第4話:空くんの涙の理由2
放課後、教室で藤沢かなえ先生と落ち合い、一年生の
「へえ、西村くん、そっち読んだんだ」
一昨日の夜に読んだ小説の話だ。
「えっ?そっち、って?」
「カクヨム――、でしょ?」
「だけど、……その投稿サイト、藤沢さん、使ったことあるの?」
「読み専だけどね、ちょっとだけ、書いてみたこともあるけど」
「へえ、なんてユーザー名で書いてるの?」
「えっと……、ゴメン、教えない、ちょっとマズイ内容かも、だから」
何となく察しは付いたが、だとすると確かにマズイので、それ以上触れるのは止めた。
「私が読んだのは、すごいよ、――逃れの街で、っていうタイトルの、片脚を無くした二十四歳の兵士と、両目とも義眼の十三歳の少女の、切なくて、哀しくて、でも、とてもキレイな恋の話なの、……」
目が微かに潤み、声が濡れていた。
「どんな話か知りたい?あのね、……」
「いや、止めようか、紙稿にも時間にも限りがあるし」
「何のこと?」
「いや、……今日の夜にでも読んどくよ」
「そう、……」
どうして一人で泣いていたのか?
どういう理由で泣いていたのか?
かなえ先生と僕は、そのあと少し話し合ってみたが、結論は得られない。
「一人で泣いている現場を、できたら二人で、一度実際に見てみるべきだ」
最終的に、そんな暫定的な方針を二人は導き出した。
―― でも、どうやって?
「方法論的には、もう選択肢なんて無いんじゃない?」
かなえ先生が言い放つ。
「というと?」
僕は問い返す。
かなえ先生は、黙って教室の後ろの掃除用具用のロッカーを指さし、続けて正面の教壇中央にある教卓を指さした。
「
思わず言った、だってそうじゃないか?
教育の現場で、そんな悪フザケじみたこと、……
「じゃあ、隠しカメラでも買ってきて取り付ける?その方がまずくない?」
確かに、バレる危険性が高いし、バレたら、それこそ大問題だ。
―― 教育実習生二名が、共謀して教室にカメラを設置して、中学一年の男子生徒を隠し撮り……!
なんてニュースになるかも知れない。
いや、というか、いったい何を、どんな目的で共謀してるんだ、って話だけど、……
それに、僕たち教育実習生には時間が無い。
寝る間もない忙しさに加え、考えてみたら、もうあと二日で、この中学校を後にしなくちゃいけないのだ。
「やるしかないか、……」
僕は肚を決めた。
「分かったようね、……」
かなえ先生の眼鏡がキラリと光る。おいおい、……
方法論的に問題ないか検証するために実際に隠れてみることにする。
こんなことするの、子供のとき以来かな?
いや、子供の時だってこんなとこに隠れたことないぞ、……
かなえ先生は率先して掃除用具用のロッカーに行き、扉を開け、中に入り、そして自分で内側からパタンと扉を閉めて見せる。
「どう?」
「…………」
「ねえ、どう?」
「う、うん、外からは分からないね、中に、その、人がいるなんて、……」
「良かった、こっちからはよく見えるよ」
なるほど、扉の右側の上の方に換気用の丸い穴が開いている。そこから覗いている訳か、今も、……。
「西村君も隠れてみてよ」
「あ、ああ、そうだね」
僕は教壇に上がり、しゃがんで体を小さく折り畳むようにして、教卓の中に入ってみる。
「どう?」
僕は訊いてみる。
「大丈夫、こっち側からは分かんない」
かなえ先生が答える。
教卓の中と、掃除用具のロッカーの中とで、声を掛け合う。
声はするが、人影はない、変な感じ。
こんなとこ、常勤の教師に見つかったら、教員免状なんて、それこそもらえないかもな、……そんなことを考えてみる。
教卓の内側から見て、正面右上の方に、何だろう、やはり通風用の穴のようなものがあることに気付いた。窮屈な状態で身体の位置を変え、その穴を覗いてみると、教室の中の様子をほぼ、視認することができた。
いいね、こっちからも見えるよ、——
そう言おうとして、しかし、その言葉が声になることは無かった。
教室の中に生徒が一人、入ってきたのだ。
空くんだ。
教室に入ると、空くんはキョロキョロとまわりを見回した。
その時点で既に、僕とかなえ先生は、完全に出て行くタイミングを失っていた。いや、だって、もう出て行けないよ、ふつう。まあ、かなえ先生に出て行くつもりがあったかどうかは、疑問だけど。
空くんは、教室の後ろのロッカーの上にいつも置いてある、小さい鏡を見た。女子生徒の私物で、みんなが何となく使っているやつだ。教室に後ろから入って、窓際の自分の席に行く途中、振り返ってその鏡を見ている、そんな場面。
僕の方からは見えないが、かなえ先生が見ていた。
空くんは普段、鏡を見たり、自分の容姿を気にしたりするキャラクターでは無いので、振り返って鏡をみるその姿は、少し意外だった。
空くんは、鏡に映る自分の姿を見ると、なぜか、顔を赤くした。そして、何だろう、その恥ずかしさをごまかすような感じで、やや長く伸びている頭の後側、耳の横の髪を、指でいじりだした。
「髪をいじりながら顔を赤くしてるなんて、まるで女の子みたい。意外、……」
後で、保健室から戻る途中でかなえ先生が言った言葉。
でも可愛かった、すごく、ふふ、と言っていたことも付け加えて置く。
恥ずかしさを持て余して、少し困ったような視線を、鏡に投げかける、そんな感じ。
赤面したまま窓際の自分の席に座ると、空くんは、その赤くなった頬を両方の手のひらでギュっと挟んだ。火照ったほっぺを冷ましたいのだろうか、なるほど可愛い。そしてもう一度、周囲を覗うように後ろを振り返った。
そして向き直ると両手で頬杖を突き、静かに目を閉じた。
少し間があって、やがて開いた目から、涙がポロポロと溢れ出した。
両方の眉の間に切なそうな皺が寄り、目尻が感情の高まりに、歪む。
そして、右手で額にかかった長い前髪をかき上げて、その手で額を支えるようにして、少しの間、静かに泣き続けた。
机の上にこぼれた涙が、小さな水たまりを作る。
ひとしきり泣くと、身体を起して、椅子の背もたれの部分に、その背中をあずけた。そして涙があふれる大きな目と、濡れた頬を夕日に晒して、窓の外の景色を見る。自然と流し目になる。
少し乱れた柔らかそうな髪。
涙に濡れて赤い目元。
きらめき、そしてこぼれそうな瞳。
鮮やかに上気した頬。
淡く色づく濡れたくちびる。
嗚咽にしゃくりあげる喉元と首すじ。
白いシャツの、その少しはだけた胸元。
……エロっ、声が出そうになった。
僕は、呆然と、空くんの姿を見る。
空くんはまだ中学一年生だし、もちろん男の子だ。しかし一瞬息が止まるほどの、ある種の破壊力、とでも言うか、不思議な色気があった。
やっぱり違う。
悩みがあるとか、そういうことじゃない。
終息したかに見えた鳴咽は、しかし再び高まって行き、空くんは何かに耐えかねたように、下を向き、両手で自分の二の腕を掴んだ。自分で自分をきつく抱き締めるような、そんな仕草。目を強く閉じ、眉間にシワを刻み、くちびるを噛み締めたその表情は、胸の内に湧き上がる何かに必死に耐えている、そんな様子だ。そして、突き上げるその感情に耐え切れなくなって、空くんは目を少しだけ開け、すぐにきつく閉じて大量の涙をこぼし、
――何かを言った。
が、声が小さすぎて聞き取れない。
しかし正面から見ていた僕の目には、そのくちびるは、こう読めた。
――「どうしよう」、それから、「いとしい」。
ああ、この子は、そういうことか、だから泣くのか、……
何の前触れも無く、掃除用具用のロッカーが開いた。勢いよく、バーンという音と共に。
えっ、何でこんなタイミングで?……
と思うヒマも無く、かなえ先生がフラフラとした足取りでロッカーから出てきて、
「めっ、目が回る〜」
と言いながら前のめりに倒れ込んだ。ゴンッツ!という大きな硬い音がした。額を机に思いっ切りぶつけたのだ。
「かなえ先生!」
僕は教卓を飛び出した。
びっくりして後ろを向いていた空くんが、同じくびっくりした様子で僕の方を向いた。髪が遠心力で宙に舞うくらいの勢いだ。
自分を抱き締めるかのような姿勢のまま、揺れる前髪の間から覗くこぼれるような瞳は、驚きに見開かれて、まつ毛が
ホントに女の子みたいだな、……
と思った。
「ごめん、目が回って〜、柊木くん、……」
額を強打し、机を抱くような形で
「西村くん、ごめん、目が回っちゃって、……」
睡眠不足で体調が良くない上に、掃除用具入れの中に直立不動でいたのが応えたに違いない。
「かなえ先生、保険室に行こう」
いつの間にか、藤沢さん、が、かなえ先生、になっていた。
「空くん、手伝ってもらってもいい?」
僕は空くんを見て言った。
空くんはうなずいた。
「内出血も無いし、少し休んで大丈夫だったら帰ってもいいですよ」
保健室の先生の勧めに従い、かなえ先生はベッドに横になると、疲れの所為だろう、まあ確かに頭を強打してもいたし、目を
ベッドの横にイスを持って来て座っていた僕は、同じく僕のすぐ横に座っている空くんを見る。空くんの頭を上から見下ろす形になる。少し赤みがかった滑らかな髪。つむじが見える。お日さまの匂い。思わず笑みが浮く。まだ子供なのだ。
珍しい動物を見るかのように、空くんは瞬きもせずに、かなえ先生の寝顔とおでことを交互に見ていたが、僕の視線と笑みに気付き、こちらを見た。
―― 大きな目。
「柊木くん」
僕は話しかける。
「さっき泣いてたよね、あれって、……」
何で?……そう訊こうと思った。男の子に対して、いささか無神経だったかも知れない。
クリアに透きとおった目が、急に、視線を避けるように左右に泳ぎ、
白い頬は、見る間に血色が拡がり、鮮やかに赤く染まる。
小さく閉じられていた口は困ったように、そして言い訳っぽく開いたり閉じたりして、
表情全体が、危うい、羞恥の色に揺れた。
ちょっと泣き出しそうな雰囲気。
至近距離で見る、その羞恥に戸惑う表情と、さざ波立つ
ヤバイ、と思った。
マズイ、とも思った。
だけどそれは、匂い立つような、あまりに儚げで、そして可憐な美しさだったのだ。
ダメだ……、無理やり、僕は自分を取り戻す。
黙ってちゃダメだ、訊かなきゃ、その涙の理由を。
「あれって、……」
何とかそれだけ口にする。
あれって、……
自分から、自発的に、泣いていたんだよね?
悲しいから、苦しいから泣くんじゃなくて、
理由なく湧き上がる情念が抑えきれなくて、
時々その内圧を逃す必要があって、
そして一人っきりの時に、
誰も見ていないところで、
思いっきり、
ただ泣きたくて、泣いていたんだよね?
そして、君はきっと、……
「あれって、……」
しかし、それだけを漸く口にしたところで、
「あのっ!……僕、帰ります」
僕の視線を振り切って下を向き、少し大きな声で、空くんが言う。
「失礼します、……」
そして下を向いたまま、前髪に表情を隠して立ち上がり、席を立った。
いけない、怒らせちゃったみたいだ。
僕も立ち上がる、そして何か言おうと口を開いた瞬間、保健室の扉に手をかけた姿勢で、空くんが振り返る。
―― ドキッ、とした。
今にも泣き出しそうな、こぼれるような瞳に浮かぶ、困惑と、羞恥の色。
少し拗ねたような、小さく閉じられた口元。
赤く上気した頬。
これは、……
僕は思う。のんきかな?
―― 恥ずかしがっている女の子みたいだ、やっぱし。
その表情の中に、拒絶は見えない。
そして、赤い髪をはためかせて、空くんが保健室を後にする。
僕はしばらくの間、立ち尽くす。
「フラれちゃった?」
見るとベッドの上で身体を起こしたかなえ先生が、イタズラっぽい表情でそう問いかける。
髪を掻き上げる白い指と、笑みの浮いた、Uの字形のくちびる。
腕の動きに合わせて、少しだけ動く、やや豊かな胸。
「でもないけど、……」
目をそらして、僕は言う。
「だといいけど、……」
口に手を当てて、かなえ先生は笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます