[一年生 三月] 弓峰優心編
第1話 いたいた卒業式
1
吹奏楽部の演奏と盛大な拍手に包まれながら卒業生が次々と退場していく。私も周囲に合わせるように軽く手を打ちながら目の前を通り過ぎていく先輩達へ視線を注いだ。二年違うだけなのに、どこか大人びて見える先輩達を見届けていると、未来の自分をつい想像してしまって、お腹のあたりがきゅっと窄んだ。
去年は中三であっち側――送りだされる側だったのに、また拍手を送る側になると、もう一年経ったんだと実感して、焦燥感がこみ上がってくる。
私はこの一年で、どれほど大人に近づけたのだろう。
考えていたら、断続的につづいていた卒業生の列の最後尾が見え、最後の人が体育館をあとにすると、会場からすぅっとなにかに吸いこまれたみたいに音が消えていった。
「ご来場のみなさま、在校生のみなさま、あたたかい拍手をありがとうございました」
間を見計らったような絶妙なタイミングで、司会進行役の男の先生の落ち着いた声が響く。それから来賓席にいた年輩の人たちの退場、卒業生の保護者へ今後のスケジュールなどを伝えていった。
そのあとに在校生退場のアナウンスがされると、二年生が順番に体育館をでていった。粛々としていた式の空気がゆるみ、私は頃合いを見つつ、前に坐っていたマユの肩をぽんぽんとたたく。
マユが椅子の背もたれに肘を乗せながらゆっくりと振り返った。肩幅の合ったブレザーの下に着たブラウスの襟はアイロンがぴっちりとかかっていて、そのあいだにリボンが隙間なく留まっている。肩にかからないくらいの枝毛のない黒髪のボブカット、ちょっとつり目気味の涼しげな目元に、かたちのいい鼻と適度に艶のある小さな唇。すこし羨ましく感じるくらいのキメの細かなしろい肌に、軽く整えた程度の化粧が乗っていた。
「マユ。あとでトイレ行こ」
「うん、いいぉ……」とマユが袖からだしたニットで口を隠しながらあくびをした。「……ーっふぁ……ごめん」
「途中ちょー我慢してたでしょ?」と私は軽く笑いながら云った。
「してたー」とマユがにへーっと笑いながら云った。「来賓祝辞無理だったー」
「あれ毎回思うんだけどだれなんだろうね。そんな偉い人なの?」
「さー。お金持ちなんじゃない?」
私はマユの腕を揺すりながら云った。「起きてマユ。起きて。返事適当だから起きて」
「起きてるよー」とマユが笑いながら答えた。
マユと軽く話しながら待っていると、ようやく一年生が退場する順番がまわってきた。私達のクラスの番になり、椅子から立ち上がると、整然と並んだ空っぽの卒業生の席が見え、くるりと入退場の扉へ身体の向きを変える。
――弓峰(ゆみみね)さん。最後のホームルーム終わったあとさ――
壁一面にかかった紅白の幕のなかを歩いていると、ふいに一年前の中学の卒業式のことがよみがってきた。いっしょに並んで退場した男子の横顔が浮かんできて、私はそれ以上思いださないように、すこし駆け足で体育館をでた。
廊下で歩をゆるめ、大きく鼻で息を吸いこむ。なんで、あいつのこと、思いだしちゃったんだろう。
うしろを振り返り、マユが来るのを待っていると、クラスメイトが目の前を続々と通り過ぎていく。それほど待つことなくマユがやってきて、私は彼女といっしょに廊下を進んでいった。
「このあと片づけやだなー」
「ほんとそれ。しかもそのためにお弁当持ってこなきゃとか」
「わたしきょうコンビニ」とマユが云った。「きのうお母さんにお弁当いるって云ったら、えーって云われて」
「うちもうちも。いやなるでしょふつう。卒業式なのにお弁当いるとかマジはーって」と私は云った。「マユどうする? あいつと食べる?」
「んー。きょうは特になにも云われてないから、三人で食べるんじゃないかな?」
「そ。じゃあいっしょに食べよ」と私は云った。「でもめずらし。毎回イベント終わり定番だったのに」
「え、そんなイメージあった?」
「あったあった。テスト終わりとか終業式とか、毎回いっしょに食べに行ってるし」
「あー。云われてみれば、そうだね」
そんなこと、いままでまったく意識していなさそうな声だった。マユ以外だったら嫌味っぽくわざとすっとぼけてるんじゃない、と疑いを抱きそうな台詞だったけれど、この子はそういうことをする子じゃないから、きっとほんとうに気づいていなかったんだろう。
恥ずかしがり屋だから、そういう話をしたくないだけなのかもしれないけれど、好きな人とただご飯を食べに行ってるだけだから別に自慢することでもないし、わざわざ話すことでもないよねみたいな、すこしカラッとしているマユのこういうところが、私は好きだった。
適当に話をしながら廊下を移動して階段へ。タントンタンと一段ずつ上っていたら、人が多いせいか横並びでいられず、私は一歩、二歩と下がると、マユと私のあいだに人が入ってきた。
すこし顔を上げながら、マユのあとを追うように階段をのぼっていく。踊り場にある長方形の長細い窓から差しこむ光に目を細めながら、すこし距離のあいた彼女の背中を眺めていた。
まぶしかった。その背中が。
追いつきたい。その背中に。
この一年で、友達のマユがすこし遠い存在になった。月日が経つごとに大人へ近づいていくマユをそばで見てきて、胸がすこしずつざわつくようになっていった。
たぶん、私は焦っているんだと思う。
「ユコー。はやくー」
踊り場を曲がってすぐの階段の途中から、マユが歩きながらこちらを見下ろしてくる。私は笑顔を作って「すぐ行くー」と答えた。
私のことを気にかけてくれる彼女のやさしさが胸に染みる。これからも、私が『遅い』ばかりにマユに気を使わせたらと考えたら、階段をのぼる足が、ほんのちょっとだけ重くなった。
これ、あといったい何時間くらいかかるんだろう。
私は両手にパイプ椅子を抱えながら、まとめて運べるような長い台車の上に揃えて並べていく。片していたところまで戻りながら周囲のようすをうかがうと、体育館のなかには同じ一年生の別のクラスの子たちがたくさんいて、私と同じように先生の指示を受けながら、整然と並んでいるパイプ椅子や垂れ幕などをしまっていた。
「いやふつう女子にこういうことさせなくない!?」
「びびっ、たぁ……いきなりでかい声だすなよな……」
若藤(わかふじ)がびくっと肩を上げてこちらを見てきた。私と同じ紺の体操着。すこし怖い印象の細長のツリ目が隠れるくらいまで前髪を伸ばしていて、上唇から八重歯がちょびっとでている。全体的にクセが強くかかった髪質で、ちょっと前までもっさりした感じだったのに、最近髪を切って襟足だけすっきりさせてちょっとオシャレな感じに整えているのがビミョーにうざい。
「おかしいでしょどう考えても。こういう力仕事って男子集めたほうが効率いいじゃん絶対」
「知らねーよ名簿順で割り振られてんだから。オレに文句云うな」
若藤がめっちゃめんどくさそうな声で答えながらパイプ椅子をたたんで持ち上げた。たしかに、若藤に文句云ってもどうしようもないのに、理不尽に怒りをぶつけちゃって申し訳なく思い、苛立っていた気持ちが収まっていく。
私もふたたびパイプ椅子を持ち上げ、さっきの場所へおきにいくと、メガネをかけた小太りの男の先生が「あーおいそこの二人。その台車、外の倉庫に入れに行ってくれ」と私達二人を見ながら指示を告げた。
その先生がすこし離れてから「さっきの聞こえてたんじゃね?」と若藤が小声で云ってきた。
「かもね。でもまあいいじゃん、ゆっくり行けばサボれるし」と私は小さな声で答えた。「そういえばさ。訊きたいことあったんだけど」
「あんだよ」
「あんたさ、中学の同窓会来る? 今週の土曜、あるんだけど」
「行くわけねーだろ。五億積まれてやっと悩むレベルだわ」
「だよね。うん、訊いてみただけ」と私は台車の持ち手をつかんだ。
若藤が前についた持ち手を引っ張ると、ゆっくりと台車が前進していく。私はうしろから軽く押していたら「行くのかよ?」と若藤が顔をこちらへ向けながら訊ねてきた。
私は溜息混じりに云った。「まあ、ねー。アスとハルに誘われちゃったし」
「おまえまだあいつらと連絡とってんの?」
「高校別々になってからはまったく。他の人ともぜんぜん会ってない」と私は答えた。「だから、ふたりがいまどんな感じか、他の人もどんな感じになったのか、ちょっと気になるんだよね」
「ふーん。オレはまったく気にならねえけど」と若藤が心底興味なさそうに云った。「ま、おまえが行きたいなら別にいんじゃね? 愉しんでこいよ。オレはもう二度とあいつらと関わりたくねえわ」
台車を引きながら、若藤がこれ以上その話題について話したくなそうに顔をそむけて黙ってしまったので、私も口をつぐんだ。そのまま無言で外へ通じるスロープを降り、体育館の近くにある倉庫へ進んでいくと、三月上旬のまだすこし肌寒さのある空気に、かすかに春の香りとあたたかさを感じて、ついつい深呼吸をしてしまう。
――好きでした。付き合ってください――
その空気を吸いこむと、一年前の記憶がまたよみがえってきて、私はぐっと持ち手を強く握った。だからなんで、いまになってあのときのことを思いだしてしまうんだろう。いままで『彼』のことなんて思い浮かべたことなんてなかったのに、どうして。
「ちょ、おい弓峰。おまっ、押しすぎ」
「あっ。ごめん」
若藤に注意されて力を緩める。無意識に台車を押す手に力が入っていたらしい。私は息をついてからゆっくりと前進して空を仰ぐと、うすい雲のかかった青空を眺めながら、断片的に覚えていることを振り返っていた。
最後のホームルームが終わってから、写真撮影とか、卒アルに寄せ書きとかをしたあと、きょうのように晴れた、すこし肌寒い体育館裏で、私は同じクラスの男子に呼びだされて。
人生ではじめて、告白された。
――ごめん。吉屋(よしや)のこと、そういう風に見たことない――
告白をしてきた男子は吉屋 結人(よしや ゆいと)っていう、クラスの学級委員をしていた人だった。黒縁のメガネをかけた、おしゃれでもダサくもない、ただ整えてますみたいな直毛の黒髪で、私が見上げるくらいだったから、背は男子の平均より高かっただろう。丸顔で、頰が女子のようにふっくらしているのが印象に残っていて、かっこいいというよりはかわいい感じの、幼さのある顔だった。
――そっ、か――
そうつぶやいた声は、どこかわかっていたように落胆しながらも、心の片隅にかすかに希望を抱いていたように聞こえた。もしかしたら彼は、卒業式のムードに流されてOKしてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。
告白されて、緊張はしても、うれしさはまったくなかった。好きになってくれてありがとうとか、告白してくれた彼を気遣うこともなかった。私のどこを好きになったんだろうって、心底疑問だった。見る目ないなと思った。仮面をかぶりつづけていた私を好きになるなんて。
だれからも嫌われないように自分を殺して、笑顔の仮面を貼りつけながら愛想よく振舞って、かといって『上辺感』をださないように本音っぽく聞こえるような台詞を繕って『いい子』すぎないように冗談や悪口を交えながら、苦しくなるくらい空気を読んで過ごしていたことを、彼はきっと気づいていない。
その『私を演じている私』が大嫌いだったことも。
あれから、一年が経って。高校生になってから、マユに会って、自分を演じなくてもいい人達といっしょにいるようになって、ほんのちょっとだけど、大っ嫌いだった自分を好きになれた、そんな気がする。
「わぁあぁぁあああ!」と私は髪をかき乱した。
「えちょ、なに、――ぁぃ、だっ! ァキ、レス、腱!」
こちらを振り返った若藤が台車の下に足を巻きこんで「あっだ、あっ、はぁー、つぁー」と謎の言葉を叫びながらその辺をケンケンしている。めっちゃ痛がってるのに、不謹慎だけどその動きが面白くて、私は笑いそうになるのを必死に堪えながら「だ、い、じょぶ?」と訊ねた。
「いきなりでかい声だすなって!」
過去を思いだして、その『痛さ』につい叫んでしまったなんて云えるはずもなく。私は「ごめんごめん」と何度も謝っていたら、突然、思わず目を細めてしまうくらいの強い風が通り過ぎていった。
もうすぐ、春がくる。
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