さよならコーヒー
「あっ! 柴田さん、またコーヒー飲んでる! それ、今日何杯目なの?」
昼下りのまどろみを女性職員に見咎められて、老人は露骨に眉をしかめて見せた。柴田辰巳、オールバックの白髪に茶色いサングラスの似合う御年八十五歳。若い頃はダンディで売った彼も寄る年波には勝てず、奥さんに先立たれた三年前から、息子の勧めでこの介護付き老人ホームを終の棲家としていた。
「こうるさいのう。わしは高い金払うてここに住んどるんじゃぞ」
「私は高くもないお金をいただいて、柴田さんのお世話をしてるんです」
と、扱い慣れた様子の軽口であしらいながら、コーヒーカップを流しへ持っていく。
「まったく、目を離したらすぐに飲むんだから……。コーヒーも少しだけならいいけど、たくさん飲んだら毒よ。柴田さんも、他の入居者さんみたいにお茶にしたら?」
言って、壁に貼られたポスターを指さした。
”『お茶どうぞ』 お茶を飲んで健康に! お茶に含まれるカテキンにはインフルエンザを予防する効果があると言われています”
キャンペーンガールであるスターハーモニー学園のアイドル、じるちゃんがにこやかに両手でお茶を差し出しているこのポスターは、飲料メーカーの販促グッズである。
「ふん、茶だって飲み過ぎたら身体に悪いわい」
「じゃあ、お茶とコーヒー、半分ずつにしたらいいじゃない」
「わしは茶は飲まんぞ!」
わざわざポスターを貼り出していることからも分かる通り、この老人ホームで一週間前から始まった「お茶を飲んで健康になろうキャンペーン」に、柴田老人はイライラを隠せなかった。
* * *
「どうも」
その老人ホームの受付にやってきたのは、三十前後の男性と小さな男の子。
「あら柴田さん、お久しぶり」
窓口で対応した職員は、別に悪気があって言ったわけではなかったが。
「いやあ、そう言われると辛い。なかなか休みがとれなくって……。今日、爺ちゃんはどんなですか?」
「いつも通り元気に憎まれ口を叩いておられますよ。まあ、もし元気が無くたって、お孫さんとこんなに可愛いひ孫くんが来たらすぐに元気になりますよ。……ねっ!」
窓口からニュッと顔を出したおばさんに驚いて、男の子は父の後ろに隠れてしまった。
「だったらいいんですけどね。なにしろあの通り頑固だから。……ほら、大輔。スリッパ履いて、それシュッてして」
父に言われて、備品のスリッパによろよろと履き替え、一生懸命に背伸びをして、一段高いところに置かれたアルコール消毒液をなんとか両手に吹き付ける。
「あらぁ~かわいらしい。私だったら、こんな可愛い子に言われたらすぐお茶に鞍替えしちゃうけどねぇ」
「……ああ、やっぱりポスター貼ったぐらいじゃダメでしたか」
実は、あのポスターは彼の勤める広告代理店が制作したものであった。
「別に、コーヒーだって飲み過ぎなければ健康には良いんですけどねぇ。それより、どっちかって言うと、柴田さんの”心の健康”の方が心配だから」
彼らがあの手この手で柴田老人にお茶を飲ませようとするのには理由がある。青年時代からずっとコーヒー派だった老人も、実は三年前までは一日一杯のお茶を欠かさず飲んでいたのだ。毎日、朝一番に奥さんが淹れてくれたお茶をふたりで飲む。それが、六十年近い習慣だった。明るく新しいもの好きだった祖母は、頑固な柴田老人にいつも知らない価値観をつれてきてくれる存在だった。彼がお茶を飲まなくなったというのは、またかつての狭い価値観へ閉じこもってしまったことの象徴に思えたのだ。
(あの性格だから口には出さないけど、お茶を飲むと、きっと婆ちゃんのことを思い出しちゃうんだろうな)
「週末のイベントが、何かのきっかけになってくたらいいんですけどね」
「ええ」
受付での記名を済ませ、息子を連れてエレベーターで祖父のいる二階へ向かう。
「ひろーい!」
前後にドアの設けられた、車椅子対応の広いエレベーター。まだ少し人見知りをする大輔くんは、父とふたりきりになったことで、普段通りの元気を取り戻したようだ。
「あっ、じるちゃんだ!」
内壁に貼られた『お茶どうぞ』のポスターを大輔くんが指さした。じるちゃんは日曜朝の特撮番組にも出演しているので、子供人気も高かった。祖父の部屋は、エレベーターを降りてすぐ正面。軽くノックしてから木目調の引き戸を開けると、柴田老人はベッドに腰かけ、テレビでニュース番組を見ながらまたコーヒーをすすっていた。
「爺ちゃん、来たよ」
「じーちゃん!」
久々に孫が顔を見せ、ひ孫に抱きつかれると、さすがにダンディなお爺さんもつい破顔する。
「おお、よう来たなぁ。ほれ、お菓子やろか。こっちおいで」
孫もひ孫も、まとめて子供扱いである。いつまで経っても、老人にとってはどちらも可愛らしいちびっこのようなものだった。テーブル上のアルミ缶を開き、ふたりのためにクッキーを取り出してくれている。ふと、そのテーブルに若い頃の祖父と祖母の写真が飾ってあることに気が付いた。生前、祖母がいつも心配していたのは、祖父の頑固で閉鎖的な性格だった。もし私が先に亡くなっても、夫の暮らしは続く。何か新しい生き甲斐を見つけられなければ、せっかくの人生がもったいないじゃない、と。自分を「夫の生き甲斐」と言い切るあたりが、快活な祖母らしかった。
「なあ、爺ちゃん」
「ん?」
「次の日曜、ここのふれあい広場でウチの会社が企画するイベントをやるんだ。僕は来られないけど、まあ、孫の作品の発表会だと思って見てやってよ」
「ほう、そりゃ楽しみだな」
* * *
「むぅ……」
イベント当日、施設の一階にある”ふれあい広場”に集まった入居者たちの中で、柴田老人ひとりだけがムスッと顔をしかめて椅子に座っていた。それもそのはず、今日のイベントは例の飲料メーカーがスポンサーに付いたもので、「みんなで飲んでみんなで健康! お茶どうぞ!」と題されていたからだ。
「まったく、またこれか」
登壇した司会者が何やらお茶の効能やら試飲会のお報せやらを喋っているが、老人の頭には何一つ入ってこない。孫には悪いが、早く終わってくれんかな……とうんざりしつつ、コーヒーをひとくち飲んで、紙コップをひじ掛けのカップホルダーに戻した。
「それでは、ここでゲストをお呼びしましょう! どうぞ盛大な拍手でお迎えください! 本製品のイメージキャラクターを務めるスターハーモニー学園のアイドル、じるちゃんです!」
客席は老人ばかりなので、その司会者の強い煽りに反して静かで丁寧な拍手の音が響いた。しかし、柔らかな笑顔で、会場に集まった全員にゆっくりと手を振りながら現れたその子が纏った優しい空気は、むしろこの客層にマッチしていたと言える。……かと思った矢先、ステージに足をつまづき、大きく姿勢を崩した。
「あっ!」
思わず柴田老人も声を上げた。が、次の瞬間、じるちゃんは華麗にクルリと回ってポーズを決めた。ワッ、と今度は大きな拍手が起きた。
「なんじゃ、ビックリさせよって」
お年寄りをも包み込む大きな母性に満ちた笑顔を見せたかと思えば、今度は危なっかしくて目が離せない。もし、自分に孫娘がいたらこんな気持ちになったのだろうか。老人は、なんだか久方ぶりに強く新しい刺激を受ける感覚を味わっていた。それはこの三年の間、すっかり忘れていたものだった。
「それでは、じるちゃんが歌います。”いっしょにA・I・K・A・T・S・U・!”」
* * *
「……それから、どうしたんです?」
一週間後、再び老人ホームを訪れた孫が、女性職員にイベント当日の様子を聞いていた。
「その歌の途中でね、じるちゃん、お爺ちゃんがコーヒー飲んでるのを見つけたの。……そしたら、なんと客席に降りてきたのよ! それでね……」
職員はそこまで言うと、少しフフッと笑ってから続けた。
「お爺ちゃんを間近でじーっと見つめて。それからニコッて。さすがに、あんなカワイイ子にそんなことされちゃダンディも形無しよぉ。もう耳まで真っ赤っかで、見てるこっちが恥ずかしいくらいだったわよホント」
あの渋いお爺ちゃんが……と、孫は驚いた。とてもじゃないが、その時の祖父の表情が想像できない。
「それからじるちゃん、両手であったかい湯呑みを差し出して『お茶どうぞ』って」
「……で、お爺ちゃんはどうしたんです? 受け取ったんですか?」
職員はその質問には無言のまま、祖父の部屋を指さして答えとした。
* * *
「お爺ちゃん、また来たよ」
「おう」
部屋に入ると、祖父は今日もベッドに腰かけてテレビを見ていた。ただ、先日と違うところがふたつ。ひとつは、テレビからやたらに爆発音やら悲鳴やら、派手な音が聞こえてくるところだ。見ると、じるちゃんが黄色い髪の女の子と一緒に頑張ってアヒルボートを漕いでいる。
「あっ、これ、じるちゃんとみたらいちゃんが出てる特撮番組だよね」
すると、祖父は少し照れ臭そうに。
「……ん? ああ、大輔が好きじゃろ、これ。ワシも勉強せないかんと思うてな」
そう言ってテーブルから手に取ったのはコーヒーカップではなく、温かいお茶の入った湯呑みだった。長い人生、これからまだまだ楽しくなりそうな予感がするのであった。
-おしまい-
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