第2話 ぺしぺし塾帰り
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塾へ通うようになった理由のひとつに、自分自身を変えたかったから、というのがある。
オレは中学のときにいじられキャラで、特に二、三年のクラスが派手な――俗に上位カーストと呼ばれる連中の力が強く、そいつらの過剰な無茶ぶりや強烈ないじりに、ぶっちゃけ云えば心底嫌気がさしていた。
こいつら死なねえかな、とふつうに思うときもあったし、マジで学校に行きたくねえと思うときもあったけれど、それでも一度もブチ切れることなく、その上位グループに溶けこんでいたのは、その地位にいて安心していた自分がいたのと、そういう連中といることが正解だと信じていたからだった。
中学を卒業して、残ったのは傷だけだった。
卒業式の日、オレは自分の部屋で、安堵のあまりガチ泣きした。もう二度と、あそこへ行かなくてもいいんだと、中学の連中と関わらなくてもいいんだと考えただけで、心の底からほっとしたのだ。
そしてオレは、まるでバッテリーの切れたロボットみたいに、茫然と中学最後の春休みを過ごした。マジで、なにもする気が起きなかった。寝て、飯を食って、寝ての繰り返し。そのあいだ、中学の連中からグループラインで遊びの誘いがあったりもしたけれど、オレは一度も返信せず、未読の件数がたっぷりと溜まったアプリのアイコンを消去した。
ぶっちゃけ、そのときの精神状態はかなりヤバかったと思う。でも、その磨耗した心を修復する期間――充電期間があったおかげで、オレは自分自身について考えることができた。
そのときに、塾へ通いたいと思った。理由は、将来を見据えて。それに加えて、友達も知り合いもいないまっさらな環境で、他人にいじられなければ生きないような、からっぽの自分自身を変えたかったのだ。
両親にそのこと(もちろん大学進学のためと云った)を打ち明けると、それまで勉強に力を入れることなんてなかったせいか、そこそこ、いやかなり驚かれた。まあ当然、金のことが絡むので、快くとは云わないまでも、まあ了承を得ることができ、オレは高校生になってから塾へ通うことになる。
泉センパイと出会ったのは、通いはじめて間もない、春のことだった。
目線を上へ向けて自習室にある時計を見た。もうすぐ泉センパイのコマが終わる時間になる。オレは机の上に広げていた教科書などを片し、リュックを開くと、しろいビニール袋がしわくちゃにならないように教科書などをしまっていった。
階段をリズミカルに降りていき、オレは受付などがある一階へ。帰り際のせいかそこそこ混み合っていて、受付では紺のセーラー服を着た女子が講師と話をしていたり、テーブルで講師と生徒が真面目な顔で向き合いながら話し合っている姿が見えた。
「おーっす」
「うぃーっす。お疲れっす」
そんながやついているなかで、泉センパイが手を上げながらこちらへやってきた。リュックを背負い、襟の長い真っ赤なトラックジャケットの上に、膝まであるダブルのベージュのチェスターコートを着ている。下はスウェットのような、リブがキュッとしぼられたネイビーのパンツに三本ラインの入ったしろいスニーカーをはいていた。まわりが制服とか地味めな服を着てる人がほとんどだからか、くそ目立つなあの人。
「まだ時間平気?」
「ぜんぜんよゆーっすよ」
「お世話になった先生に挨拶してきたいから、ちょい待ってて」
「ん。了解っす」
泉センパイが受付に軽く身を乗りだし、講師の人たちと会話を交わしていく。オレの塾は個別指導で、学年ごとに担当が変わり、あとはなにかの事情でも変わることがある。泉センパイは一年生の頃からこの塾に通っているので、まあ顔が広く、担当していない講師とも仲良くなってるようで、次から次へと彼女のところへ講師がやってきて話がぜんぜん終わらねえ。
そうしてかれこれ三十分くらいは経っただろうか。退屈だったから途中で空いたテーブル席でスマホゲームをしながら待っていると、泉センパイがこちらへやってきた。
「ごめん、お待たせ」
「ん」とオレはスマホをポケットにしまった。「最後の挨拶っすか?」
「まあそんなとこ。もうすぐ本命の試験だからさ」
「いつなんすか、試験」
「二月十四日」
「バレンタインに試験とか、なんか悪意感じるっすね」
「逆に会場で運命的な出会いがあるかもだろ。はあ……さっむー……」
オレらは塾をでて、駅へ向けて歩いていく。あいかわらず天気が悪く、ここ最近は曇りばかりの日がつづいていた。だいぶ夜も遅いせいか、駅へ近づいていくと大きな声で話している酔っぱらいや、服装に力が入りまくってる社会人らしきカップルがいたりと、夜の街の独特な雰囲気を歩いていると感じる。
電車に乗る前に渡しておかねえと。オレはリュックを前にしてなかを漁ると、しろいビニール袋を取りだして泉センパイに突きだした。
「いままで、ありがっした」
照れくさくてきちんと云えねえ。泉センパイが「うわぁーなんだよこれー」ってテンション高く声をだして、袋の中身を見てくると「やっば。超大量じゃーん」と笑いながら顔を上げてきた。
「最近、逆チョコって流行ってるらしいっすよ」とオレは鼻をかきながら云った。
袋のなかには大量のチョコ菓子を詰めこんだ。そのなかに紛れこませるように、毎年この時期になると流行りだす受験生定番の『K』ではじまるものを入れておいた。それだけだといかにも『応援してます』感があって、なんか恥ずいのと負担になるかもしれねえなと思ったので、カモフラージュてきに大量にぶちこんでおいたのだ。
「なんだワカあたしのこと好きだったのかー」
「めっちゃ好きっすよマジでー」
「ちょー本気にすんぞこのやろー」と泉センパイが笑いながら肩を触ってきた。「でもマジでうれしいわー。ありがとなワカ」
「ラスパがんばってくだせえ」
「そうする。……てゆうかあー、先にやられたなくそー」
泉センパイが片膝を上げてリュックを開き、オレが渡した袋と入れ替えるようにして、小綺麗な紙袋をだしてきた。オレはそれが目に入った瞬間、どきっと胸が跳ね、いや、まさかそんなことはねえと、なるべくいい方向に考えないようにする。
「ん。やる」
「ども、っす」とオレは紙袋を受け取りながら云った。「あーっと、これってアレっすかね?」
「うん、アレ。爆弾。ちょいはやいけど、渡す機会ないから」
「うっーわー。マジっすか」とオレは云った。「オレ、母親以外の女子からブラックサンダーとチロルチョコ以外もらったのはじめてっす……ありがとうございます。あー開けたくねーなー。もったいなくて食えねー」
「いや食えよマジで。腐るからね?」
「爆弾なんっしょ?」
「時間が経つとヘドロ爆弾になる」
「やべえっすねそれ」
本命なのか、それとも義理なのか、訊くことはできなかった。いやでもきょう呼びつけてこれを渡してきたってことは本命なのか? いやでも泉センパイに好かれるようなこと、オレはなにもしてねえし。だとすると、いままでありがとうてきな意味がこもってる義理なのか?
頭がめっちゃぐるぐるまわる。訊けばソッコーでラクになれんのに、真実を知るのが怖くて、訊くに訊けねえ。
「ワカと会って、もうすぐ一年になんだなー」
考えている最中、泉センパイが歩きながら、話題をそらすためか、むかしを懐かしむような口調で云ってきたので、オレも歩調を合わせつつ「センパイに餌付けされてもう一年っすかー」と口を開いた。
「ちょ、云い方」と泉センパイが小突いてきた。「だれだったかなーあのときでかい腹の音させたやつ」
「よく覚えるっすね。会ったときのこと」
「そりゃーまー。つかあんときのワカ、なんつーかちょい雰囲気尖ってたよなー。いまはずいぶん丸くなったけど」
「そっすかね」
振り返ってみれば、そうかもしれねえ。そんで丸くなったきっかけは、間違いなく泉センパイと出会ったことが関係してると思う。
高校生になったばかりの頃、オレは絶対に友達を作らないと決めていた。いじられキャラからガリ勉キャラになって、ひとり孤独に、大学進学のために勉強漬けの日々を過ごそうと思っていたのだ。まあいま振り返れば、初期衝動によくあるモチベーションが高い状態だったんだろう。
学校では、ひとり机に向かって教科書を広げ、帰りはほぼ毎日のように塾の自習室を訪れて勉強していると、あるときめちゃくちゃでかい腹の音が鳴った。何度も何度も、鳴り止まない腹の音が、静寂の満ちた自習室中に響き、恥ずかしさに耐えていると。
『食う?』
となりに、たまたま坐っていた泉センパイが、こちらをのぞこきこむように仕切りの横から顔をだして『P』ではじまるスティックチョコを差しだしてきた。
いらね、と突っぱねることもできたはずなのに、オレは『あざ、ます』と照れながら受け取っていた。
閉ざしたはずの心の扉が、その日、ほんのちょっとだけ、ゆっくりと開いた。
他人からしてみたら、どんだけチョロいやつなんだと思われるだろう。お菓子をもらっただけ。たったそれだけなのだ。でも『それだけ』と思えることが、そのときのオレにはえらく心に染みた。じゅくじゅくの傷口に消毒液をぶっかけたときみたいに、その彼女のやさしさを『痛い』と感じて泣きそうになるくらい。
オレは泉センパイに顔を覚えられ、自習室で会うたびにそのときのことをからかわれ、お菓子をもらうようになった。お返しに、オレもお菓子を渡すようになった。そんなやりとりをしていたら、いっしょに近くのコンビニまで飯を買いに付き添うようになり、泉センパイが他校の生徒で受験生でオレの担当が前に同じだったことなど、徐々に彼女のことを知っていった。
泉センパイと知り合って、傷だらけの心が徐々に癒えていって――その心境の変化は、学校生活に影響を与えた。すくねえけど、心から笑い合える友達ができたのだ。
絶対に、だれとも仲良くならないと、友達を作らないと決めていたのに。
「オレ、泉センパイに会えて、マジでよかったっす」
下を向くと、泉センパイが上目遣いで見つめてくる。
「んだよー真面目な顔で。恥ずいわバカ」と泉センパイがぺしんと腕をたたいてきた。「あたしがいなくなっても元気でやれよ」
「うっす」
駅が見えてきて、それぞれ改札を通って駅のなかを進んでいく。乗換駅だからか人が多く、階段を上がるコートを着たリーマンや、エスカレーターには毛先を巻いてる似たような髪型の女がリーマンに混ざって一列に連なっているのが見えた。自分が乗る番線の電車の時刻表を確認すると、もうちょいで到着するところだった。
「んじゃな、センパイ」
「うん、じゃあね」
お互いに手を広げ、歩きながらぺしぺしと叩き合う。手と手が触れ合うたびに、胸が重くなって、寂しさがどんどん募っていったけど、別れ際なので気持ちをぐっと堪え、オレは笑顔を作りつづけた。
泉センパイの身体が離れていき、手に当たる力が弱くなっていく。そしてとうとう触れなくなると、オレはこれでほんとうにお別れなんだなと思い、奥歯を噛みながら、ばっと腕を伸ばしてセンパイの手を取っていた。
「いつ、っすか。本命の、合格発表」
泉センパイが、驚いた顔をしながら立ち止まる。
「二月、二十八日」
「塾、来るんすか。結果、云いに」
「うん。行くよ。受かってたら、だけど」
「そっすか」
オレはゆっくりと手を離し「センパイが頑張ってんの、オレ知ってるから」と声を震わせながら告げた。そしてすぐ、泉センパイに背中を向けて走りだし、一気に階段を駆け上がっていく。
あああああくそっくそ、なんであんなことしちまったんだオレ。絶対、キモいって思われた。ガラにもないことしちまった。チョコもらって調子乗った。あああマジで死にてえ!
ホームへ辿り着くと、直前で電車が行っちまって。オレは荒い息を整えながら次の電車を待っていると、沸騰したみたいに熱くなった頭が、夜風に当たって急速に冷えていった。
冷静になっても、なんであんなことをしちまったのか、自分でもまったくわからなかった。
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