第3話 童貞は心の病。恐ろしい現代病。

 俺は言われるままに三十二ページを開いた。目の前の少女と違い、ボンキュッボンなセクシー美女のイラストが載っていた。大きなコウモリの羽がついていて、完全にではないが見た目は一致している。

「えっと、サキュバス……キリスト教の悪魔。え、あんたキリスト教徒なん?」

「キリスト教に出てくる悪魔っていう意味ですぅ! もう、さっさと続き読めですぅ!」

「はいはい、ん、と……夢の中にあらわれ、精気を吸い取る」

 サキュバスは得意げに目を細め、アゴを突き出している。本人はドヤ顔のつもりなんだろうが、ただの変顔にしか見えない。

「……理想の異性の姿で現れるため、拒否するのは至難……ってことは、さっきの夢はお前が見せたんか?」

「ふん、ふふん。サキュバスにかかればエッチぃ夢を見せることくらい朝飯前ですぅ!」

「お、お前やったんかい! なんちゅーことしてくれんねん。せっかく忘れようとしていたのに。なんでわざわざ古傷をえぐるようなことをしてくれんねん!」

 俺は衝動的にサキュバスの両肩に手を置き、ゆさぶった。サキュバスの顔が前後に揺れる。

「はわわわ……やめてくださいぃぃぃ」

「俺は、彼女とのことを、なかったことにしようと思っていたのに! 勝手なことを! ぐはっ!」

 急に俺は脱力し、膝から崩れ落ちた。

 献血直後のように、なんだか気だるい。

「だから言ったのにぃ……すいません。ちょっとばかし、エナジードレインが発動しちゃいました」

「エナジードレイン? ちょっと待て。俺の大事な魂的ななにかを吸ってしまった…とか?」

 タメ口でしかもお前呼ばわりしてしまった。こいつが悪魔だということを実感し、背筋がひやっとした。

「心配はいりません。魔物辞典にも書いてあるとおり、精気を吸い取っちゃっただけです」

「その、精気ってのは具体的にはなに?」

「ダイレクトに言うと、シコシコ一発分のエネルギーです。って、はわわわ! シコシコって! 言うに事欠いてシコシコだなんて! うら若き乙女になにを言わせるんですかぁ!」

 自分で口にした言葉に赤面し、両手で顔を隠している。このサキュバス、どうやらシモ系の話が苦手なようだ。

 射精一発分なら別に気にしない。と、待てよ。引っかかる部分がある。

「夢の中に出て精気を吸い取る必要はないんちゃうん? なんでわざわざ、そんなまわりくどいことする必要あるねん?」

 サキュバスは、いい質問をぶつけてきましたね。と大袈裟にうなづいている。

「さっきみたいに接触していただく場合と、夢の中でいただく場合とでは、あじわいというか、風味がぜんぜん違うんですよ」

「あじわい?」

「そう、例えるならバースデーケーキにロウソクが立っているのと、ないくらいに違うんですぅ」

「味自体は変わらへんやろ」

「うぐう……じゃあ、塩のかけた目玉焼きと、そのままの目玉焼き。塩をかけたスイカと、そのままのスイカくらいに違うんですぅ」

 さっきから例えが微妙すぎる。ちなみに俺は、どちらもそのまま食べる派だ。

「そ、そうだ。これならわかります。カニのカマボコと本物のカニくらいに違うんです!」

「あ、それならわかる。カニのカマボコって存在自体が謎やんね」

「やっとわかってもらえましたか! 今、少し精気を吸っただけなのに、なかなかの美味しさでした。これで、夢精でもしてもらった日には、どれだけの美味しさなのかはかりしれません!」

 サキュバスは目を閉じ、拳を握り、プルプルと震えている。

「ちょっと待て待て。おい。勝手に期待すんなや」

 大学三回生にもなって、夢精、だと?

 冗談ではない。

「夢精すると、そりゃあもう気持ちいいらしいですよ? 自分でするのとは比べ物にならないらしいです」

「いや、そら気持ちええんかも知らんけども、中高生ならまだしも、大人として、人として、どうなんかなって……」

「うん? 宗教的に、やらしいことが禁じられてる系の人なんですか?」

「無宗教やけどさぁ、なんか恥ずかしいやん」

 なぜだか理由はハッキリしないが、夢精をすることにすごく抵抗があるぞ。

「一人暮らしじゃないですかー? 家族に見られないように、こっそりパンツを水洗いする必要もないし、そのパンツを洗濯機の奥にまぎれこませて、母親にバレないかドキドキすることもないですよー!」

「ま、そらそうやねんけどさ……」

「親の仕送りで一人暮らし。最高じゃないですか! こんな夢精し放題の環境。他にはありえませんよ!」

 女性連れ込み放題ならわかるが、夢精し放題とか言われても……己の不甲斐なさに泣けてくる。

 なんとか言い訳をして、サキュバスさんには帰っていただきたい。まるでしつこい勧誘を受けている気分になってきた。

「夢精するとさぁ、パンツの中がぬちゃぬちゃになってまうやん? 生理的に嫌やねん」

「そんな心配ならご無用です。寝る前、パンツの中に新聞紙を突っ込んでおくと、いい具合に湿気を吸い取ってくれますよ!」

「パンツの中がごわついて寝れへんわ!」

「だったら、今は老人用オムツもありますし、ノープロブレム。ね! 夢精しましょうよ! 一生、忘れられない素晴らしい思い出を作りましょうよ!」

「なにが素晴らしい思い出やねん! そんなもん、ただの夢幻やんけ! お前は、ただお前はカニカマパーティじゃなくって、カニ道楽に行きたいだけやんけ!」

「ふ、ふぐぅ! 図星すぎてなんにも言えないですう!」

 サキュバスはついにがっくりとうなだれてしまった。

 出ていってくれと声に出して言いたい。が、目の前にいるのは悪魔というより、コスプレをした美少女にしか見えない

 まったく女というやつは、いろんな表情を見せては俺の心をかき乱してくれる。

「そんな絶望的な顔をせんといてくれよ。まぁ、これでも飲んで気分を落ち着けて」

 俺はマグカップにココアを注ぎ、サキュバスに差し出した。

 サキュバスはおそるおそる受け取り、ゆっくりと口に運んだ。

「美味しいです。少しテンションが上がりました」

「とりあえず、落ち着いて話そう。夜中の三時やし、ご近所さんにも迷惑や。小さめの声で頼むよ」

 サキュバスは正座をして、背筋をピンと伸ばした。

「さっきみたいな夢を見せられても、正直、ありがた迷惑やねん」

「……たいていの若者はエロいことが好きだと聞いてますが、はわわ……もしかしてインポテンツなんでしょうか?」

「インポなどではない。むしろ毎晩寝る前と朝起きたときには、ほぼ必ず、えと、その……」

「シコシコしてるんですか?」

「シコシコって言えへんのちゃうんか!」

「一回言ったらもう平気ですぅ」

「……まぁ、性欲は人並みにはあるほうやと思う。むしろ、同年代の中では平均以上かもしれへんな」

「それなら、なぜ拒んだりしたんでしょうか? サキュバスが介入したエロ夢を強制終了するなんて、よほどじゃないとできませんよ」

 いったいどこから話したものだろう。自分の恥部をさらけ出すのは痛みがともなう。直りかけの傷を潮風にさらすようなものだ。

「……据え膳食わぬは男の恥。という言葉を知ってるか?」

「スエゼン?」

 サキュバスはきょとんとしている。

「うん、要するに……女のほうから言いよってくるのを受けないのは、男として恥ずかしいって意味やねん」

「スエゼンってどういう意味ですか? 気になります」

「用意された食事という意味らしいけど……出された食事に手をつけないどころか、星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返してしまうような男、それが俺なんや。しかも一回だけでなく、ハットトリックを決めてしまった」

「はい。わかります。よーく、わかります」

 サキュバスは捨てられた子犬でも見るかのような視線をぶつけている。

「そっか、わかってくれるか」

「ようするに、一言で表現すると童貞をこじらせちゃったんですよね!」

 悪魔とはいえ、可愛い女から面と向かって『童貞』だなんて言われると、自尊心が……。

「ど、童貞? なにを言っているの? そんなことを俺は一言も言っていないじゃない? そんなことを口にした覚えはないよっ!」

「つまり、あなたは夢の中であろうと、ヘタレてしまい、そんな自分に嫌悪して死にたくなってしまうことを恐れているのですね!」

「いや、なにもそこまでは……」

 そこまでは?

 ならばなぜ、お前は大学をさぼって、家にひそんでいる?

「よし! 決心しました。まずは童貞を治療しましょう! そのために、悪魔サキュバス、全力でサポートするですぅ!」

 気分がふさぐ俺とは真逆に、サキュバスはノリノリになっている。

「ち、治療って! 病気みたいに言うなや!」

「童貞は心の病です。盲腸よりも恐ろしい現代病の一種なのですぅ」

 くもりなき眼で迷いなく言いきりやがる。

「もう俺のことなんてほっといてくれや。だいたいそんなことをしてお前になんのメリットがあるねん!」

「メリットならあります。童貞を治した暁には、たっぷりと夢精してもらいます! あなたの夢精の価値は、おそらくボジョレー・ヌーボーに匹敵します!」

 ボジョレー・ヌーボー?

 なんだか俺はおかしくなり、思わず笑ってしまった。

 涙が出るほど笑っている俺を、サキュバスは不思議そうに見ている。少し後ずさりをしながら。

 自分自身がなにより、今の自分を変えたいと思っているんだろ?

 今が最悪なら、これ以上、落ちることはないじゃないか……。

「ボジョレー・ヌーボーでも初ガツオでも新茶でもなんでもええ。味わわせてやるよ。夢精したるわ。そのかわり、童貞喪失までのサポート、しっかり頼んだぜ!」

 俺はサキュバスに右手を差し出した。魂とか大袈裟なものではなく、夢精を条件に悪魔と契約だなんて、じつにしょぼくて俺の身の丈にあっている。

「ん? え、えっと、これは……シコシコのときに使っている方の、不浄の手?」

 サキュバスは俺の右手に戸惑っている。行為の意味自体わかっていないようだ。

「あぁ、人間同士はな。いっしょに仕事をやろうとするときに、たがいの手を強く握って友好をしめすものやねん」

「えっ、じゃあ……」

「童貞喪失までの長い旅へ……いや、長いと困るよな。童貞喪失までの短い旅へ、いざ、俺と一緒に出かけようぜ!」

「はううう! 旅に行くほどの覚悟はないですけど、感激ですう! こちらこそよろしくなのですぅ!」

 サキュバスが俺の右手を握る。それも両手で包み込むようにして。

 握手会のアイドルかよ。と、心の中でつっこむのも束の間、俺は脱力してベッドに倒れ込んだ。

 俺はすっかり忘れていた。エナジードレインのことを。

 耳元でサキュバスの慌てふためく声が聞こえる。

 これから前途多難な日常生活に入りそうだ。

 体に残ったアルコールや睡眠不足、二回分の射精の疲労もあり、俺は眠りについてしまった。

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