第44話 そんな言葉より、好きって言葉が聞きたかった
※
まだ夜中の三時だった。
本来、顔を洗うべき洗面所で俺はトランクスを洗っていた。寝ぼけ眼をこすりながら、下半身に何も履いていない状態で。
蛇口の水を出しっぱなしにしながら、ただひたすらにすすいではしぼる。それの繰り返し。
夢精の事後処理。それはなんとも滑稽な姿だと思う。一人暮らしでよかったとこの時ほど思ったことはない。
俺は夢精の気持ちよさ以上に罪悪感にさいなまれていた。
おっさんの靴下みたいな風味と言われてしまった。俺にはその理由がはっきりとわかる。俺だけが知っている。
なぜなら俺はヤリまくっていたわけではないからだ。
マヤとのカップリング成立から一ヶ月。おのれの不甲斐なさを正直に言うことができず、サキの前で大見得を張ってしまった。
人間って、そう簡単には変われないよね……。
バーベキューの夜、マヤと二人で歩いていた俺は焦っていた。
快速電車で都内にまでもどり、たがいの路線に乗るために別れた。が、そこで俺は改札の中まで入ってマヤをよびとめた。
「え、な、なに?」
マヤは驚いていた。というか、軽く引いていた。
そして俺はテンパっていた。
「俺はあの夜以降、ずっと後悔していた。重い十字架を背負い、草木の生えぬ荒野を歩んだといっても過言ではない。そして今、ようやくリベンジする機会がきたんだ!」
俺は大きく息継ぎをする。
「ぜひ、あの夜の続きからやらせてほしい! 今度こそは要領よくやれるから!」
たぶん、そのときの俺の目は血走っていたのだと思う。
「え? 今から? 今日はお姉ちゃんがいるから無理だよ」
マヤは困ったように胸元のペンダントをいじっていた。
「だったら俺んちでいいよ! ちょっと散らかってるけど、気にしないなら! あ、ラブホでもええよ、金なら持って……」
「ちょ! 声大きいよ。まわりに聞こえてるよ」
俺たちが立っていたのは駅のホーム。ときおり通過する電車の音がうるさくって、つい大声を出してしまったらしい。
「今日はもう帰ろ。ね」
女神のような慈愛と母性に満ちたマヤのまなざし。そこで俺は納得していればよかったのだ。
「……今度じゃ、もう駄目なんだよぅ……やろうと思ったときにやらないと、俺という男はチャンスを逃してしまうんだよぅ」
今にも泣き出しそうなグズり方を俺はしてしまった。
「……私の気持ちは考えてくれないわけ?」
マヤの口調が詰問するような強いものへと変わった。
「さっきから雷同くんがどうしたいかってことしか話してないじゃない! エッチは一人でするものじゃないんだよ! タイミングとかペースとか雰囲気とかいろいろ必要なの!」
「ちょ! 声でかいって……まわり見てるって……」
「そもそも雷同くんはただヤリたいだけなんでしょ!」
まわりを気にせずマヤは叫んだ。若いカップルがこちらを見てクスクス笑っている。
「な! ヤリたいだけちゃうわ! ヤるのが目的ちゃうわ! 俺はただ、自分の自信を回復したいだけなんだ。それも早急に……」
俺たちの脇を特急電車が通り抜ける。マヤが口を動かしているが、電車の音にかき消された。
電車が完全に通り過ぎてから、マヤが言った。
「そういうことでしたら、他の人でどうぞ」
そして彼女は電車に乗っていってしまった。俺はその場に茫然と立ち尽くした。
十分経って、俺はマヤにメールした。
『明日、また、大学で会えるよね?』
そんな消極的な文面だった。
一分も経たないうちにマヤからの返信がきた。
『そんな言葉より、好きって言葉が聞きたかったんだよ』
このメールを見た時、俺は正解がなんだったのかを悟った。今となっては手遅れだろうし、マヤのことが好きかどうかを問われると、俺は自信をもって答えることができない。
改札を出るときに、ICカード不良で改札に遮られた。何から何まですべてに見放された気分だった。
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