第3話:空くんの涙の理由1

「西村せんせい」

 休み時間、空くんに話し掛けられてドキっとした。色々気にして調べたり、昨日深夜まで空くんが書いた小説を読んでいたことが、何となく雰囲気でバレたような、そんな気がしたのだ。でも空くんの様子は、戸惑いがちだけど、かなり好意的な雰囲気だった。

「せんせいは、なんで、先生になろうって、思ったんですか?」

 不思議な子、唐突な問いかけ。まあ、子供は何時だってそうだけど。

「えーと、何でそんなこと知りたいの?」

 ――君は何で、「作家」になろうって思ったの?心の中でそんなことを問い返す。

 空くんはちょっと困ったような顔になった。大人に対してそんなこと、簡単に訊いちゃいけなかったかな?とでもいうふうに。一瞬見開かれたハッとするほど大きな瞳はすぐに下を向き、こちらの視線を避けるように左右に泳ぐ。その目蓋と、白い頬の間で揺れる瞳の、その震える小さな光沢を、何時までも見ていたいと思った。

「今まで二十年以上生きてきて」

 目をそらして、僕は口を開いた。

 空くんが目をパッと開いてこちらを向く。

「これ以上やりがいのある仕事が、ちょっと他に、思いつかなかったからだよ」

「へぇ、……」

 小さく口を閉じた空くんの瞳が、まぶしいくらいに輝く。真っすぐ見てられないくらいだ。

「ごめん、答えになってなかったかな?」

「んーん」

 空くんは笑みを浮かべる。色素薄めな淡い色の口元が、何だろう、小さくお椀みたいな形になる。Uの字形。

「ありがとう」

 空くんが言った。そしてぷいっと後を向いて、急に走って行きながら、

「先生になってくれて」

 そう言葉を続けた。好意的ではあるが、不思議な、ちょっと意外な言葉。

 ――え、何?ありがとうって、そっちなの?

 僕は少しの間、空くんの後姿を見送る。彼の表情は分からない。

 ――まだ先生じゃないけどね。

 胸の中で、そう言い返す。

 少し赤みがかった細い髪が、軽そうに上下に跳ねる。

 子供って、やっぱり不思議な生き物だ。


 その日は大学に提出するレポートの作成のため、早めに退勤した。といっても生徒の下校時刻を少し過ぎたくらいの時間だった。

 夕方、と呼ぶにはまだ早い時刻、通学路の脇にある小さな公園で、中学生が三人、話をしているのを見た。当然、うちの学校の生徒だ。二人は女の子で、ベンチに座って何やら騒がしくおしゃべりをしている。そして一人は男の子で、ベンチの横に立って静かに話を聴いている。

 空くんだ。

 女の子の一人は、赤いフチの眼鏡をかけた三つ編みの女の子、雪野こずえちゃんで、どうやら三人とも文芸部の一年生で、クラブ活動の帰りらしかった。藤沢せんせい、という名前も何度か聞こえる。一体何を話しているんだろう?

 黄色い声の、女子二名の雑談に耳を傾けている風だった空くんは、不意に顔を上げ、少し遠くの方を見た。僕がいる方とは反対側の、公園の外の、歩道の辺りだ。

 五月にしてはやや気温が高い日の夕方、黄色い、ミニのワンピースを着た中学三年生くらいの女の子が歩いていた。栗色の、中学生らしいショートヘアで、細くて白い二の腕と、長い脚が印象的だった。ウェストも細くて、というか、身体そのものは子供みたいに小さくて、でも手脚が長いせいで身長はそれなりにあるという、つまり、まるで人形のような造形の女の子だったのだ。


 空くんの視線に釣られるように、こずえちゃんと、もう一人も、その黄色いミニのワンピースの女の子を見る。しかしすぐ視線を戻し、喧しい会話に戻る。空くんだけが、その女の子をじっと継続的に見る。

 あれあれ、空くん?

 女性に対して、ちょっとブシツケなくらいの視線。瞬きすら忘れている。

 僕は目が離せない。

 風にそよぐ空くんの髪の、その隙間から覗く白いおでこと、丸く開いた双眸の、その真剣な眼差し。まるで、何かを見通そうとしている、そんな。

 ――そうか、僕は思い当たる。

 そして、やはり「作家」なんだと、思い知る。

 その瞳は、黄色いワンピースの、その細身の女の子を、実は見ていない。

 もちろん夕焼けを背景に、あまりに若く、儚げで、そして夢に見るような美しさの、その娘の姿を直視してはいる。しかしその視線は、自分の胸の内側に向いている。

 自分の中に沸き起こる何かを、じっと凝視している。

 僕は忘れない。

 夕暮れの風にそよぐ髪の、その淡い色。

 前髪から額に落ちる、その青ざめた影。

 紙背を透す、その透明な眼差し。

 微かに赤い、少し開いた口元。

 夕日の中の、たより無げに立ち尽くすような、しかし何か決意めいたものを秘めている、そんな、少年の立ち姿を。


 これは、藤沢かなえ先生が、文芸部の子から聞いた話だ。

 四月の終わり頃、いつもと同じように女の子二人と空くんの、例の文芸部三人組で下校し、二人が喋り、空くんがそれを聞きながら家路を辿っていた。そして住宅地の外れにあるお寺の前を通り掛かった時、中から黒の礼服を着た十四、五人の人が出て来た。彼等は小さな声で何かを話しながら、そのお寺の前の、砂利が敷いてある狭い駐車場へと歩いている。きっと不幸があったに違いないが、まあ、よくある光景ではある。三人ともちょっと視線を向けたが、気に留めることなく、そのまま行き過ぎる、……ハズだった。


 空くんは、礼服姿の集団よりやや遅れて門から出て来たおばあさんを見た。真っ白な髪で、高齢にも関わらず背筋は真っ直ぐに伸び、そしてキチンと礼服を着こなしている。上品な印象の、背の小さなおばあさんだった。表情はあまり無い。少しぼんやりしている風だ。いや、見ようによっては少し戸惑っている様子にも見える。ご主人を亡くしたのだろうか、身体の正面に、両手で、白い位牌を持っていた。娘さんだろう、中年の女性が横から何か話し掛けているが、おばあさんには聞こえていない様子だった。特に悲しそうな様子も、憔悴している様子も見えないが、或いは突然のことで、やはり少なからず戸惑っているのかも知れなかった。少なくとも三人には、そういう風に見えた。


 ここから先の空くんの反応は、かなり激しくて、意外、を通り越して、理解不能、と呼べるものかも知れない。視点を変えれば、異常な精神性の発現、そういう種類の問題かも知れない。しかし、文学に携わる者として、僕はそれを「才能」と呼びたい。


 まっすぐに、そして透き通るような例の瞳を丸く開いて、空くんは、そのおばあさんを見ていた、と思う。 思う、と書いたのは、現場にいた証言者二名が、話に夢中で空くんの方を見ていなかったからだ。しかし、空くんには直前まで、特に、普段と変わった様子は無かったそうだ。


「あっ、……」

 空くんが小さく声を上げた。

 二人は空くんの方を見る。

 目を大きく見開き、驚いたような眼差し。

 その眼差しの先には、さっきの、泣いても笑ってもいない、あのおばあさんがいる。

 空くんの表情には、「驚き」以外の感情は無かった。「!」マークだけが大きく印字された、真っ白なコピー用紙、そんな表情。

 瞬きが止まった。

 そして驚きの色を漲らせたその二つの目から、急に涙が、ボロボロと溢れ出した。

 何の前触れも無く、感情に表情が曇るよりも先に、溢れた。

「あっ、あっ、……」

 大粒の涙が頬をすべり落ち、あごの先から流れ落ちる。

 それにすら気付かない様子の空くんは、何かを訴えるように口を大きく開ける。

 震えるくちびる、しかし意味を伴わない声しか出すことが出来ない。

「あっ、あっ、……」

 空くんは両手をそのおばあさんに向かって上げ、そして駆け出そうとするかのように、その場で少し、足踏みをしかけた。

 こずえちゃんと、もう一人も、そんな空くんを今まで一度も見たことが無かった。

 そして、その足踏みが止まったと思ったら、

「あっ、あっ、あーっ!……」

 空くんは大声で泣き出した。

 完全に常軌を逸した、異常な反応だった。

 礼服姿の人達の大半はすでに何台かの車に乗り込み、距離も離れていたため、声を上げて泣く中学生に気付く人はいない。高齢のおばあさんは、もちろん気付くことなく、少し困った表情のまま、娘さんに手を取られながら車に乗り込む。

「空くんっ!ねえっ、……、空くん?」

 二人は怖くなり、必死で空くんに声を掛ける。

「うううっ、うううっ!ゲホッ、ぐっ!……」

 口から唾液を垂れ流して号泣し、その激しさに息も絶え絶えとなる。

「ハッ、ハッ、……」

 空くんは、一瞬だけ泣き止むと、下を向き、両手を返して、その手のひらを見た。

 そして、まるで手のひらに何か書いてあって、それを読んで絶望したかのように、

「あああ、あああっ!……」

 と情けなく声を震わせ、

 悲しみ、というよりは「怖れ」に近い色を、その瞳に漲らせた。

 そして涙を、目から地面に直接滴らせながら、

 見ていた両手を交差させ、自分の胸を強く掴み、

「くっ、苦しいーーーっ!」

 と声を枯らして泣き叫んだ。

 そして、ひざまづいた。

「空くんっ!どうしたの?……ねえっ、空くん!」

「ガハッ、ぐっ!はあっ、はあっ、……」

 号泣が激しすぎて空くんは少しえずく。

 しかしすぐに、

「あー、あー、……」

 と泣き崩れ、力尽きて、ひざまづいた状態から地面に頭から倒れ込んだ。

 そして、そのまま暫く泣き続けた。


 後で空くんは、二人にこう話したという。


 ――おばあさんの中に、十一歳くらいの女の子がいるような気がして、見た目はおばあさんなんだけど、着ぐるみに入っているみたいに、本当は十一歳くらいの女の子なんだ。そう思ったら、その女の子は、厳しくしつけられたまじめな女の子なんだけど、でもまだ子供なんだ、「本当は」子供なんだ、誰だってそうだよ、そして急に、ほんとに急に、大切な人がいきなりいなくなって、それがすごく悲しくて、かわいそうでたまらなくて、どうしていいか分らなくて、すごく戸惑っていて、泣く事もできなくて、でも本当はすごく怖くて、その気持が見えるような気がして、それが分ったら、いても立ってもいられなくなって、……
































































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