わたし、まっしぐら!
待ち焦がれた金曜日。一週間の激務から解放され、そのOLはふらふらとある店へ向かっていた。
彼女が彼氏と別れたのは、ひと月ほど前のことだ。そこそこのハンサムで、収入もそれなり、酒もタバコもバクチもやらない、なかなかの良物件を捕まえた……と思っていたのだが、付き合って半年ほどで彼の思わぬ趣味が露呈した。週末、やけにデートの約束が取り付けられないと不満に思って問い詰めたところ、実は、ずっと「推しアイドル」のライブに通い詰めていたことが発覚したのだ。その趣味の良し悪しはさておいて、それは独占欲の強い彼女にとっては我慢ならないことだったのだ。
自分からフッたとはいえ、彼女にとってもダメージは大きかった。一週間は何もする気力が湧かなかったし、それでも変わらず一日最低八時間の仕事はあるし、心と体の両方がすっかり疲弊しきっていた。そんな彼女に新たな平穏を与えてくれたのが、今、目の前に建っているお店だった。
「にゃあん」
ドアを開けた途端に、三毛と黒猫の仔猫二匹が彼女の足にすり寄って来た。この時点で、既に足湯の十倍の癒し効果が認められると言えた。三週間前、疲労と心労に追い詰められた彼女が初めてここに立ち寄った時も、同じように歓迎されたものだった。
「いらっしゃい、今週もお疲れさま~」
カウンターの向こうからポニーテールの女性が声を掛けてきた。この猫カフェの店長である。ふたりはたまたま同い年ということもあって、すぐに意気投合した。気のおけない友人と、かわいい仔猫たち。彼女は、やっと身も心も休める場所を見つけたのだ。
「うあああぁぁあミィぢゃんクーぢゃん今日もガワイイねえええ」
屈みこみ、すり寄って来た仔猫たちに目線を合わせて、職場では決して見せない……いや見せられないデレデレした顔で愛でる。しばらくは仔猫たちも機嫌よく相手をしてくれていたが、数分もしないうちに飽きて店の奥へと逃げていってしまった。
「ほら、そうやってベタベタしすぎるから」
と店長は苦笑したが、彼女はまったく意に介さない様子で「そこが猫ちゃんのいいところ!」と何故かドヤ顔で言う。
「ああいう、人間に媚びないところが気高いっていうか、簡単に手が届かないからこそイイっていうか……店長ならわかるでしょ? ねっ?」
「まあ、ねぇ。……あ、そういえば」
「なに?」
「あの、いつもバイクで来る常連さん、いるじゃない?」
「ああ、あの関西弁のお兄さん」
彼女はここに通い始めてまだ三週間だったが、おそらくもう五回は見かけている。よっぽど猫が好きな人なのだろう。
「あのお兄さんに教えてもらったんだけど、最近、猫好きの間で話題になってるコがいるんだって」
「猫好きの間で……? どういうこと?」
「なんでも、スターハーモニー学園のアイドルで……」
アイドル……その言葉を聞いた瞬間、彼女は背筋がゾッとした。
「ちょっとダメダメ! 店長、なんで私が別れたか知ってるでしょ~!」
というクレームには耳を貸さず、店長はゴソゴソとカウンターの下から一冊の雑誌を取り出した。表紙を飾るのは、今話題のアイビリーブ。どうやら、最新のアイドル情報誌らしい。店長は本をパラパラとめくり、お目当てのページを開いて、彼女に見える向きでカウンターに置いた。彼女は嫌々ながらそれに目をやった。……すると。
「マ”ッ!」
「人外の声が出てるよ」
彼女の反応も無理はない。そのページは、スターハーモニー学園の定期ライブを特集するコーナーだった。そこには、ひとりのアイドルの躍動感あふれるジャンプの瞬間を切り取った写真が掲載されていた。鮮やかなブロンドに、オレンジのメッシュが入った美しいボブヘアーは元気な三毛猫のよう。まるで頭から自然に生えているようにしか見えない、ピンと伸びた猫耳のカチューシャ(もしかしたら、本当に生えているのかもしれない)。太陽の光を眩しく反射したふたつの大きな瞳は、夜の闇でもきっと輝きを失わないだろう。その子は、猫がその可愛らしさのままアイドルに転生したかに思えるほどキュートだった。
「ねっねこが……かわいい……えっ、かわ、この子なに、ねこ……? えっえっかわいすぎん」
「いっぺん深呼吸しよっか」
「スゥー……ハァー…………………………………取り乱してすみませんでした。へえ、きんぴらちゃんって言うんだ、この子」
落ち着いて、改めてじっくりと写真を見る。なるほど、これは猫好きの間で話題になるのもよく分かる。かくいう彼女も、そのあまりの可愛らしさに完全にノックアウトされてしまっていた。
「あのさ店長、相談があるんだけど」
「なに?」
「この子、ここで雇ってよ」
真顔で言った。
「無茶言わんで」
「……ですよね~。はあ~、でもアイドルかぁ……アイドルはなぁ……」
過去のトラウマが蘇る。それでも、写真からは目が離せないでいた。
「ヒラヒラのドレス……かわいいなぁ……これはさぁ、男の子が好きになるのもわかるよ、だってかわいいもん……」
ため息をつきながら、カウンターへ突っ伏した。なんだかタチの悪い酔っ払いのようになってきたなと、店長はまた苦笑した。
「アイドルだもんなぁ……みんなに好かれるのが、アイドルの仕事なんだもんなぁ……」
その「みんな」の中に、別れた彼氏も入っている……そう思うと、やはり素直に好きだとは言えなかった。
* * *
しかし……これは真実なので断言してしまうが……かわいいものが好きな人間が、かわいいものを我慢することなどできないのだ。
月曜日。週明け早々に舞い込んできた仕事の物量に押し流され、早くも心労がピークに達した彼女は、昼食を済ませてすぐにスマホを開いてお気に入りの動画を再生した。アイチューブで配信されている、スターハーモニー学園で行われたライブの映像である。
「はあ……きんぴらちゃんカワイイなぁ……」
アイドルへのトラウマと、かわいいアイドルへの愛着……ふたつの相反する感情の間で、複雑な乙女心が揺らいでいた。動画の最後に、ライブを終えたきんぴらちゃんが息を切らせながら笑顔で告げたそのことを、彼女は繰り返し反芻していた。
「ワンマンライブ、かぁ……」
* * *
「えっ、本当にここで合ってるのかな……」
結局、自分の目で確かめなければ、この悶々とした気持ちが晴れることはない。そう思った彼女は、こうしてきんぴらちゃんのワンマンライブへとやってきた。……のだが、その会場を目にして戸惑った。黒塗りの壁に囲まれた、真っ暗な地下へと続く階段。その先に怪しく光るネオンの看板が、いかにもアングラの空気を漂わせている。
「秋葉原MOGRA……うん、合ってる……はず……」
勇気を出して降りていくと、そこには開演を待ちわびたファンが既に大勢集まっていた。その客層は親子連れの多かった学園の定期ライブとは異なり、若い男女が中心だった。意外に思いながら、ドリンクチケットをバーカウンターで交換する。
「えっと、お水で」
注文を受けた男性スタッフが、ペットボトルのエビアンを開封して、わざわざ備品の水筒に注いでから彼女に手渡した。
「水筒はレンタルですので、退場時にご返却ください」
「? ……あ、なるほど」
意識して観察すれば、前方の人ほどマイ水筒率が高い。きんぴらちゃんのイラストが描かれているものは公式グッズだろうか。私も欲しい。そんなことを考えていると、照明が落ち、同時に大きな歓声が上がった。
(……あっ!)
ステージの中央をスポットライトが照らす。そこに浮かび上がったシルエットには、ピンと立った猫耳。紛れもなく、本物のきんぴらちゃんだ。けれど、その衣装にはヒラヒラのフリルも、鮮やかなパステルカラーも無かった。ぴったり猫耳が収まるようにデザインされたパーカーは黒く染まり、スタンドマイクを強く握った両手は、観客を"自分の世界へと連れて行く"という、強烈な意志を感じさせた。
(これが……きんぴらちゃん!?)
イントロが流れる。初手、硝子ドール! 瞬間、一気に観客たちのボルテージが上がる。その熱唱に、彼女は声も出せず、ただただ圧倒された。
愛らしい三毛猫から、孤高の黒猫へ。
ただ可愛いだけで追いかけるんじゃない。決して手の届かない、ずっとずっと先へと進むその姿に憧れるから追いかけるのだ。きんぴらちゃんの見せたふたつの魅力に、彼女は完璧に打ちのめされてしまった。
* * *
「で、そのあと『1,2,Sing for You!』来たらもうめちゃめちゃに高まるでしょセトリやばすぎマジで!」
(ああ、これを沼落ちって言うのよね……)
店長は、週末のライブの様子を熱っぽく早口で語る彼女を見てそう思った。
「ホントに、ホンッとに凄かったのきんぴらちゃんは!!」
「うんうん、分かった分かった。……あっ、そういえばライブのあとに握手会あったんだっけ。なに話したの?」
「えっ……それは……いつも応援してますとか……ガチで可愛いですねとか……あと、愛してますとか……」
(重いなこの人)
「色々と伝えたいことはあったんだけど……なに喋ったのか全然覚えてない……」
「ええ、なんで?」
「だって! だってね。話そうと目があった瞬間にね……ニコニコ!って笑って猫耳がピョコって動いたの! ピョコって! ヒアッ思い出しただけでギャワイイもうそれしか覚えてない歌ってる時とのギャップほんと無理無理無理む」
「いっぺん、深呼吸しよっか」
「スゥー……ハァー…………………………………取り乱してすみませんでした。とにかく、そういうわけで上手く話せなかったんだよね」
「そうなんだ。それは残ね……」
「なので、次のライブでリベンジします!」
と、鞄からさっきコンビニで引き換えたばかりのチケットを取り出して見せた。その嬉しそうな表情を見て、あれだけボロボロだった彼女をこんなにも元気にしたきんぴらちゃんは本当に凄いな、と店長は思ったのだった。
余談になるが、後に別れた彼氏と同担であることが発覚し、ヨリは戻らなかったものの、今ではオタ仲間として一緒にライブでぶち上がっているそうである。
-おしまい-
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