月の夢を見たい

綿柾澄香

かつて、私は月に恋をした。

 かつて、私は月に恋をした。


 月。そう、空に浮かんで優しい光であたりを照らす、あの月だ。この地球には地上を照らす二つの大きな光源があった。言わずもがな、太陽と月だ。太陽の光はギラギラと刺すようで、私には少し力強すぎる。けれども、月の光は優しくて、包み込むようにあたりを照らすのが心地よかった。太陽か月、どちらか片方を恋人に選んでいいと言われれば、私は迷わず月を選ぶだろう。それくらいには月のことが好きだった。太陽派の方々はこの私の意見には反論があるかもしれないが、これは完全に私の個人的な好みの問題なのでどうか寛大にスルーして欲しい。


 私が月に恋焦がれるようになったのはいつからだろう。特にこれといったきっかけはなかったように思う。私の仕事、博物館の案内係を終えて帰る前。その博物館にある中庭から見える月が綺麗でよく眺めていた。その内に、月の色々な表情を知っていった。そんな、些細なことだ。そういったことを重ねていく内に、気が付けば恋に落ちていたのだと思う。


 日が沈み、空に群青色が染みていく。高い高いビルの屋上からその様子を眺める。暦の上では今日は満月が現れる日だ。けれども、空にかつての真ん丸な月は浮かばない。


「ま、知っていたけど」


 ため息をついて、仰向けになる。

 空には、三分の一程の残された上部と、そこから下の部分が粉々になった月が浮かんでいる。かつて私が恋焦がれた月は見るも無残な姿で宙を漂っている。そのある意味幻想的ともいえる光景に、どうしようもなく切なくなる。


 月は、数百年前に砕かれた。正確には四八二年四カ月と三日前のグリニッジ標準時で十五時二十二分。月面での新エネルギー開発の実験失敗によって。未曽有の大事故は月の体積の六割を粉砕し、犠牲者は六百万人にも及んだ。その日が境目だった。その日を境に人類の衰退は始まった。恐らく、元々人類の進歩は臨界点に達していたのだ。きっと、月での事故がトリガーとなり、この行く末が決定付けられただけのことだろう。今、この地球上に人類はどれだけ生存しているのだろうか。恐らく、全盛の百万分の一くらいにまで減ってしまったのではないだろうか。まあ、人類の残存数は私には全く関係ないので気にはしていない。


 ビルの屋上から降りて、深緑に覆われた都市の真ん中を歩く。人影はない。動くものは風に揺れる草木と私だけ。ここに、人間は一人も居やしない。かつて、私が働いていた博物館。その隣に建つ建物に私は入る。ここは美術館だ。


 今、この街にいるのはアンドロイドである私ただ一人だけ。アンドロイドである私は人間よりも長生きする。これからも、この身体が朽ちるまでは生き続ける。そして、博物館の案内ロボであった私は人間よりも無知だ。だから、博物館の外のことはなにも知らなかった。恐竜の知識は誰にも負けない自負はあるけれど。


 人類が衰退して街が廃墟となり、私はお役御免となった。お客さんである人間が来ないのだ。当然だろう。お客さんが来なくなって二百年。暇を持て余した私は博物館を出て、隣に建つ建物に入った。別に理由なんかなかった。ただ、隣にあったから入っただけだった。廃墟と化した美術館。そこで、私は心奪われた。館内にいくつも飾られた美しい絵画。これまでの無知を後悔したくなるほどの輝きがそこにはあったのだ。


 両脇にぽつぽつと絵画が現れる通路を抜ける。その先に、私のお気に入りの絵がある。

 不意に現れる大きな空間。その壁面に飾られたシンプルな額縁。その中に、息をのむほど美しい、月。


 そう、真ん丸だったかつての月の姿がそこにはあったのだ。もちろん、それは写真ではない。写真ではないから、精密な月の姿ではない。それでも、この絵を見れば解かる。きっと、この絵画を描いた名前も知らない作者は私と同じように月に恋焦がれていた。だって、こんなにも儚く優しげに月が描かれている。この絵はきっと、月に恋していなきゃ描けない絵だ。


 ただ正確に記録を残す写真もいい。けれども、この絵のように元あるモノに自らの心を乗せることによって、写真よりも美しくなることもある、ということを私は知った。


 顔を上げる。そこにある絵は私の心を満たす。もう戻らない私の恋。けれども、この絵があれば、思い出すことは出来る。


 夢の中で、かつての真ん丸な月に出会えることを願って。私はその絵画の下で眠りに就く。


「おやすみなさい」


 と、誰に言うわけでもなく囁いて。

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月の夢を見たい 綿柾澄香 @watamasa

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