第8話 コスモス

「空気が冷えてきたねー」


 11月の空は急に高くなる。


「天高く、バク肥える秋!」

「なんだそりゃ」

「秋は美味しいものがたくさんでバクが太っちゃうって言う昔からの格言よ」

「そのバクとやらはあまり見掛けんがな」

「そこら辺にはいないのよ。あたしだってバクが初めてのバクだよ。うわーっ」


 キキキー!


 呑気に走っていたアイリは急ブレーキをかけた。住宅の門扉からいきなり車椅子が出てきたのだ。


「す・すみませーん」


 車椅子には50歳位の女性が乗り、同じ位の年齢の男性が押している。


「いや、こっちもごめん、良く見ないでそのまま出ちゃった」

男性が頭を掻いた。しかし女性は何事もなかったように歌を歌っている。


「あ、気にしないでね。この人気づいてないから」

「は?」


 意味が良く判らない。しかしこのメロディ、聞いたことある。お母さんがよく歌ってた歌だ。


「♪ 何気ない陽だまりに揺れているぅ~ ♪」


「お歌に夢中ですね」


 アイリは笑いかけた。男性は少しばつの悪そうな顔をして


「いや、本当に解ってないんだよ、危なかったって」

「へ?」


「♪ このごろ~涙もろくぅなぁったぁ母がぁ~ ♪」


きれいな声だよ。


「あの、病気でね、歩けなくて記憶もなくて、元気は元気なんだけど」


 バクが大口で食べた。これは結構本格的な悲しみの匂いがする。


「そんな風には見えませんけど」


 アイリは自転車を降りて、車椅子と並んで押し歩く。


「知らないお嬢さんに話す事でもないんだけど、この人は妹でね」

「妹さん!?」

「うん。もう十数年、ずっとこんな感じ。朝と夕方にこうやって子供の頃に歩いた道を散歩させてるんだけど、ちっとも戻って来ないんだ」

「えー! 大変な話じゃないですか」

「そうでもないよ。家の中では自分でつかまりながら移動できるし、トイレもお風呂も自分でできるし」

「でも、記憶がないんですか?」

「ん、まあ、自分とか家族のことが思い出せないだけで、他は判ってるみたい。テレビ見て笑ったりするし、お菓子食べて美味しいって言うし」

「じゃあ、あの、お兄さんってことも判んない?」

「そう、世話してくれる親切なおっちゃん位に思われてるみたい」


「いつも、すみませんねえ」


 唐突に女性が喋った。男性がそっと女性の頭を撫でる。

 女性はまた歌い出した。


「♪ こーんなこーはるびーよりのー おぉだーやーかな日はー ♪」


「この曲がお好きなんですか? ウチの母も良く歌ってました」

「そうだね。山口百恵さんの秋桜コスモス。若い頃から好きだったから」


バクはシューズバックの中で、またパクパクした。


 その日以来、アイリはその二人を度々見かけるようになった。これまでも会っていた筈だが意識していなかっただけのようだ。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「♪ 明日への荷造りにー手を借りて~ ♪」

「また歌ってらっしゃいますね」

「うん。決まった時間のテーマソングだから」

「今までもお会いしてたと思うんですけど全然気が付きませんでした」

「はは、こっちは気づいてたけどね。でもたくさんの高校生が通るから、一人一人まで見分けはなかったなあ」

「意識すると判っちゃうんもんですね」

「そう、意識するとね、その相手の人は自分にとって『トクベツな人』に変わるんだよ」


 男性はにっこり笑った。


「♪ こーんなぁこーはーるびよりのー ♪」


 BGMが流れる。男性は女性の髪の乱れをそっと直しながら続けた。


「それがキミにとって良いことかどうかは判らないんだけど、少なくとも僕と妹にとって、キミは『トクベツな人』になった。これって嬉しいことなんだ。歳も違うし、名前も知らないけど、キミが話しかけてくれると僕たちは明るくなる。キミの姿が見えないと、ちょっと心配になる。負担に思わないでね、僕たちが勝手に思ってることだから」

「あの、あたしの名前は…」

「ちょっと待った」


 男性が手を挙げた。


「言わなくていいよ。名前を知ると、ああ、あの家のお嬢さんだから、とか余計な気持ちを持っちゃう。今のままがいいんだ。もし、僕たちが急に消えてしまっても、そういうことってあり得るからさ、その時はキミも、ああ、あの人たちいなくなっちゃったな、で済む。ね、判るかな」

「は・はい。判る気もします」

「だから今のまま。ね、道端のコスモスも名前なんて付けないでしょ。じゃ学校、気を付けて行ってらっしゃい」

「♪ しばらくはー楽しげにいたけれどー とつぜんーなみだぁこぼーし ♪」


 男性は笑った。


「はい。行ってきまーす」


 アイリはペダルを踏み込んだ。バクがぼそっと呟いた。


「深い…な。だけどクリアだ」

「そう?」

「うむ。アイリはまだ若葉だから、毛虫に食べられたり季節外れに紅葉してきたりの痛さを知らない。知る必要もない」

「変な例え」

「時が来れば知るようになる。それまでは無理に知ることはない」

「ふうん」


 次にアイリが二人にあったのは三日後だった。アイリはまた自転車を降り、車椅子と並んで押し歩く。


「外には出られなかったんですか?」

「うん、ちょっと調子がイマイチでね。寝たきりだったんだ」

「動けないのはつらいですね」

「子供の頃は活発だったんだけどなあ。僕が追いかけてもするって逃げて捉まえられなかったのに、歳取って僕が後ろを押すことになるなんて、思いもしなかったよ」


「ボクもバクになるだなんて思いもしなかったよ」


 シューズバックの中でバクもぼやいた。そんな声を漠然と聞きながら、もしも、あたしに何かあったらサスケは押してくれるかなとふと思った。


「キミは兄弟いるの?」


 タイミングよく男性が聞いた。


「はい、弟が一人います」

「そっか。兄弟なんてさ、憎たらしいことばっかりと思ってたけど、憎み抜くことはできないなあ」

「憎み抜く ですか?」

「うん。小さい頃を覚えてるからねえ。幾ら大きくなって言うこと聞かなくなったとしても、小さい頃を覚えてるから許しちゃう。だからこんな事になってるんだけどね」

「へえ。あたしは弟をぶん殴りたい事、良くありますけど」

「まだ弟さんが、キミより小さいって言うか、弱い存在だからじゃないかなあ」


 うーん。サスケは日々大きくなってきているが、確かにまだあたしの方が強いな。


「大人になったらさ、弟さんの方が大きさも腕力も強くなるでしょ。そうするとまた変わるよ」

「そうですかー」

「歳の差だけは永遠に縮まらない。こんなに大きくなっちゃってとか思うけど」

「今日は歌われませんねー、秋桜」

「昨日から歌わないんだよね。コスモス満開の季節なのに」


 その日の帰り道、アイリは少し遠回りをして、土手でコスモスを摘んだ。『秋桜』好きなんだからきっとコスモスも好きだろう。アイリは小さな花束にして、翌朝シューズバックと一緒に前カゴに入れた。


「おはようございまーす。あら?」


 車椅子の上に女性の姿が見えない。


「ああ、おはよう」

「また調子悪いんですか?」

「まあね。ちょっとせってるんだ。丁度コンビニに行こうと思ったからカゴ代わりに車椅子を押してきちゃったんだよ」

「へーえ」


 男性は空っぽの車椅子を押していた。


「あの、コスモス摘んできたのでお渡し下さい。きっと妹さんお好きかなって」

「わ、有難う。本当に有難う。その通りなんだ。好きだから喜ぶわ」


 男性はコスモスの花束だけを乗せた車椅子を押して行った。


「アイリ、ちょっと悲しそうだったよ」

「え?そうなの?」

「うん。コスモスがぐっと来たんじゃないかな」

「そっか。寝たきりの妹さん、思い出させちゃったかな」

「ま、でもいいことだよ、アイリがしたのは」

「そう?」


 男性の姿が少しはかなげに見えたのは晩秋のおもむきであったのだろうか。


 翌日からアイリは二人の姿を見かけなくなった。具合悪いままなんだろうか。急にいなくなってもとか言ってたよなあ。少し気になりながらもアイリは毎朝ペダルを漕いだ。そして一週間後の朝、男性がまた車椅子だけを押していた。


「アイリ、食べるぜ、本物の悲しみだ」

「え?まさか」


 アイリが近づくと男性の方が振り向いた。


「おはよう」

「おはようございます。あ」

「ごめんね、心配かけたんじゃないかなって思ってたよ」


 アイリは答えられなかった。車椅子には小さなフォトフレームとアイリが渡したコスモスの花束がきれいなラッピングで載っていた。


「あの…」

「うん。亡くなった。内輪でやったから気づかなかったと思うけど、最後までコスモスの花見てたよ。本当に有難う」


 アイリは言葉が出てこなかった。こういう時ってなんて言えばいいのだろう。


「あんまり気の毒がらないでね。あいつね、こうやって毎日散歩しながら目の高さのいろんな発見を教えてくれたんだ。僕の愚痴にも判らんくせに『そうそう』とか付き合ってくれた。それだけでも僕の気持ちは軽くなったものでね、十数年間、看病して車椅子押すのが僕の役割と思ってたけど、実は背中を押して貰ってたのは僕の方だったかも知れない」


 男性はメガネを上げてハンカチで目を押さえた。バクはパクパクを繰り返している。


「ごめん」


 しばらく車椅子を押しながら男性は続けた。


「それでさ、今日が最後の散歩にしようと思うんだけど、このコスモスの花が咲いていた場所を教えてもらえないだろうか」


 アイリは簡単に場所を説明した。車椅子を押しても行けない距離ではない。


「有難う。キミには心から感謝している。いろいろ心配かけてすまなかった。キミは本当にトクベツな人だったよ。僕たちのこと、違う向きから支えてくれた。どれほど助かったか判らない。本当に有難う。もうあまり会う事もないだろうから、キミも元気でね。勉強頑張って」


 男性は小さく手を振ると角を曲がり、土手の方へ去って行った。アイリは自転車を漕ぎだした。


「バク、大丈夫?」

「ああ、悲しいな。空っぽの悲しさだ」

「人がいなくなるって、ちょっと実感湧かない」

「月並みだけど、いなくなっても心の中には居続けるんだよ」

「ふうん」

「だから辛い事もある。でもそのうち美しくなる。癒してくれるようにもなる」

「そう…」

「彼も今は悲しい。コスモスが揺れるのを見るだけで悲しい。でもそのうち、彼と一緒に走り回った小さい女の子がコスモスと重なって温かくなるだろう」

「思い出になるんだよね」

「うん、すぐに思い出に変わるさ」

「そっか」


 アイリは誰も乗っていない車椅子の周りで揺れるコスモスを想像した。辛いだろう。でもきっとあの人は来年もコスモスを見に来る。違った気持ちを持って微笑みながら見るに違いない。バクも少し、その手助けを出来たのだろう。アイリはシューズバックを掌でポンと弾いた。


「やめてくれアイリ」


 本当にすぐに思い出に変わるものだろうか…。あの地上軍軍曹の家族にとって、彼は思い出になっているのだろうか。


 揺れる前カゴに中でバクはじっと考え続けた。

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