落込んでいるような奴らもいる。もしかしたら俺たちも周りからはそんな風に見えているのかもしれない。実態は全く異なるわけだが。


「じゃあ、それお父さんの靴なんだ」


「ああ、俺は別に好きで履いているわけじゃない。ただ、親父から口うるさく説明されたから、知識は無駄に覚えたけどな」


「いいなぁ、それ」


 篠原は俺の足元の靴に目を落として呟いた。


 こいつ、親父の話をすると妙にしおらしくなるんだよな。俺に同情してくれてるのか、気遣ってくれているんだが、知らないがどうにも調子が狂う。いつもの高飛車な物言いの方が幾分か接しやすい。


「やっぱり、その靴私も欲しいな」


 篠原の声は妙に寂しげで、なんだか放っておくことができない、助けてやりたい気分を起こさせる。まあ、篠原を放っておくような男はどこにもいないだろうが。


「篠原がスニーカー好きなんて知らなかったな」


「別に、ただそれは少し気になるだけよ。ちょっと、見せて」


 篠原はそう言うと、俺の靴を片方無理矢理に脱がさせて、自分の目の前に持ち上げる。俺は車内で片足立ちしなくてはならず、周囲の注目を浴びなくてはならなかった。


 一方で篠原はそんなことを気にも留めず、その綺麗な瞳でスニーカーを一心に見つめていた。まるで自分にない何かを探しているみたいだった。

 

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