第7話 土曜日。センセーの白昼夢。


土曜日。センセーの白昼夢。

傷つけられたら傷つけ返せばいい。そんな考え方で俺は今までいったいどれくらいの人を傷つけて生きてきたのだろうか、と深雪たちと出会ってからそんなことをよく考える。傷ついた分だけ優しくなれるなんて、嘘だと思っていた。綺麗ごとだと思っていた。それなのに、深雪たちは心の奥にたくさんの傷を受けて、それでも優しさを返そうとする。その優しさにいつの間にか俺の方が救われていたことに後になっていつも気づく。そして、なぜか無償に泣きそうになるんだった。


「お兄ちゃん、ちょっと出かけてくるね。」

ドアのすぐ前から聞こえてきた声に読みかけのページにしおりを挟み、回転式の椅子を回して振り返る。

「どこ行くんだ?詞も一緒か?」

そう問いかければ、少しだけ扉が合いいてそこから深雪が頭を少しだけ出す。その顔がすぐに引っ込んで変わりにぴょんと嬉しそうな小さな手が出てくる。

「一駅向こうの本屋さんまで。詞は、まだ寝てるよ。見て、これ。りんじしゅーにゅー」

「!!」

ぱたぱたと揺れるのは、五千円札。そんなまさか、と思いつつカバンから慌てて財布を取り出して中身を確認する。大きく開いたくたびれた財布には、昨日お小遣い用の花瓶に入れたはずの千円が残っていた。

「これで欲しかったCDと新しいDVDを買うんだー」「あー、そうなんだー。あの、でもね、深雪・・」「じゃぁ、いってきまーす!!!」

元気な妹の声を聞きながら俺の体は机に沈んでしまいそうです。あぁ、俺だって欲しい本があったのよ。買いたいDVDもあったのよ、深雪ちゃん。

「あー。あと二週間は、千円で過ごすのか。」

きっかけはなんだったかは、覚えていないが深雪と詞のお小遣いは毎月いくらと決めて渡しているわけではない。リビングにある大きな壷の中に俺が適当に入れたお金を二人が必要なときに必要な額だけ取っていくのだ。毎月二人は決まった額を欲しがらないし、勉強や生活に必要なものは一緒に買い物に行ったときに買うのでそんなにお金に困っていないのだろうが、月に一回ほど必ずこんな事故が起きて、俺だけが切なくなったりする。そして、その度に思う。

「やっぱり定額制にしようかな。」

そのほうが絶対に正常で良いに決まっている、俺が。

「あーあー」

本の続きを読む気にもなれずに、そのまま机に沈み込んでいく。このまま机と一体化してしまいたい気もするが、落ち込んでいても五千円が帰ってくるわけ帰ってくるわけでもない。それにしても深雪の欲しいDVDって何だろう。まさか、また例の旅番組だろうか。あんな風景だけのDVDの何が楽しいのか、俺にはよく理解できない。いつか世界遺産に連れて行ってやらないといけないかもしれない。そうじゃないと、深雪の部屋は世界遺産で埋め尽くされてしまうかもしれない。そんなことを思うと少し涙が出そうになる。

「せめて、アイドルのDVDにしてくれ。」

他の男に魂を奪われる深雪を見たくはないけれど、けれど一応年頃の女の子なんだから、せめて女の子らしくしてほしいと思うのは、兄として当然の感情だ。

「もう、いや。」

机に突っ伏したまま、目を閉じた。


「お兄ちゃん・・あの。今、大丈夫ですか?」

扉越しに聞こえてきた小さな声に、読んでいた本を閉じた。

「うん。どうした?」

「・・たいしたことじゃ、ないんですけど・・」

小さく消えてしまいそうな声は、まるで声の主のようだ。いつも怯えて、けれどどこか反抗的で、何かに震えている。どんなに呼んでも笑っていても、決して自分からはこちらになんて来ない。手を伸ばしても、その手を見つめているだけ。

まるで・・

「・・今は、暇だから。大丈夫だよ。どうしたの?」

扉のすぐ近くまでゆっくりと音を立てないように歩いていく。ドアノブには、手をかけないで、そっと扉に背を預けた。ひんやりとした温度が、背中に伝わる。これが、俺と彼女の適切な距離だ。

「・・・明日・・さ。」

「うん。」

「・・・学校、ね・・」

「・・うん。」

一瞬だけ、返事が遅れた。それだけで冷たい扉の向こうの冷たい廊下が、シンとして何も聞こえなくなる。小さく迷うような気配だけが、扉越しに背中に伝わる。

「・・お兄ちゃん、あのね・・・・あ・・・」

泣けばいいのに。そう思った。唇を噛んで、必死に涙を堪えて言葉を搾り出すくらいなら。抱きしめてやりたいと、思った。何もかもに怯えている小さな妹を、大丈夫だから。と力いっぱい抱きしめてやりたいと思った。

「・・深雪、お兄ちゃんさ・・深雪の味方になりたいんだけど。」

ビクリ、大きな暗闇の中で彼女の何かが大きく震えた。そんな風に扉の向こうで立ち竦まないで欲しい。何が怖いのか。何が欲しいのか。何が、君なのか。俺は何もわからないから、だけど・・俺は、何でも、わかってあげたい。

「・・・、・・・。」

「だから、味方になるにはどうしたらいいか・・俺に、教えてくれない?」

今までも、これからも。全部、含めて一緒にいるから。どんなに苦しくても、悲しくても、全部、全部、抱きしめるから。逃げたりなんて、しないから。一人で何もかもをあきらめたりしないで。失くしてしまおうとしないで。その小さな手を、開けて見せて。

「俺に・・・教えてよ・・・深雪。」

泣いてもいい。叫んでもいい。怒鳴って殴ってもいい。どんな形でもいいから、君の心の中に、少しだけでいいから、俺を・・入れてみて。

「・・お兄ちゃん・・」

胸のどこかが苦しくて、チクチクと痛んだ。気づけば勝手に、涙ばかりがこぼれていた。自分の方が、泣いてしまうなんてバカみたいだと思ったけど、それでも止まらないのだから、仕方が無い。

「・・お兄ちゃん、ごめんね。」

今、扉を開けなくてはいけない。そうでなければ、彼女はまた、どこかへ行ってしまう。傷つけたくなくて、迷惑をかけたくなくて。そんな言い訳をして、必死に殻に篭って、無かったことにして。それでも、こうして期待して手を少しだけ・・伸ばしてくる。

「・・深雪っ」

重い扉を開いて、その小さな背中に、手を伸ばした。

入ってもいいですか。心の奥に向かって、大声で叫んでみた。

入れてもいいよね。心のあちこちで、小さな声が囁いた。

もう、終わりにしましょう。背中を誰かに押された。

ここから、始まりますから。目の前で君が、笑ってくれた。

だから、その胸に飛び込んでみることに、した。


「君はいつまでそうしてるつもり?」

ぽろりと口から零れた言葉に目の前で壁に体を預けていた青年はゆっくりと少しだけ顔を上げて俺を見た。

「何、アンタ。」

聞いているけど、訊いているわけじゃない声が静かに響く暗闇の中で大きく鋭い目だけがギラギラと光っている。

「食べる?肉まん。・・それとも、ずっと“そこ”にいる?」

深雪に食べたいと言われたあんまんと詞のリクエストであるピザまんは出さずに、金色の髪の青年に尋ねる。彼はやはりギラギラとした瞳で俺を見つめていた。

「カンケーないだろ、目障りなんだよ。」

吐き捨てるようにそう言って彼は立ち上がる。ふらり、ふらりと体が不安定に揺れる。

「ずっとそうしていたいわけじゃないでしょう。こっちに行きたいなら、少し勇気を出さないといけないけど。」

そうしているよりは、マシだと思うよ。言った途端に胸ぐらをぐっと掴まれて、目の前にギラギラと光る瞳が見えた。

「わかったような口、利くな!!」

ギラギラ、ギラギラ、その瞳は怯えと悲しみを混ぜて、あきらめを少しトッピングした色だった。その色を、俺はよく知っている。

「そうやって伸ばされた手をいつまで拒んでいるつもり?いつまでも、逃げるつもり?」

逃げていた方が、楽かもしれない。傷つかないようにいつでも何よりも遠くにいる。けど、それじゃあ結局、

「同じ所をぐるぐる回るのは、もう止めにしなって。」

何かを言おうと口を開いて目を動かす。俺なら手を貸すよ。一人抱えるのも、二人抱えるのも、何なら十人だってもう平気。君が自分でここにくるなら、俺はいつでも受け止めるから。

「・・俺は、アンタたちとは、違うっ!!」

「そりゃ、そーでしょ。人間だもん。みんな違うよ。同じだったらむしろ、おかしいよ。」

違うのが怖くて辛いんなら、心配ない。違うことに気づかない方が心配だよ。だから、誰かにそれをわかってほしくて気づいてほしいなら、大きな声で叫んでみて。小さい声じゃ聞き漏らしちゃうから、なるべく大声で。そして、手を伸ばしてみてよ、全てに絶望するにはまだまだ早すぎるから。

「・・、」

泣いて、叫んで、怒って、笑ってよ。何もない方がいいなんて、全部失くしちゃうなんてもったいないから。

「おいでよ、こっちに。」

俺よりもずっと大きな体を優しく柔らかく抱きしめた。小さく聞こえてくる泣き声に合わせて背中をそっと叩く。

もういいんじゃない。心の奥に向かって、大声で叫んでみた。

もういいよね。心のあちこちで、小さな声が囁いた。

重いなら全部、降ろしちゃえよ。背中を誰かに押された。

それで全部、背負いなおそう。目の前で君が、笑ってくれた。

だから、その胸に飛び込んでみることに、した。


ゆっくりと目を開けると、ぼんやりとした視界に慣れた部屋の間取りが映る。夢と現の間でさ迷う意識の中でさっきの夢が懐かしい記憶だったことを思い出して、その原因であろう声がまだ半分眠っている耳に入ったり来たりを繰り返す。あの頃と比べてずいぶんと優しい声を出すようになったレオと少しだけ自信をつけたのか楽しそうな声で笑うようになった深雪の声が、心地よく響く。

「・・・?」

しかし、聞こえてきていた声がだんだんとどこか緊張感と警戒心を帯びて、それに合わせてもう一つ。聞いたことのない声が、聞こえてくる。

「誰の、声だ?」「センセー!!大変なんだ!!あぁ、もうなんで寝てるんだよ!!」

バタンと慌てたように扉が開いて、詞が飛び込んでくる。突っ伏して寝ていた机からゆっくりと顔を上げ、時計を見ればいつの間にか午後になっていた。どうりで日の光の入り方が違うと思った。と、見たカーテンに揺れる影が三つ。

「何なに?詞くん、どうしたの~」「ふざけてる場合じゃない。外でレオと深雪が!!」

声変わり独特の掠れた声で詞は叫ぶ。それが何を伝えたいのか、よくはわからないが何か危険を感じているということはわかった。詞の後ろについて部屋を出る。玄関に近づくにつれて聞こえてくる声は、事態が正常ではないことを告げている。

「っわ?!」「ムック!危ない!!」

扉を開けた途端に聞こえてくる少女の叫び声と、それから一瞬の眩しさの後にぼんやりと見えてくる。

「リオ!深雪!!」

パサリ、静かにゆっくりと理央の金色の髪が一房、地面に落ちていく。留め具を失った髪の毛はふんわりと風になびいて広がり、首の辺りで舞ったあと優美にしぼんで止まる。その腕の中で深雪が怯えたように体を縮こまらせている。ぎゅうっとまるで守るように理央に抱きかかえられた深雪は、恐る恐る目を開けた。

「レオ!!」「何で?何でよ!!」

深雪の泣き声とすぐそばにいた少女のかなきり声が重なる。理央の背中に向き合うようにしてカッターナイフを持った小柄な少女は、泣きそうな顔をしたまま、なんでよ。と繰り返している。

「わぁ、びびったぁ。ムック、大丈夫だった?」

「うん、うん、レオこそ。大丈夫?」

「あぁ、俺は全然へーき。あーちょっと、髪が短くなっちゃったくらい?」

にこーっといつもの懐こい笑顔を浮かべたレオに安心したのか、深雪も少しだけ笑う。それを見ていた少女が、更に声を大きくして叫ぶ。

「何でよ!何で私じゃないのっ。」

俺の後ろから飛び出した詞がすぐに深雪に駆け寄る。ゆっくりと俺はレオの隣に並んだ。どうやらどこも怪我はしていないらしい。目の前にいる少女は深雪と同じくらいの身長で同じくらいの年に見えた。

「私は、ちゃんと毎日学校にも行っているの。嫌いな子とも好きな子とも平等に付き合っているの。先生にだって褒められているわ。なのに、それなのになんであなたみたいな子に。好きな時間にふらっと学校に行って帰って、家でやりたい放題いろんなことをしているだけの子に。あなたみたいな社会のおまけみたいな子にっ」

ぽたぽたと少女の瞳から光の種が落ちる。それを深雪は何の感情もない瞳で見つめていた。”やりたい放題“”社会のおまけ“そんな言葉を深雪は何人もの人に何度も言われてきたのだった。傍から見れば深雪のしていることはサボりでしかないし、わがままで自分勝手な子なのだ。けれどその言葉を投げる人々全てが誰も深雪の心の中を覗いたわけでもないし、知ろうともしていない。自分が深雪に刺した言葉が深雪の中で消化されずにどんどんと深く深く溜まっていって消えなくて、どんなに悲しみが詰まっているのかも知らずに、学校での明るい笑顔だけを見て、大丈夫ですよ、と当たり前の答えを出したがる。

「私は、あなたよりも何倍も努力しているの。成績だって、外見だって、友達付き合いだって、必死に必死にやっているの。なのに、なんで何もしないで努力もしないあなたが、そんな風にたくさんの王子様に守られているのよ。獅子澤くんだって、高山君だって、私の方が先に理解しようとしたのに!!守ってほしいのは、私の方なのにっ!!」

体中を震わせて、体全体を使って、体に渦巻く負の感情を吐き出す少女はまるで歪で、なのにその歪さがどこか美しくも見えた。地面に落ちたレオの髪がキラキラと光っているのを見て、思い出すのはさっきの懐かしい夢。

(あぁ、そうか。)

心の中でパズルのピースが揃っていく。目の前の彼女はあの頃のレオと良く似ているんだ。誰にもいえない思いを抱えて、それでも必死にそれが正しいと思おうとする。

「つまり、君は深雪に嫉妬している、ということだね。」

「まぁ、簡単に言えばそうなるかもね。だいたいにして、俺とツキと同じクラスの子だし。」

詞にレオも頷いて、けれど深雪だけは相変わらずほとんど感情がない目で泣きじゃくる少女を見ている。

「でも、なんでムックなわけ?クラスの他の女子だって、ツキと仲いい子いっぱいいるのに。」

「この子さえ、この子がいいなくなれば、そうすれば葉月君は私を見てくれるんだから!この子がいるから、葉月くんは、」

「あぁ、なんだ。結局、そっちね。俺は、それこそおまけですか・・はは。」

泣いていた彼女の体にぐっと力が入る。それを見たレオがさり気なく深雪を背に庇う。その様子を少しだけ離れた場所で、ツキが見ていた。その瞳には、驚きとそれから今までツキの瞳に宿ったことのない色をしていた。

「あなたさえ、いなくなればっ!!」「ムックは、関係ない。それに例えムックがいなくなったとしても、俺は君を好きになったりしない。」

低い声が静かに響いて、全員の動きが一瞬だけ止まる。鬼のような形相で深雪を睨んでいた少女が声の主を見たまま、動きを止めた。

「・・葉月、くん、」

「まさか、俺が原因だとは思わなかった。あれだけからかって騒いでおいて。恥ずかしすぎるな。」

葉月の口からぽんぽんと飛び出す声は不気味なほど楽しそうなのに、顔は表情を変えずに少女を見つめている。この場に似合わないほどゆっくりとした動きで葉月は、深雪の横に並び、一瞬だけ深雪を見た後、また一歩前に出た。

「あ、は、葉月くんが、この子が、悪いから。騙されているから、だから、私っ、私は葉月くんのためにっ」

必死に口を動かして、少女は青から赤に顔を染めて葉月に訴える。葉月はしばらく黙って少女の話を聞いていたが、やはりその顔に感情はない。

「わ、わたしね、あの日からずっと葉月くんのことが好きなの。だから、私は葉月くんがこっちを見てくれるようにって、必死で。だから、葉月くんのためにっ、」

満足そうな顔をして、少女はさっきまでカッターナイフを握り締めていた手を軽く重ねる。まるで体育館裏で告白でもしているかのようだった。

「なるほどな。・・君、火野さんだよね。君の言いたいことはわかった。だけど俺はこんなこと望んでないし、君のことはただのクラスメートとしか思っていない。それにあの日とか、ムックが悪いとか、ほとんど意味がわかんないんだけど。」

葉月は相変わらず無表情のまま、ただ瞳だけは真っ直ぐに少女を見つめて、言葉を出す。

「そ、それは、あの子に騙されているからっ、」

「別に騙されていないけど。それよりも、もし俺がムックのことが好きって気持ちが騙されているから生まれる感情だとしたら、君も俺に騙されているってことだろ?つまり、君は俺を、消さなくちゃいけない。」

じっと視線を逸らさずに、ツキはいつものように淡々と言った。

少女は一瞬だけ表情を凍りつかせて、それから泣き顔や笑顔やら色々な感情が混ざり合った表情を浮かべて、葉月から一歩下がった。

「な、なんでそんなこと言うの?だって、あの日から、私は毎日葉月くんを見て、幸せでそれなのに。葉月くんは全然私の方を見てくれなくて。だから、」

「あのさ、それって結局は、ただ単純にムックに嫉妬してるってことだろ。」

葉月の顔にイラつきが表れた。どうして伝わらないのか、と目つきが鋭く尖る。葉月の言葉は真っ直ぐすぎる。いつだか、理央はそう言っていた。まっすぐすぎて相手の心に深く突き刺さるのだ。

「葉月くん、怒ってるの?何で、今日はそんなに冷たいこと言うの?いつもなら、もっと明るくて笑ってて、そんなに冷たいこと、言わないのに。」

「いや、それ俺じゃないけど。」

そう葉月が言ったきり、誰も言葉を発しなくなった。シンと静まり返った家の前で、ただただ少女が葉月を見つめたまま、瞬きもせずに。

 葉月が悪いわけでもない。少女が悪いわけでもない。深雪が悪いわけでもない。誰が悪いわけでもない。なのに、どこかでズレてしまったパズルのピースが間違ったまま形を作っていつの間にか全く違う絵が完成してしまった。これが正解ではないと知りながらも、正しいんだと必死に思い込ませて、額に入れて。それを違うと指摘されるのが怖くて、誰にも見せないでいた。少女だっていつからかわかっていたはずだ。葉月が、自分のことを覚えていないことを。誰にでもあんな風に優しいふりをしていることを。それが許せないのに見えないふりをして、変わりの何かを探して、それがただ単純に深雪だっただけのことだった。深雪は、葉月のそのままを見ていたし、葉月は深雪のそのままを好きだった。

「ツキ、そんな風に言わないであげてよ。」

小さな声が、ツキの後ろから聞こえてきた。それは深雪の声だと、この場にいた誰もがわかった。深雪はまた、傷つけようと刺された刃を優しさで返そうとするのだろう。

「その子、ツキのこと大好きなんでしょ。ツキだって、その子のこと友だちだって思ってるんでしょ。だったら、もっと・・もっとちゃんと答えてあげてよ。そんな風に言うのは、ずるいよ。ツキは、ずるい。ツキはずるいよ!」

深雪の言葉に葉月は、ほんの少し口の端を緩めた。少し前に出た深雪を理央はそっと抱き寄せて抑えた。少女は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、深雪を見つめていた。

「何、ムック。それ、どういう意味?俺が、悪いってこと?」

「悪いとか、悪くないとか、そんなんじゃない。ツキは、その子の気持ちに向き合うのが怖いだけだよ。自分の感情を表に出すのが怖いだけだよ。好きなら好きっていえばいい。嫌いなら、嫌いって言えばいい。言わないで曖昧にしてるなんてずるいよ。ツキは、ツキは、もっとちゃんと周りを見るべきだもん。レオがどんなにツキのこと大事に思っているか、どんなに大切な存在だって思ってるか知ってるくせに知らないふりして。ツキだって、ツキだってレオと一緒にいたいくせに。なんでもっとちゃんと言ってくれないの?なんでレオにも言ってあげないの!レオは、レオは、」

次々涙を零しながら、レオの腕に押さえられながら深雪は必死に言葉を吐き出す。上手く伝えられない思いを涙で流しながら、伝わるようにと言葉を組み立てることもせずに。何かを失くしてしまった子供のように息を吐き出す暇もなく。そんな深雪を理央は、優しく見つめて、そっと抱きしめた。大きな体がまるでライオンのように優雅に曲がり、弧を描く。

「ありがと、ムック。俺、ムックのこと大好き。」

「うっ、ひっく、レオが、レオがちゃんと言わないからっ、」

「うん、わかってる。ごめん、ムック。」

ぎゅっと抱きしめた腕をそっと放して理央は、葉月に向き合う。そうして強く握り締めた拳を葉月に向かって振り出した。

「っ!?」

ドダンと大きな音を立てて葉月の体が地面に転がる。少女は突然のことに目をパチクリとさせるだけで、起き上がった葉月の体には理央の金色の髪がついていた。

「俺、お前が便利な奴だと思ってた。何言っても、何しても誰にも何も言わないし。女みたいに弱いし。けど、今は違うよ。俺、お前のこと大っ好きだ。この先もずっと一緒にいたいし、友達でいたいと思ってる。けど、お前がもしそうじゃないなら。俺とは高校までで決別したいっていうなら、俺は何も言わない。俺はお前を追いかけたりはしない。だから、はっきり言えよ。俺は、どんなこと言われても、どんなことされても、お前から逃げたりしない。お前じゃないお前なんて夢見たりしてない。どんなお前も、お前だって知ってる。だから、」

葉月の顔が、ほんの少し揺れた。涼やかな口元に薄っすらと血が滲んで、けれどそれすら気にならないように葉月は、ゆっくりと柔らかく笑った。瞳から悲しみとは違う涙を流しながら、笑っていた。

「な、んだよ。それ、バカじゃないのか。」

「そーだよ、俺はバカなの。葉月だって、知ってるだろ。」

「知ってるよ。だから、だから、言えなかった。今でさえ、学校の勉強についてこられないお前に、もっと上の大学に行きたいけどついてこれるか。なんて、言えるわけないだろ。俺は、父さんの望み通りの大学に行く。それだけしか理由がないのに、そこにお前を巻き込むなんてしたくなかった。感情のないマリオネットは、俺だけで十分だろ。」

 君のことなんて、はじめから大好きだった。ずっと一緒にいたいと思った。君となら、どんな場所でだってやっていけると思っていた。だけど、君もそうだとは思えなくて、思いたくなくて、どうしても怖くて怖くて。

「ツキ、」

言ってほしかった。言いたくなかった。お互いを思いあうから、必死に遠慮して。未来なんて空虚な箱だと思うけれど、キラキラと光って僕たちを魅了するから。

「・・難しいな、トモダチって。」

「本当、そのとーりだよ。」

ため息を吐いて、葉月は立ち上がると少女に手を伸ばした。一瞬、驚いた顔をしていた少女に葉月はいつもどおりの優しい笑顔を浮かべて、呟いた。

「ごめんね、火野さん。俺、こういう人間なんだ。・・もし、それでも良いって言うなら、友達になってくれる?俺、やっぱりムックが好きだから。友達として、そばにいてくれる?」

「・・・葉月くん、」

さっきと同じように顔を赤く染めたまま、少女は少しだけはにかんだように笑った。それから、慌ててカッターを手放して葉月の手を握った。頬に残る涙の跡が、幻のように。

「・・え、あれ。今、ツキ・・なんて言った?」「深雪のことが好きだ、と言っていたようだ。」「え・・・えぇぇっ!?」

家まで送る、と少女と歩き出した葉月の背中を見送りながら、深雪が思い出したように慌てる。それを見ていた詞は、面白くなさそうに呟くとすぐ隣に並んできた理央を睨む。

「しかも、由香さんというものがありながら、レオまで告白とはね。」「あぁ、あれは・・ほら、なんていうの。場のノリ?みたいな。・・あ、でも、本気だよ。俺、本当にムックのこと大好きだからね。」

そう言いながら、理央は優しく深雪の頭を撫でた。それを見ている詞はどこか不機嫌な顔をしながらも、そんなに嫌じゃない自分がいることに驚いていた。

「それにしても、深雪はモテるねぇ。ライバルだらけだなんて、戦い甲斐があるよ。」

「え?どういう意味?」

「うわぁ、本当に。ムックってばモテモテじゃーん。あれ、確かニャースもムックのこと好きでなかった?」「あぁ、そういえばそうかもしれない。」

「えぇ?!ほ、本当に!??」

ぼわっと頬だけでなく顔まで赤く染めた深雪を理央が優しい笑顔で見つめている。

「うちのかわいー妹がモテるのは当たり前といえば当たり前だけど、そんなに身内に敵がたくさんいるのも考えものだなぁ。もしかしたら、将来この中の誰かが弟になるのかぁ。」

考えたくもないと思いながらも、それでもいいかな。深雪が幸せなら、なんて考えながら

「いやぁ、それにしても今週はかなり濃密な一週間だったねぇ、諸君。今週の学級日誌はとても楽しみだよ。」「げー忘れてた。」「僕は書かないよ。」「私、もう書いたよ。」

こんな日々が、いつまでも続いてくれればいい、と思う騒がしかった週の終わり土曜日でした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る