第11話 お嬢様のバレンタイン

 花音はエプロン付けるならフリルのエプロンと決めていた。メイド喫茶みたいとかいう子もいるけど自分にはこれが似合うのだ。自分が十分可愛いのは解っている。色白、目が大きくて二重ふたえまぶた。まつ毛も長く『つけま』なんて要らない。

 髪の色は少しブラウンがかっていて、しかも緩やかにウェーブしている。『これ天然なのよ』この一言は決めゼリフの一つだ。紫苑高校は髪の色や形状への校則は何もないので、花音は時々更に巻いて見せて取巻き女子を唸らせた。


 しかし今日の髪はポニーテール。衛生の事も考えなくちゃね。何しろ本命用なんだから、何かあったら花音困っちゃう。花音は本気で呟いた。間もなく迎えるバレンタインデー。年に一度のレディの気持ち解禁日。最近のバレンタインと来たら女子同士とか何でもありになっちゃって節操のないこと。

 花音はその風潮は密かに不満だった。確かに義理チョコとか訳解んない。しかし感謝デイにするのもどうかと思うよ。そんなのは毎月十日二十日とかにしてよって感じ。という訳で花音は伝統に則りチョコを手作りしていた。


 花音の本命は隣のクラスの諏訪春馬(すわ はるま)。信州の名家の筋だそうで父親も実業家として財を成し要はお金持ちである。厳しい躾のせいか、春馬は礼儀正しく頭もよい。ルックスだってOK。まさに信州の林間を渡る朝風みたいに爽やかなのだ。そして陸上部短距離走のスプリンターである。性格もストイックな面があるものの女子には優しいと評判。まさに欠点を探す方が難しいパーフェクト男子なのだ。花音の取巻き女子たちは花音をおだてる。


『まるで貴公子と貴婦人よ。でも花音からは告らないでね、堪えて待つのよ…』


 他人事だと思って好きに言われている感もあるのだが、花音自身、これまで春馬と話したことはない。こう見えて結構、私、奥手なのよ。何もないのに自分からしゃしゃり出るなんてとてもできない。

 しかし今年は2年だ。来年は受験になるから今のうちに手を打たねばならない。噂では昨年の文化祭での白雪姫の騒ぎを聞いた春馬は、フッと笑い『可愛いじゃないか』と言ったとか。だから今度のバレンタインは勝負をかける。まさに『時は今!』なのだ。


 チョコを湯せんしながら花音は想像してみる。10年位すっ飛んでいるが、春馬君と私の結婚式はやっぱりパリ?なんちゃって。ま、ロンドンでもいいんだけど、ロイヤルな雰囲気のお城で、彼は白馬に乗って現れ、私は可愛い馬車に乗って彼を待つ。馬から降りた彼は馬車の中の私に一礼し、ドアをそっと開け、私の手を取るのよ。私は彼に導かれて馬車を降り、二人は向かい合う。いつの間にか、白馬も馬車も消えていて、クリスタルな壁からは美しい月の光が射し込んで、そして…リンゴ、いやリンゴなんて食べないわよ。あーもう内藤先輩のお蔭で変な方向へ行っちゃうよ。


 わっ… 溶けすぎ!少し冷まそう。花音は湯せんのお湯に氷を投入した。


 チョコの中は泡盛ゼリー。アガーを使い少しレモンを絞って、そこへフルーティな泡盛を入れてみた。度数は25もあるけど酒臭くなく飲みやすい泡盛だった。アガーを使うと常温で固まるので扱いやすい。花音はハートや花びらなど幾つかの型にチョコを流し込んだ。少し固まると泡盛ゼリーを一匙ずつそっと置いてゆく。そしてチョコを被せる。冷蔵庫に入れると白い粉を吹く可能性があるので、このまま涼しい場所で固まるのを待つ。

 さて、どんなラッピングをしようか。あまりしつこくなく、かと言って印象に残る女の子らしい包装。花音は自室へ戻って、買置きのラッピング材を見ながらあれこれ思案を始めた。


 バレンタインの高校は朝から何だかそわそわしている。男の子たちも、もしやって期待してるだろうし女の子たちは緊張のカタマリ。花音は焦るなと自分に言い聞かせた。春馬は隣のクラスだから、基本的に休み時間しかチャンスはないのだが、授業の合間にバタバタ渡す訳にいかない。結局は放課後狙いだが、春馬も花音も部活がある。タイミングが難しいな。

 花音は数日前から陸上部の練習時間を探っていた。春馬は短距離の選手だから練習は校内グラウンド。練習の終了は薄暗くなる夕方の5時頃だ。問題は吹部だよ。花音たちの練習はほぼ6時までやっている。パート練習位なら誤魔化せるけど全体で―とか言われると抜けられない。何とか陸上部の練習終わりに合わせて個人練と言って外に出るしかない。花音はエコバックを用意した。その中にチョコのパッケージとカーディガンを入れる。目隠しにもなるし実際寒いから防寒にもなる。花音はフルートとエコバックをパート練習の教室に持ち込んだ。


「花音、今日お荷物だねえ」

「ええ、ちょっと寒いかもっていろいろ持ってきちゃいました」

「ふうん。じゃ、始めるよ」


 フルートのパートリーダーである鳥羽秋子(とば しゅうこ)先輩は、大らかな性格で、正直、演奏や指導も大らか過ぎて困ってしまうこともあるが今日に限っては助かる。よーし。



 練習が始まって1時間、そろそろ潮時だ。花音は作戦を発動した。


「花音、どしたの?」

「え?いえ、大丈夫です」

「だいじょぶじゃないじゃん。ずっときれいに吹けてたところだよ」

「あー、えーっと、油断大敵?」

「へ? 油断してたわけ?」

「えー、おサルも木から落ちる?」

「落ちたわけ?」

「うーん、勝ってカブトの緒を締め忘れ」

「ぷっ」

「すみません、個人練行ってきます」

「その方が良さそうねえ」


 よっしゃあ、作戦第一段階は上手くいった。お解りの通り、花音はわざと失敗していた。わざとらしくない程度に微妙に失敗するってなかなか難しいが、流石は鳥羽先輩、ちゃーんと見落としてくれた。さて、陸上部が通りがかるところで…っと。


 花音は昇降口近くの、校舎の窪みにパイプ椅子を置いた。諏訪君が帰って来るところが斜めに見える。取り敢えずは練習のフリをしなくてはいけない。椅子の脇にエコバックを置き、譜面台を立てて花音はフルートを持った。


 吹くこと15分、予想通り、陸上部の子たちが引き揚げてきた。その中に春馬もいる。花音は春馬が近づいてくるのを狙って、大きめの音で高音から低音へ、ジャズっぽいグリッサンドを吹いた。春馬が花音の方を見る。ここだ!


「諏訪君、ちょっといい?」

「え? 俺?」

「うん」


 花音は恥ずかしそうに俯いて見せた。


「えっと、吉川さん…だよね?2組の」

「はい。吉川花音です」


 他の陸上部員は遠巻きに見ている。ギャラリーは気にしない。花音は椅子にフルートを置くと脇のエコバックを取り上げた。そして中から腕によりをかけてパッケージしたチョコを取り出す。


「バレンタインなので。これを受け取って下さい。私が全力で作りました」


 花音は顔を伏せ気味にして両手でチョコを差し出した。背後でうぉーと声が上がっている。春馬は少々困惑しているようだ。花音は顔を上げた。春馬が手を差し出す。


「あ・有難う。ちょっとびっくりした」

「ごめんなさい。けど、あの、宜しくお願いします」


 演技ではない。花音の本音だった。何とか届いてこの気持ち…。


「うん。有難く頂く。お礼はまた考えるよ」


 春馬は微笑んでくれた。やった!脈はありそうだ。ここは引きずっちゃいけない。花音はフルートを手に取るとパイプ椅子を畳んで、速やかに去ろうとして…で、パイプ椅子に足をしたたかに打ち付けた。


「あいたっ」

「だ・大丈夫?」

「あ、はい、大丈夫です」


 本当はそうでもなかったけど、花音は痛いのと嬉しいのと恥ずかしいのがごちゃごちゃの気持ちのまま春馬にぺこりと頭を下げると、パイプ椅子とエコバックとフルートを持ったまま校舎の裏へ走って逃げた。足が痛いので走り方が変だけど仕方ない。

 そして花音は気が付いた。私、どこへ行くつもり? 教室に戻る筈なのに全然違う方へ走っちゃった。あーあ。ま、いいか。ちゃんと渡せた訳だし、足は痣になりそうだけど、ドジッ子と思われたかもしれないけど、決してマイナスではない。花音はフルートを持つと、思いっきり音を出してみた。ピィーー!

 はあ、後は神様次第だ…。


 残された春馬はまんざらではない顔をしていた。当たり前だ。姫と噂される吉川さん。可愛いし性格も悪くない。あんなに一所懸命チョコを渡そうとしてくれて、足までぶつけて。これで印象悪い男なんて世界に誰一人いないだろう。そうか。吉川さんか…。


 しかし春馬もドジを踏んだ。その日春馬がもらったチョコは20個を下らない。どうするんだこれ。スポーツバックに入るのは半分位。最後に貰った花音のチョコは、ラッピングもきれいでスポーツバックに押し込むのは気が引ける。どうしようかな。一旦ロッカーに入れて思案していると、陸上部の仲間が『かえろー』とやって来た。彼らは春馬のチョコの山を知っている。


「諏訪、くれとは言わんが、食べるの手伝ってもいいぜ」

「一人で食ったら、夜寝れないよ」

「エネルギー取り過ぎ、お肌荒れ荒れ」

「取り敢えず帰りにラーメン食ってこうぜ」


 何言ってんだよ、益々食えなくなるじゃないか。とか言ってるうちにわいわいと下校し、花音のチョコはロッカーに置き去りになってしまったのだ。春馬は帰宅してもまだ気づかなかった。


+++


 一方、アイリもその夜、チョコを渡していた。


「なんだかさ、お世話になってる気もしてるからね、あ、あたしだけじゃなくて人類全部って言うのか、悲しい人たちって言うのか、だから感謝の気持ちを込めて、バクにチョコあげる!」

「チョコ?」

「食べ物よ」

「それは判る」

「美味しいの」

「ううむ。それを何故今くれる?」

「バク、知らないんだバレンタイン」

「データベースにはいろんな記述があってどれが何だか判らん。男性が女性に花を渡すとか書いてあるけどな」

「あー、そう言う国もあるかも。でもここではね、女の子が好きな男の子にチョコあげるってのが定番」

「ほう。好きな男の子ねえ」

「バクも一応男子でしょ?オスっていうのかな」

「ま、分類上はそうだ」

「だから好きって言うのを拡大解釈して、感謝したい人に渡すの。ほら、これよ」


 アイリはバクに合わせて小さなチョコのパッケージを差し出した。


「有難う。どうしていいのか判らんけど有難く頂戴する」

「うん。食べるものだけど、今は無理なのかな」

「見当つかん。取敢えずはポケットに入れておく」

「ポケットがあるの?」

「まあな。ここに秘密のポケットがな、有袋類みたいに隠れてるのだ」

「へえ、ドラえもんみたいだねえ。何か出てくるの?」

「いや。入れた事も出した事もないから判らん」

「ふうん。大丈夫かな」

「それは大丈夫。ちゃんと設計されている筈だ。が、本当に有難う」


「なんだかさ、あたし、バクといるの結構楽しい」

「そうか?」

「うん。いろんな事に出会って、ちゃんとバクが食べてくれて、それでみんなが少しずつ癒されてる。凄いよバク」

「こっちはしんどいがな」

「だよね。ごめんね、バクにばかり辛い思いさせて」


 バクは慌てた。コネクターがこういう反応示すとは思わなかったのだ。


「これはミッションだからな。つまり仕事だ。止むを得ん。同情には値しない」

「そうかもだけど、だけど有難うね、バク」

「いや…」


 バクは白い部分を少し赤くして全力で照れた。


+++


 翌日、春馬はロッカーの前で後悔していた。一番大事な奴を置いて帰っちゃって、今日吉川さんに会ったらなんて言えばいいんだろう。そう、春馬の中には確実に花音が芽生えていたのだ。昼休み、春馬はこっそり花音のチョコを開けた。メッセージカードが入っている。意味的には殆どラブレターだよな。カードには可愛い字で


『諏訪春馬さま 

 私の気持ちです。どうか届きますように…

               吉川花音 』


とあった。悪くない。いやwelcomeだ。花音ちゃんか。フルートが上手なお嬢様。美人だし、きっと淑やかで、でも明るくてちょっとお茶目な面もあって、家に連れて帰っても恥ずかしくない。家政婦受けも悪くないだろう。大学はどうするのかな。一緒だといいな。チョコ、今食べちゃおうかな。いや、ちょっと待て。放課後まで我慢しよう。部活に出る前、屋上で、一人で頂こう。部の連中になんかやるもんか。春馬もすっかり花音の作戦に嵌っていた。

 

 そして部活に出る前、素早く屋上に上がった春馬は、遠くの山を見ながら、花音の面影と声を思い出しながら、チョコを3つばかりつまんだ。ん?

 その後急いで部活に出た春馬だったが、何だか目の前が変だ。気持ちいいし、グラウンドがちょっと斜めに見える。あれ?


「おい、諏訪!どうしたんだ? 体調悪いのか?」

「いえ、反対です。めっちゃハイ。先輩、幸せですよ、俺」

「はあ?シアワセ? お前まっすぐ走れてないじゃん。足もバタバタしてるし、スタブロから足はみ出してるしよ」

「すみません、いやあーぜーんぜん大丈夫です」


が、幸せは続かなかった。何本か100mを走った春馬はそのままぶっ倒れた。保健室に担ぎ込まれた春馬は身体中を掻きむしりたくなるような気分の悪さに包まれた。何だこれは。俺、どうなってんだ。

 保健養護担当の筧夕月(かけい ゆづき)先生は春馬のおでこに冷却シートを貼って、水分を取れと命じた。春馬はスポーツドリンクをがぶ飲みする。筧先生は冷静だった。


「諏訪君、あんた、お酒飲んだ?」

「ふえっ?んなの飲んでないです、飲んだこともないですーぅ」

「この状態、どう見ても酔っ払いだよ。ちょっと早い二日酔いみたい」

「そんな訳ないですぅ。飲んでないし食べたって昼の弁当と、あ、チョコ…?」

「チョコ?」

「はい。バレンタインにもらったチョコ、食べました」

「おやおや、流石はイケメン貴公子ねぇ。それってまだある?」


 花音にもらったチョコはまだ残っている。春馬は筧先生と一緒に教室へ行き、ロッカーから残りのチョコを出して見せた。先生は、貰っていい?と聞くと一口齧って、中をじーっと観察した。


「なるほどー。上手に作ってあるわねえ。誰って聞かないけど、そうか、アガー使ってるんだ」

「アガー?」

「うん、透明なゼリーが作れる海藻素材なのよ。で、多分ここにお酒が混ぜてある」

「酒? ですかあ?」


 春馬は叫んでしまった。


「ま、お酒ってお菓子作りには使うものだけど、アルコール、飛んでないわね。やだ、私も気持ちよくなってきちゃった。随分強いお酒ね。これ作った子、呑兵衛じゃないのかな?誰とか聞かないけどね」


 酒! 


 春馬は絶望的になった。それは諏訪家では禁句だった。何代か前の当主が酒で身代潰しそうになったとかで、以来、神事で使うお神酒以外のアルコールは家訓で禁じられているのだ。その代わりなのかどうか、代々の当主は日本酒のような名前を持つ。しかし、諏訪家にとって酒好きのお嫁を迎えることは有り得ない…。

 ああ、何てことだ。彼女には悪気はない。それはそうだ。しかしそう言う問題ではないのだ。春馬の中では既に結論が出ていた。一事が万事、これも運命なのか。


「先生、俺、逮捕されますか?」

「はい?」

「まだ未成年だから」

「大丈夫よ。未成年がお酒飲むのは駄目だけど、お菓子に入っている分には飲酒にはならないのよ」

「そうですかー。良かった。勘当になるところでした」

「へえ、大変ねえ名家も」

「先生、申し訳ないけど、このチョコ残り食べてもらってもいいですか」

「あらあら、誰かに祟られなきゃいいけど」

「そんな子じゃないです。安心して下さい」

「じゃ、頂くわね。高校生なのにホント上手に作るわねえ、見習わないと。誰とか聞かないけど誰かなあ」



 翌日、隣のクラスを覗いた春馬は、顔見知りの生徒に花音への伝言メモを託した。花音の取巻き女子は既に色めき立っている。


「花音、なんてなんて?」

「うーん、放課後に会いたいって。でもなあ…」


 花音は不思議だった。なんで保健室? 保健の先生とか、場合によっては気分の悪くなった生徒とかいるじゃん。告られても丸聞こえなんですけど…。

 まさか、保健室にベッドがあるから…なんて訳ないよね。それはちょっとどうかと思う、初めてが保健室なんてね。花音は花音で妄想がぶっ飛んでいた。


 そして放課後の保健室。取巻き女子にはくれぐれも来ないでと頼み込み、部活をさぼって花音は保健室の扉をノックした。


「失礼しまーす」

「あら、いらっしゃい」


 ぎょ。筧先生、モロいるじゃん。

 先生は顔がぱっと明るくなっている。どうしたの?


「あの…ここに1年3組の諏訪君はいますか」

「お待ちかねよー、あのさ、後で私から聞きたい事あるから残っててね。じゃ、ちょっと私、外に出てるから。あー気ぃ遣うなぁー」


 どうなってるの?筧先生公認になるってこと?花音が戸惑っていると、カーテンの向こうから春馬が現れた。何だか顔が青い。


「吉川さん」

「はいっ」

「バレンタインのチョコ有難う」

「ううん…」

「あの、メッセージも読みました」

「うん」


 何だか空気が重いな。花音は不安になって来た。


「吉川さん、ウチの家のこと、聞いた事ある?」

「え? ああ、大きいお家だって」

「うん。まあ古い家柄なんだ。俺が35代目になってね」


 35代目。 プリンスってことだ。

 花音の脳裏にヨーロッパの古城でのウェディング光景が去来した。


「それで代々家訓があってね。けても大事なのは『禁酒』なんだ」

「禁酒?お酒のこと?」

「そう。ウチでは酒は神事以外では一切禁止されている。破れば当主であっても即座に破門・勘当になる」

「はい…。それが何か?」

「頂いたチョコ、あれは禁止事項に当たる」


 あ! 花音は思い出した。そうだ、フルーティな泡盛入れちゃったんだ。


「ご、ごめんなさい、そう言うの知らなくて…」

「そりゃそうだろう。吉川さんが知る筈もない。俺は君を責めている訳じゃない。それは判って欲しい」


 雲行きがめっちゃ怪しい。花音は唇を噛んだ。ヨーロッパのお城が霧の中に霞んでゆく。春馬は続けた。


「一生お酒飲まないって約束できるかい?」


 花音は詰まった。勿論今は未成年だから飲んでる訳じゃない。でも、花音の家ではワインもブランデーもスパークリングの日本酒だって、いつでも食卓には何らのお酒があって、みんなでわいわい言いながら飲んで食べてって、それが日常。お酒のない生活って有り得ない…。


 春馬は微笑んだ。


「顔に書いてあるよ。そんなの耐えられないって」


 花音は否定できなかった。春馬は改めて花音の前で気をつけの姿勢を取った。そして両手を合わせ頭を下げた。


「吉川さん。ごめん。この話は無理だ。気持ちは嬉しいけど無理だ。ごめん」


 花音は頷くしかできなかった。貴公子と貴婦人とか言われたけど、貴婦人にそんなハードルがあるとは思わなかった。

 春馬は今一度頭を下げると保健室を出て行った。私が、私がフラれた…。ヒロインの筈だったのに、酒乱女みたいに思われた。


 ぼーっと立ち尽くしていた花音は、保健室の扉がまた勢いよく開く音に驚き振り返った。あ、筧先生。


「残念だったわねえ、吉川さん」


 明るく話す筧先生に、花音は返す言葉がなかった。


「でもね、そのうち判ると思うけど、大変よ、あのお家。残念で正解だったってきっと思うようになるわ」

「そう…なんですか」

「ま、あなたは可愛いから失恋ってショックかもしれないけど、それがオンナを磨くのよ」

「はあ」


 慰めだか説教だかヤジウマだか判らない。


「ってことでさ、私もまだ磨いてる最中でね。それで教えて欲しいの、あのチョコの作り方」

「はい?」

「アガー使ってお酒入れるやり方よ」


 花音は滲んでいた涙を拭いて頷いた。


「難しくないです。お酒のない人生なんてねー、じゃんじゃん作りましょう先生!」


 そうよ、私はヒロイン。失恋なんかには負けないヒロインよ。今日はぱーっとやろう。貴婦人への階段は外された花音だったが、立ち直りは早かった。


 翌日、花音がフラれた噂は校内を密かに駆け巡り、そして、花音が指南した手作りチョコをひっさげ、筧先生が婚約したという噂も周回遅れで駆け巡った。アイリはバクに面白おかしく話して聞かせた。


「それで酒臭かったのか、あの悲しみは」

「判ったの?」

「まあな、保健室付近でたまたま拾った」

「花音ちゃんがすぐ立ち直ったのはバクのお蔭?」

「いや、殆どは自力だろ。食べると酔っぱらいそうだったから随分と吐き戻したのだ」

「あらあら、バクも大変ねぇ」

「大変なのは相手の男の子の方だろ。悪者になっとる」

「ふふ、美人のお嬢様が最強って事よ」

「アイリはその心配はなさそうだ」

「うるさいな」


 アイリはシューズバックを蹴飛ばした。


「うわ、サケが回るぅ」

「チョコ返せー」

「もう宇宙の彼方へ伝送されちまったー」


 ったく、何言ってんだか。唯一あげたチョコが宇宙の彼方って、どんなバレンタインよ。

 アイリは窓を開けた。冷たい2月の風が吹き込んでくる。澄み切った夜空には満天の星が輝いていた。


「チョコ、どのあたりかな」


 アイリは夜空を見上げ、呟いた。


「見えないよ」

「あーあ、せっかくあげたのに…」

「大切だからだよ」

「え?」

「大切なことは目に見えないって、言ってたろ」

「誰が?」

「バク」

「マジ?」

「本当はキツネ」

「なにそれ」

「アイリは知らないのかい?宇宙のベストセラー星の王子さまを」


 そっか、そうだった。本当に大切なことは目には見えない。バクが来てから、一緒にいろんな悲しみを浴びてから余計にそれが判るようになってきた気がする。チョコは飛んでっちゃったけど、今年は素敵なバレンタインだったよ。お星さまたち、チョコ味わってね。


 無数に瞬く星に手を振って、アイリは窓を閉め、そしてカーテンを引いた。

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