第2話 ぽんぽん追憶回走


 

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 居間でソファに寝っ転がりながらテレビのクイズ番組を流し見ていると、ふいにあくびが漏れた。


「暇だ……」


 新学期になったばかりで宿題なども特になく、おまけにきょうは新入部員の勧誘会だったので、練習と呼べるほどの練習をしていないせいか、身体の力が有り余って仕方がない。


 こういう時間ができてしまうと、たまにふと考えてしまう。


 剣道以外に、喩えば趣味と呼べるようなものを、なにか見つけた方がいいのか、と。


 友人はゲームだったり、映画を見たり、SNSだったり、各々の趣味に時間を使っているらしい。


 俺もゲームはしたりもするが、毎日やるほど熱心なわけでもなく、映画も話題になるものを気になったら見るくらい。スマホでネットサーフィンをしたり、動画を見たりもするが、そのほとんどが剣道関連のものばかりだった。


 剣道以外のことに、俺は関心がうすいと思う。


 その弊害を、体験したことがあるからだろう。何度も何度も、これについて考えたことはあるのだが、答えを掴めそうで掴めないまま、苔のように頭の片隅にへばりついている。


 新学期になって、いろいろと変わった時期だからというのもあるのだろう。周りが変わっているのに、自分はなにも変わらなくていいのか、と。


 そんなことを悶々と考えていたら、ピンポーンと、インターホンが鳴った。


 テレビの上の壁にかかった時計を見ると、夜の九時をすこしまわっている。父は夜勤で、母親はちょうど風呂に入っているし、直美は二階の自分の部屋だ。面倒だが、俺がでるしかない。


 早歩きで玄関へ向かうと、格子状の磨りガラスの戸の向こう側に、外灯に照らされた輪郭がぼんやりと浮かんでいた。


「あ、先輩、こ。こんばんわ」

「おう」


 外にはジャージ姿の真が立っていた。その格好にはいささか不似合いな派手な柄の大きな紙袋を持っている。


「母が色々と作ったそうで、おすそわけに来ました」

「ありがとう。久しぶりだな。お前が来るの」と俺は紙袋を受け取った。

「いままでは受験期間だったので」と真が云った。「きょうはたまたま、ランニングに行こうとしたついでに、持っていってと」

「ランニング?」

「ハイ! わたし、本気で痩せようと思いまして。きょうからはじめることにしたんです!」


 そこできょうのやり取りを思いだしてしまい、俺は首を触りながら目線を外した。


「その、なんだ……悪かったな」と俺は云った。「気にしてること、云ったみたいで」


 ほんのわずかな間ができて空気が一瞬かたまると、その間を埋めるように真が「ほんとですよ、もー」と呆れと照れくささが入り混じったような声で答えた。


「でも話してて、すこしほっとしたんです。ぜんぜん会えてなかったのに、先輩との距離感、変わってないなって思えて」


 目線を戻すと、真が上目遣いでこちらを見上げてくる。


「そうか」

「ハイ!」と真が明るく答えた。「あ、っと。立ち話させてすみません、そろそろ行きますね。ではまた! おやすみなさい先輩!」


 またしてもぴゅーっと走り去ろうとしたので、俺は伝え忘れていたことを云うために「なあ、真」と声をかけた。


「ハイ、なんですか?」と真が振り返った。

「俺も走っていいか?」

「ハイ?」

「実はいま、めちゃくちゃ暇でな」と俺は云った。「それにこんな時間だ。女が一人だと危ない」


 そしたら真が「先輩が、そうしたいなら、別にいいです、けど?」と歯切れ悪く返答してきた。


「ついでにサボらないように見張ってやる」

「だれがサボるって!?」と真が云った。「ええ、いいですよ! サボらないように見張っててくださいよ!」

「わかった。すぐに着替えてくるから待ってろ」

「五秒待ちます!」

「せっかちすぎるだろお前」と俺は笑いながら云った。


 俺はもらった紙袋をキッチンの近くにおいてから二階に上がっていく。

 自分の部屋に向かっている途中で、直美の部屋のドアがうっすらと開いた。


「だれ?」

「真。いつものおすそわけを渡しに来た。まだ下にいるぞ」

「そうなんだ。真ちゃんなら、会って、こようかな。あ。きょうのこと、ちゃんと謝った?」

「おう。あと、暇だから真とちょっと走ってくる」

「……どういうこと?」


 真がダイエットのためにランニングをはじめたことを伝えると、直美は「そうなんだ。真ちゃんらしい」とうっすらほほえみながら答えた。


「お前もくるか?」

「私はいい。真ちゃんの邪魔しちゃ悪いし」


 直美がドアを開いて、だぼっとした部屋着を着たまま階段を下っていく。直美と話していれば、五秒以上経ってもさすがに待っていてくれるだろう。




   

 春の夜はまだすこし肌寒い。だけど火照った身体にはちょうど心地よく感じるくらいだった。


 ランニングのコースは俺の家からすこし離れたところにある河川敷だった。舗装された遊歩道は外灯がまばらについているくらいで全体的に暗く、犬の散歩や、腕に明かりをつけてウォーキングをしている人とたまにすれ違うくらいで、時間が時間のせいか、そこまで人が多くない印象だった。


 道なりに進んでいくと、対岸に高層マンションや大きな建物の夜景が見えてくる。


「夜のランニング、けっこう、いいですね」と真が夜景を見ながら云った。

「そうだな」


 数十分くらい走って、息は多少切れてきたものの、となりを走る真にはまだ余裕があった。まったく運動をしていない人と比べて、中学まで部活をしてきたせいか、基礎体力があるのだろう。


「どれくらい走る予定なんだ?」

「一時間、くらい、です」と真が息を入れてから云った。「折り返しで、アラームが鳴るはずなので、そこで一度休憩してから、戻りましょう」

「わかった」


 たっ、たっ、たっ、と会話のつなぎに聞こえてくる足音が心地よく響く。


「先輩には、このペース、物足りないんじゃ、ないですか?」

「いや。ちょうどいい」と俺は云った。「俺のことは気にするな。真が無理なくつづけられるペースで走れ。俺はそれに合わせる」

「ハイ。ありがとう、ございます」

「きついのか?」

「いえ、だいじょうぶ、です」と真が答えた。「先輩は、ぜんぜん息、切れないですね」

「まあ、部活である程度走ってるからな。特に高校に入ってからは、中学のときより走らされるようになった」

「そう、だったんですか」


 指導者によって、指導の仕方は変わってくる。中学のとき、体力づくりは必要最低限で、どちらかと云えば試合で勝つための技術的な指導が多かった。だがいまの顧問は身体をまず徹底的に作り、基礎と地盤を固めてから、実践的な技術を身につける指導になっている。


「いまの顧問が厳しくてな。中学のときより、五倍は練習がきつくなったな」と俺は笑いながら云った。「でも、いい先生だ。俺は好きだな」

「楽しそう、ですね、先輩」

「楽しいぞ。真も来い」

「やりませんって」と真が云った。「やめたんです。剣道は」

「……そうか。残念だ」


 たっ、たっ、たっ、と、足音は変わらないはずなのに、すこしだけさっきと違って聞こえた。


 それから、真はなにも云わなかった。俺も聞こうとはしなかった。辞めた理由なんて人それぞれだから。


 無言で走り進んでいくと、ピピピ、と機械的な音が鳴り、真が息を整えつつポケットからスマホを取りだした。


「先輩。インターバルにちょうどいいので、歩きながらあそこの橋を渡って、戻りましょう」と真が指をさしながら云った。

「おう」


 真に合わせるようにして走りを緩め、俺たちは河川敷から橋まで歩いていく。歩道が広く取られた橋の上は橙色の外灯にまばゆく照らされ、穏やかな風が吹いていた。


 真が両手を広げながら云った。「はぁー。風、気持ちいいですねー」

「そうだな。汗が乾く」と俺は袖で汗を拭いながら云った。

「風邪、引かないでくださいよー」

「だいじょうぶだ。気合があれば風邪なんてかからん」

「でた。気合!」と真が笑いながら云った。「まったく。変わらないですね、先輩は。それ中学のときから云ってましたよ」

「そうだったか?」

「ハイ。直美さんもよく云ってましたから覚えてます」と真がほほえみながら云った。「懐かしいなあ。わたしも、ふたりの真似してよく使ってました。なんでもかんでも気合だーって」

「そうか」

「ハイ。ふたりはわたしの憧れだったので。すこしでも近づきかったんです」


 真が川のほうを見つつ、すこし感傷に浸っているような低い声音で答えた。


「でも、ふたりのようには、なれませんでした」と真が自虐的な笑みを含んだ声で云った。「小学生から、中学生になっても、練習しても、練習しても、負けっぱなしで。先輩たちのように、強くなりたかったんですけど、ダメでした」


 剣道は勝負の世界だ。当然、勝者がいて、敗者がいる。俺と直美は前者になることが多かったが、真は後者になることのほうが多かった。


「引退して、なにかがぷっつり切れちゃって。剣道をつづける気力が、わかなくなったんです」


 負けっぱなしで悔しくないのか、とか。もっと練習すれば勝てるようになる、とか。そんな理由で剣道を辞めたのか、とか――もしもそんなことを思うやつが仮にいたとしたら、俺は根本的にそいつとは合わないだろう。


 負ける悔しさを、苦しみを、辛さを、俺も知っている。どれだけ練習したって上には上がいて、やれるだけのことをすべてやってきたとしても、あっさりと負けてしまうことを。


 それをわかった上で、俺が真にかけてやれる言葉は、ひとつしかなかった。


「おつかれさん」


 ぽんぽんと、真を労うように頭をやさしくたたく。


「いままで、よく頑張った」


 真が剣道と向き合って、費やしてきた時間は、努力は、決して無駄じゃないと。それだけは、絶対に思ってほしかった。


「ぁりが、とぅ――ざい、ます」と真が風に消されそうなほど小さな声でつぶやいた。「……ぬうぁー! ちょっともう、そういうのいいです、やめてくださいってぇ!」


 真が手を振りほどく。


「まったく……先輩って、ほんとに、もう」と真が前髪を整えながら云った。「むかしから、ぜんぜん、変わってない……」

「どこがだ?」

「そういうズルいところですぅ!」


 真が逃げるように駆けだしていくと、すこし離れたところで、伝え忘れていたことを思い出したように急に振り返った。


「でもね、先輩!」と真が声を張りながら云った。「剣道は辞めちゃいますけど、ふたりのことは、ずっと応援していますからね!」

「ありがとう」


 小さな声でつぶやいて、真のあとを歩いて追いかけていくと、なぜか過去の記憶が蘇ってきた。近所の年下の幼馴染だった真、俺たちのうしろをついてきていた部活の後輩――その記憶の断片が、まるで卒業アルバムを眺めているように。


 頑張れ。真。


 俺たちのようになりたがっていた真が独り立ちし、自分の道を進みはじめたことに、すこしだけ寂しさを感じながらも、その背中を押してやるように、心のなかでエールを送った。


「俺も、頑張るか」


 その姿を見て、自分のなかにあった迷いのようなものがすっと消えていく。後輩が応援してくれているなら、格好悪い姿を見せるわけにはいかないなと、脇道にそれかけた自らの道を、再確認することができた。

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