第6話 金曜日。Qちゃんの深層心理。


金曜日。Qちゃんの深層心理。

詞の世界に大切なものなんて存在しなかった。移りゆく季節に色なんてなかったし、全ての日々に意味も理由もなかった。それらは、ただ流れていくだけで均等だった。

ずっと初めからそうだったような気がするし、最初はもっと違っていたような気もする。

詞は夜の闇が嫌いではない。一人で過ごすのであれば、昼でも夜でも大した違いはないからだ。ただ、暗くて辞書が読めないだけだった。

「・・おかしいな。」

だが、今日の闇はなんだか心地が悪い。なんとも言えない感情がぐるぐると心の中を駆け回り神経を敏感にさせている。

「怯えて、いるのか?僕が、」

人の気配がして目を覚ましたのだった。寝返りを打って、壁にある大きな時計を見ればまだ朝方で空が白くなりかけているところだった。

「何か、いるのか・・?」

そんなはずはないと思いながらも、闇の中に何かがいるような感覚がして。体を動かすことができない。ため息を吐いて、詞は大きすぎるキングサイズのベッドの上を転がる。夕べ読みかけたままだった辞書が時々体の下に入り込んで痛い。

台所まで水を飲みに行こう。そう心に決めて、ゆっくりとベッドから起きる。人の気配を探りながら隣の部屋の深雪を起こさないように静かに階段を下りる。

「・・・?」

不意に目をやったカーテンが揺れる。外で人の影が、動く。庭に誰かいるのか?こんな時間に?

素足で一歩ずつカーテンに近づく。ぺたりぺたり、フローリングが音を立てる。それがやけに静かな部屋に響いて不気味に聞こえる。

「っ!!」

意を決して一気にカーテンを開けた。しかし、そこには何もおらずなぜかひらひらと桃色のハンカチが舞っている。次々と、空から。

「・・まさか、」

『詞くんを逃がさないって、言ったでしょう。まさか、忘れちゃったの?』

くすくすと耳元で囁くような声がした。びくりと震えながら詞が振り向いた。そこは、さっきまでの温かいリビングではなかった。思い出すこともないと思っていたあの真っ白でただただ広い、閉鎖的なあの部屋だった。

「まさか、そんな・・」

足音がしてきた。ざわざわと声がする。詞は、小さな体を震わせた。部屋と同じ真っ白な服が大きすぎて上手く走れない。けれど、早く逃げなければ。奴らが、

「いやだ、いやだ。やめてくれぇぇっ!!」

耳をふさいだ。目を堅く閉じた。そうして縮こまるようにしゃがみこんだ。

笑い声が、響いてくる。


「・・夢、か。」

汗をびっしょりと掻いていた。瞬きを数回繰り返してようやく夢だったのだと実感する。最悪の悪夢だ。首を数回、振ってから立ち上がる。壁に埋め込まれた大きな時計を見れば、もうとっくに朝ごはんの時間になっている。

「あ、詞。おはよう。」

「詞。今日は随分と遅いお目覚めだな。おかげで俺が新聞取りに行ったぞ。」

階段を下りれば、もう二人はそこにいて。いつものように温かい笑顔があった。

「あぁ、少し寝坊してしまったんだ。すまない。」

台所に置かれた机と椅子。並べられた椅子は、三つとも違う種類なのは一つずつ買い揃えたためで、それぞれ誰の椅子なのかは決まっている。

「詞、今日はパン?それともごはん?」

至ってシンプルなダイニングチェアから立ち上がった深雪が冷蔵庫へと歩く。それを横目で見ながら、センセーは椅子とくるくると回転させる。

「いや、僕は昨日の残りのサラダでいい。」

背もたれと肘置きが、一体化した箱のような椅子に座りながら詞が言って机の上の牛乳へと手を伸ばした。

「あ、そうだ。深雪、今日は俺が学校まえ迎えに行こう。遠くのスーパーに少々用事があるんだ。」

深雪は深めのサラダボールに入ったサラダを出して机に置きながら、首を振る。

「いーってば、なんか恥ずかしいよ。」

「けど、もしかしたら今日こそ、襲ってくるかもしれないだろう。」

「だから、あれは」「迎えにきてもらうべきだ。何かあってからでは遅すぎる。」

自分で出すつもりだった声よりもずっと強い声が出たことに自分でも少し驚いた。一瞬、頭を今朝の夢が過ぎったからだろう。

「そう、かな?」

困ったように、驚いたように、ムックは笑ってそれからまた困ったようにセンセーを見た。

「どうしようか、お兄ちゃん。」

「とりあえず、お風呂!!・・じゃない。妹のあまりの可愛さに一瞬、間違っちゃった。」

この男は本当に人間としてどうなんだろうか、と思いながらももうこれ以上、何も言うこともないだろうと、詞はサラダを食べることに集中することにした。

「お兄ちゃん、お風呂入りたいの?沸かす?」

「ううん。そういうことじゃないんだ。深雪、今の発言は忘れてくれてかまわない。と、いうかお願いだから忘れてくれ。」


僕にとって深雪は、どんな存在だろうか。部屋に戻り今日読む辞書を放物線上に並べて考える。何十種という辞書が部屋の本棚にはあるが、そこのどれにもしっくりとあてはまる言葉はなかった。

「今日は、数学辞典にしよう。」

半円の一番端にあった青色の表紙を手に取る。ズシリと手にかかる重さが何か心地いい。

「詞、行って来るねー」「あぁ!気をつけて!!」

下の階の玄関から聞こえた声に玄関まで届くくらい大きな声で叫んだ。時計を見れば、もう十一時。なるほど、今日はずいぶんと遅い出勤だ。本当に深雪は自由だ。いや、彼女は自由であろうとしているんだ。何にも縛られず、気にせずに、捕らわれないようにしている。その努力は素晴らしいが、僕から見ればそれこそが、‘自由‘というものに縛られているように見えた。人は何かを考え、感じて生きているだけで、もう何かに縛られて捕らわれているのだと僕は思う。


「そういえば、レポート用紙を切らせているのだった。」

昼を過ぎた頃、空腹を覚えて下に下りたときに思い出した。ちょうど昼ごはんを探していたので仕方がないからスーパーまで行くことにする。

「ついでに、チョコレートでも買おう。」

お小遣い用と書かれた壷の中に入っていた千円札を見つけた詞は、嬉しそうに玄関へと向かう。この家では、お小遣いはセンセーが時々財布の中身を入れる壷から各自必要なときに必要な分をとっていく方式なのだ。

「これは、きっとセンセーが酔っていたときに入れたんだろう。少し遠くまで行こう。」


「あれ。君は確か。理央くんが行っているF組の。」「あなたは・・平 由香さん。確か、レオの恋人さんですね。」

長い髪が無防備に降ろされて風に舞っていた。大きな瞳が優しく細められて僕を見ている。こんなところでこんな人に会うなんて、少し遠くのパン屋までお気に入りのサンドイッチセットを求めて歩いたせいか。

「そうそう、Qちゃんくんだっけ?理央くんがいつも勉強を教わっているみたいで。ありがとうね。」

「いえ、別に。僕よりツキの方がよく教えていますし。それよりも由香さん今日はお休みですか?」

こんな時間に誰かと会うなんてことは滅多にない。あったとしても、学校を早引きしてきた深雪か、さぼってふらふらしているレオくらいだ。

「ううん。今は、お昼休み。時間が結構あるから、ちょっと足を伸ばして美味しいって評判のここのパン屋に買いに来たの。」

「なるほど、確かにここのサンドイッチとクリームパンは絶品です。パン嫌いの深雪でさえも、月に一度は食べますから。」

「へぇ。やっぱり。・・あれ、深雪ちゃんって彼女さんかな?」

隣に並んで歩き出せば、由香さんは嬉しそうに笑って。けれど言われた言葉に僕は一瞬言葉に詰まる。

「いえ、・・あぁ、“ムック”のことです。」

「あぁ!ムックちゃんは深雪ちゃんって言うんだ。いっつも葉月くん以外はニックネームでしか聞いたことないから。」

レオだったら、そうだろう。心の中で詞は頷きながらも。ツキのことは葉月と呼んでいるのか、と不思議に思う。

「由香さんは、レオのことがどれくらい好きですか。」

パン屋の中は、昼ということもあって少々混んでいた。

「うん?何、急に。」

白いトレーに由香さんは慎重に一つ一つ説明を読みながら、パンを選んで乗せる。僕は初めから決めていたサンドイッチセットとチョコレートマフィンと、深雪にお土産であるクリームパンとあんぱんを一つずつ乗せていく。

「いえ、なんとなく気になったもので。“好き”という気持ちは自然発生的に現れるものですか?それとも、相手に会った瞬間にわかるものですか?」

大きさの割りにズッシリと甘くて真っ白なクリームが詰まっているクリームパンは深雪の大好物だ。それを食べているときの深雪は本当に幸せそうで、見ている僕まで幸せな気持ちになれる。

「どうしてそんなこと、あ!!もしかしてQ君。好きな子がいるんでしょう!」「べ、別に、そんなわけじゃ!!」

否定するほどなんとやら、とはよく言ったものだ。自分でも一体なぜこんなに必死に否定するのかわからないほど。

「あはは、Qくん。もし良かったらここのテラス席で一緒にお昼にしない?飲み物をご馳走するから。ちょっと相談に乗ってよ。」

「僕が、相談されるんですか?」

いたずらっ子のように笑う顔は、この間ニャースが見せてくれた写真集の子よりもよほど可愛らしい表情をしていた。


「私がね、初めて人を好きになったのは、小学校の二年生のときだったかなぁ。今でも、よく覚えてる。」「はぁ。」

風の心地いいテラス席で向かい合って座りながら、僕は運ばれてきたばかりのカフェ・ラテを口に運んだ。いつだったか深雪が友達とここに寄って飲んだことを話してくれた。ミルクの甘さとコーヒーが絶妙だととても幸せそうな顔をして教えてくれた。食べ物の話をしているときの深雪はとても幸せそうな表情をする。

「いとこのずーっと年上のお兄ちゃんだったんだけどね。ある日肩車をしてもらったの。すごく高くて楽しくてね。」

そうしたら、好きになっちゃったみたい。そう言って由香さんは笑った。その後の言葉が、しばらく待ったが返ってこない。

「・・そ、それだけ?あなたは、肩車をされて好きになったってことですか?」

詞が驚いたように戸惑いながら尋ねると、由香はまた少しだけおかしそうに笑った。

「うん。そう。でも、人を好きになるってそんなもんだよ。今まで自分が知らなかったことを知るから、面白くてドキドキするの。恋は落ちるものだからね。」

「・・今まで、知らなかったこと。」

由香さんは口元に笑みを残したままベーグルサンドをほお張った。おいしいね、と笑うとやはりとても美人だった。由香さんはあのレオを相手にできるくらいだから、たぶんとても大人なんだろうと思う。

「レオと喧嘩なんてしますか?」

「するよー。もちろん。疲れてたりするとお互いに余裕がなくなっちゃって。喧嘩する。この前なんて、テレビのリモコンを巡って取っ組み合いの喧嘩をしたんだから。」

微笑みを浮かべてどこかを懐かしそうに見ながら、由香さんはカラカラとジュースをかき回した。

「ほかには?どんな理由でどんな喧嘩をしますか?どうやって仲直りをしたんですか?」

「何?どうしたの?私と理央くんの喧嘩にそんなに興味があるの?」

「いえ・・そういうわけではないんですが。」

食べかけのサンドイッチを口に運んで止まる。食欲をそそるスパイシーな香りがする。普段は気にも留めないその匂いが鼻から離れない。

「よく、わからないんです。僕にとってどんな存在なのか。」

長い間、詞の世界には“他者”という存在がなかった。自分以外の誰かと心を通わせることなんて考えたことすらなかった。いつも感じていた人の気配は詞とは無関係な何の意味も持たない物だった。何を言われても心は動かないし、生まれても消えていく感情に名前なんてなかった。

そう、あの家に行くまでは、

「深雪もセンセーも僕に笑いかけてくれる。そのたびにどこかが温かくなる。」

一体これはどんな感情なんだろうか。僕の心に突然現れたこの感情は果たして正しいのかそうではないのか。

「けど、僕は何もわからなくて。」

ずっとずっと心から消えずに動き回って跳ね回って、どう扱えばいいのか、と困り果てて捨てようとしてけれど、なくそうとしてもまたひょっこりと現れる。

「ふーん。Qくんは随分と大変な哲学者なんだね。」

「そうじゃないんです。僕はわからないんです。だから、怖くてたまらないんです。」

いつか失ってしまうのかもしれない。それが怖くて仕方がない。失いたくないそう思えば思うほどどうしたらいいのかわからない柵から抜け出せない。

「深雪たちを失うのが、怖くて。」

由香さんはしばらく黙って瞳を深みのある優しい色で満たして僕を見つめていた。それはどこかセンセーに似ているようで僕は心がむず痒くなった。

「Qくんは・・まだ、道の途中なんだね。だいじょーぶだよ。誰もが必ず通る道だから。そんなに怖がらなくても、答えはちゃんと見つかるから。」

そう言った由香さんの言葉は難しくて僕には全くわからなかったけど、大丈夫だとこの人が言うならそうかもしれないと思った。


 「深雪にカフェ・オレが美味しかったと教えてあげるべきか。」

予定よりもすっかり遅くなってしまった帰り道。なんとなく秘密めいたことを作りたい誘惑を心の中で転がしながら手に持った深雪のお土産を見つめて、いつもの角を曲がる。

「・・お、や?」

ドクンドクン、心臓が嫌な汗をかいた。背中がぐっと熱くなってすぐにひどく冷たくなる。動きたくないと足が脳の指令に反して止まる。見慣れない制服の少女が家の前に立っている。誰かを探すように家の中をのぞいている。

(違う、あれは、あの子じゃない。違うんだ。)

必死に叫ぶ、けれどそれは声にならずにただただ息が喘ぐように漏れるだけだった。ひらひらと風に舞うスカートが僕の視界を留める。頭の中に浮かぶ、スカートと重なって耳を裂くような笑い声が響く。

(嫌だ。僕はもう、あそこには戻りたくない!!ここにいるんだ、僕はもう二度とあの場所には戻らない!!)

耳を塞いでしまおうと声をあげて叫ぼうと脳が指令を出そうとした。

「っ、」「あれ、Qちゃん。おでかけしてきたの?」

後ろからかけられた声に僕と家の前の少女がほぼ同時に反応して、一瞬だけ僕と彼女の目が合う。驚いたように見開かれた瞳の奥にほんの少し見知った色があったように見えたが、それを確かめる前に彼女は僕らとは反対のほうへと歩いていく。

「レオ、かい。」「あれって・・」

レオを振り返った僕と、僕の向こうを見たレオとではどうやっても視線は合わない。その間に僕は乱れた呼吸と感情を整えるために空を見上げた。

(雲行きが、怪しいな。)

今にも、雨が降り出しそうな空が嫌な予感をさせる。

「何もなきゃ、いいんだけど。」

僕の心を見透かしたようにレオが、薄く微笑んだ。


 結局、予定よりも遅くなったためスーパーにはまでは行けずに、方眼紙もチョコレートも買えなかった。仕方がないから、センセーにメールで頼むことにした。今朝、スーパーに寄ると言っていたのでついでに買ってきてくれないか、と。センセーから返信はない。いつもセンセーの返信は遅い。ここにきてかなりの日数が経つが、あの人が何の仕事をして普段どんな生活をしているのか僕は知らない。僕ら二人を養うことになっても突然教室を開いてもお金に困っているようには見えないからお金はあるらしい。やばい仕事ではないかとニャースが言っていたときもあったが今のところ警察がきたことはないのでたぶん真っ当な仕事をしているのだろう。

「そこに座っていてくれ。今、お茶を出すよ。」

「あぁ、何かごめんね。お気遣いなく。」

 玄関を入ってすぐの廊下から右に曲がるとF組の教室部屋があるが、今日はセンセーもいないしパンを持っていたのでそのまま真っ直ぐリビングに入った。一人かけの大きなソファにレオを座らせて詞は台所に向かう。クリームパンは冷蔵庫に入れるとクリームが硬くなってしまうので皿に載せてラップをしておく。

 初めてリビングに通されたレオはそわそわと落ち着きなく回りを見ている。

「F組の部屋のほうがよかったかい?」

「あ、いや。何かフツーの家みたいで。なんか、人ン家って落ち着かないんだよね。」

部屋に対して少し大きめのテレビや一人がけのソファも棚に飾られたグラスや食器や写真も。言われてみれば、何もかもが普通だった。

「あぁ、ここは人を通すからね。深雪の写真のほとんどはセンセーの部屋にもっとたくさんある。」

「え。何それ。本当に大丈夫なの、あの人。」

何の絵もかかれていないお茶を受け取りながら、レオは笑った。僕は朝のうちに深雪が作ってくれていた紅茶が入った耐熱ポットを机に置いた。お気に入りのグリーンのマグカップも一緒に並べる。大きくてつやつやしているカップは深雪とお揃いで買ったものだ。僕にはカエルが、深雪のイエローのカップにはハリネズミが描いてある。カップに汲んだ紅茶を僕はストレートで飲む。深雪は砂糖とミルクをたっぷり入れてミルクティーにして、センセーはレモンを絞ってレモンティーにする。僕ら3人は何もかもが違う。血もつながってない。だから、僕の好きなものは深雪が苦手なものでセンセーが好きなものは僕が苦手なものだ。コーヒーも僕はミルクしか入れないけれど深雪は砂糖も入れるし、センセーは何もいれずにブラックで飲む。

「それにしても、家族で旅行とか行くんだ。ちょー意外。」

部屋に飾ってある三人の写真を一つ一つ確かめるように見つめながら、レオが笑う。

「二人とも旅行が好きなんだ。特に深雪はああ見えて旅行が大好きでね。本屋で色々な旅行雑誌を立ち読みしては買ってくるんだ。」

「へぇー、意外。知らない土地とか人とか、ムック苦手そうなのに。」

「たぶん、僕のためでもあるんだろう。僕が狭い世界しか知らなかったから、二人はたくさんの物を僕にくれるよ。」

「へぇーやっぱセンセーってすごいんだね。」

レオはそう言うと何気なく笑ってみせた。レオの笑顔は本当に自然で柔らかい。

 「あ、おいしいね。このお茶。・・あぁ、そういえばムックの方は?その後何かあった?」

水を出しただけの麦茶を実に美味しそうに飲んだ後、レオは思い出したように深刻な顔をして尋ねてくる。

「“何も”ないよ。けど、気になることは確実にある。」

深雪は全く何もないと思っているけれど、それは単に深雪が気づいていないだけなんだと思う。

「さっきみたいに家の前に誰かがいたりって、よくあるの?」

ドンッと心臓と誰かの手が乱暴に叩いたように息が一瞬だけ止まったように感じられる。

「いや、そんなに多くはないと思う。僕が見たのは今日が初めてだ。」

今朝の夢が頭に浮かぶ。白い視界に響く笑い声。充満したのはツンとした薬品の匂い。

「けど、あるんでしょ?他にも。」

「いや、人の気配がしたりするくらいだ。」

詞は、レオから顔を逸らして深呼吸をする。

「なるほどね。全く厄介なことだ。」

「あぁ、本当だよ。」

何もかもが厄介すぎてため息が出る。いっそ何も知らずにあの部屋で一生を終えていた方が楽だったのかもしれないと思ったりもするけれど、そんな風に考えられることすらが嬉しくて愛おしい。

「Qちゃんさ、良い表情してるね。最近。」

「何だい、それはどういう意味だい?」

レオが囁くくらいの小声で呟いた言葉を詞の耳が拾う。机を挟んでいつもの距離よりも少し遠いのがなんだか心地良い。

「いやいや、特にないです。」

「・・あぁ、そういえばさっき由香さんに会ったよ。」

「えぇ!?由香ちゃんに!!」


 センセーと深雪が帰宅した後に、いつものようにF組の扉をセンセーが開けた。

「本当に本気でどうかと思うぞ、センセー」

ため息のような笑いを含んだレオの言葉にセンセーは返事をすることなく深雪に厳しい目を向けている。

「だからね、お兄ちゃん。あれは本当にただのクラスメートなんだってば。」

「ただのクラスメートの男子とお前は仲良く歩いて校門からどこに行くつもりだったんだ!?」

誰が見てもわかるくらいセンセーは混乱している。話を聞いているだけの僕でも深雪にとってその男子がただのクラスメートだとわかるというのに。一体どうしてこの男にはそれがわからないのかと、不思議に思う。

「あぁもういいから。バカは放っておいて、Qちゃん続き。この問題なんだけどね。」「こらこら、お前ら!俺の妹の一大事に何でそんなに薄情なんだよ!!おい、詞!!お前は深雪が心配じゃないのか!!」

煩わしい。最近、覚えたばかりの言葉が頭の中でエコーする。このまま放っておいても構わないが巻き込まれている深雪を救うことだけはしようとそちらを見る。

「一大事なのはセンセーの頭だけだ。深雪、いいからこっちに来るといい。」「で、でも」「だいじょーぶだから。そんな変態放っておけ。」「へ、変態だと!?おいこら、レオ!!お前!!」「あーうるさいうるさい。」

ぱたぱたと手を振ってセンセーを遠ざけようとするレオ。この二人は本当に仲がいい。センセーの気が逸れたのを見て慌てて詞のすぐ隣に座った深雪は小声でありがとう。と呟いた。

「ん?なんのことだい?」

「え、パンを買ってきてくれたのは、詞でしょ?」「あぁ、あれか。」

深雪の言葉は時々主語がなくなり、僕は解読に少々手間取る。

「そういえば、ムック。今日は下駄箱に異常なし?」

「あ、そうだった。それで春川と一緒に帰ろうとしていたんだ。」

ポンッと手を打ち何かを思い出す。これは深雪の何かを思い出したときの癖だ。クラスメートと一緒だったというのはセンセーの勝手な勘違いかと思いきやそうではなかったらしい。

「え、何かあったの?」

「うん、何かとまではいかないけど、今日学校の校門で私のことを聞いている人がいたんだって。」

「センセーじゃないのか?」「センセーじゃねぇの?」

レオと詞の答えが揃ったのを聞いて黒板にもたれていつの間にか静かになっていたセンセーが怒鳴る。しかし、深雪は至って真面目に首を振った。その質問をされた友人によると、どうやらその子は制服を着ていたらしい。と、いうことは他校の生徒らしい。

「念のため、一応聞いとくけど。ムックは他校に知り合いは?」

「レオとニャースとツキ以外はいないよ。」

「だよなぁ。他の学年にすら知り合いいないんだもんね。」

困った問題だ、と首を傾げながらも何事もなく今週が過ぎたことに安心する。

「まぁ、それはいいとして、今日はレオだけか?」

教室を見回して日誌を書いていたセンセーが口を開く。

「あぁ、そうだった。ツキは今日休むって。今朝鼻声の電話が俺ん家にきた。」

「鼻声の電話か。それはもう通信機器としての役割を果たせそうにないうえに、そのままお宅を訪問するなんて・・伝書鳩もびっくりだな、それは。」

「急に髪を短くしたせいだろう。きっと、」

「そうだねー、あんなに綺麗に伸びていたのに。」

「俺も綺麗に伸びてきたでしょ?」

レオはそう言うと自分の背中ほどまである髪を結んでいたゴムを解いた。ぱさりと銀色の髪が広がる。

「わー本当だ。ずいぶん伸びだね。切らないの?」

深雪はそう言ってレオの髪を撫でる。長い割りにつるつると髪質のいいレオの髪は深雪の指に優しく絡む。

「うーん、切ろうかとは思うんだけどねえ。ここまで伸びちゃうともったいないっていうか。」「そーか。それもそうだね。懐かしいなぁ、初めて会った時は金髪だったのにね。」

レオは気持ち良さそうにムックの手櫛を受けている。

「あーそうだったね。そういえば、あの頃はこんなに髪に拘ってなかったけどね。」

「髪じゃなくて、髪の色でしょ。でも、本当に今じゃ考えられないくらいツンツンしていたからね。レオは。」

「もうやめてよぉ。そんな昔の話は、恥ずかしいじゃーん。」

照れたように笑いながらレオが笑う。

「昔じゃないよ。一年前だもん。」「あれ?そんなもんだっけ?」

「けど、深雪もこれぐらい伸ばして欲しかったなぁ。お兄ちゃんとしては。」

話を聞いていたセンセーが、いつものように変態っぷりをアピールしながら近づいてきた。

「何で過去形なの。」

「だって、もう伸ばさないだろー?短い方が楽でいいって、深雪いっつも言ってるじゃん。」

「関係ないでしょ。別にぃ。」

深雪はセンセーと話しているときはまるで子供のような表情をする。どうでもいいことに腹を立ててみせたりする。

「あーでも、俺もムックの髪が長いの見てみたいかも。」

「もー、レオまで!」

三人で深雪のロングヘアーを想像してみる。けれど今の髪型のイメージが大きすぎて中々うまくいかない。そのうえなぜか、ニャースが髪を降ろした姿が出てきて三人で爆笑してしまう。

「何々?どうしたの?」「あははっ、だ、だめだ、ははっ」「ニャースめ、はははっ」

そういえば、忘れていたがニャースも髪はそこそこ長い方だった。普段、ツインテールにしているから、わかり辛いが降ろせば相当に長いかもしれない。

「もー!なんだよ、何でムックが短いんだよ。」

「本当に。男ばっかりが長いなんて間違ってるだろ!!お兄ちゃん断固拒否するぞ!!」

「あーもう、ニャースに腹が立ってきたぁ。にゃーすめぇ!!」

ぶーぶーと文句を言う二人を困ったような顔をして見つめながら、深雪はなんとかニャースという言葉を二人の会話から拾った。

「そういえば、ニャースは休みかな?」

「さぁ、どうだろうね。」

未だ不満を顔に貼り付けながらレオが携帯を開く。

「連絡はきてないけど・・あ、居残りじゃね?」

「あぁ、そういえば昨日、プチテストがあるとか言ってたねー」

「じゃあ、それだ。残されてるんだ、絶対。」

「そっか、でもツキの風邪は大丈夫かね。学校も休みだったの?」

「うん。そう、だから俺今日は一人ですっごく寂しかったのー」

一人で授業を受けて、一人でお弁当食べたんだよう。と言うレオに深雪は笑いながら返す。

「でも、それってレオが休みの日はツキがいっつも同じ思いをしてるってことでしょ?」

「まぁ、そうかもだけど。ツキはほら、友達いっぱいいるし。」

俺がいなくても平気だよ、レオの呟いた言葉からは何の感情も読み取れない。レオは少し笑いながら、そっとまた呟いた。

「それに、初めからきっと俺には期待してないんだよ。」

それは少し寂しそうで悲しそうな笑顔だった。それをセンセーは見つめていた。いつもよりも少しだけ瞳を優しい色で満たして。

「ま、ニャースにはもっと期待してないけどね!!」

「だめだよ、そんなこと言ったら。」

「だってさ、センセーもそう思うでしょ?」「まぁ、ねぇ。どんなに教えても成績が上がらないのは、俺としてもちょっと、なぁ。」

「ニャースだってがんばってるんだよ!」

ため息を吐いている二人に深雪がそう言った。

「にゃー!お前ら、にゃーの悪口言ってるにゃ!!」

ガタンとすごい勢いで扉が開いてニャースが入ってきた。

「いや、誰もお前の話はしてなかったわ。」「本当、びっくりするくらいニャースのこと忘れちゃってたわ。」

「にゃ、にゃんでそんな嘘言うニャ」

「いや、いや、嘘じゃないから。ごめんごめん、」

センセーとレオは真顔でそう言い、ニャースは半べそで深雪のそばの席を探して座る。

「ニャース、残されてたんでしょ。」「にゃー!!ムックだけにゃ、そう言ってくれるのは。にゃにゃ。大変だったのにゃ。」

深雪に近づけば近づくほどレオとセンセーも迫ってくる。その二人の攻撃から逃げるように手を左右に振って尚も話を続けようとする。

「ニャースの話は誰も聞いてないの。大変なのは、ニャースの頭だけで十分でしょ。」

「ニャー!!にゃーのツインテールのどこがそんなに気に入らないっていうにゃ!!」

「え。別にツインテールって意味じゃなかったんだが、」

「そうだよ、教えても一向に良くならない成績のことだったんだけど。」

「ニャー!!にゃーはレオに勉強を教わった覚えはないにゃ!!」

三人の争う声は、うるさいが耳障りではなく、楽しそうな笑い声は聞いているこちらまで不思議と笑顔になってくる。深雪もそう思っているのか、黙ったまま三人を見つめていた。

「あれ?そういにゃ、ツキは?」「あぁ、ツキは今日は風邪でお休みだよ。たぶん、昨日急に髪を短くしたせいだと思うんだけど。」

「にゃ。それだけで風邪だにゃんてツキは本当にへなちょこにゃ。」

にゃはは、なんてニャースが笑うとレオも楽しそうに笑う。

「うん、そうだね。ニャースはひきたくても風邪なんてひけないもんね。バカとゴキブリは風邪ひかないんでしょ?」

「にゃー!!どういう意味にゃ。にゃーはゴキブリじゃにゃーぞ!!この髪型だって触覚じゃないにゃ!!」

「いや、誰もニャースのことゴキブリだって言ってないからね。まさか、そっち否定されるなんて本当にびっくりしてるからね。」

「本当だな。せめてバカのほうを否定してほしかった。センセーは悲しいよ。」

「にゃーー!!!」

ニャースが勢いよく立ち上がるとそれに合わせてニャースのツインテールも一緒に跳ねる。それを見ながら楽しそうに体を揺らして笑うレオのポニーテールも揺れて、その度にキラキラと光を反射して光るレオの銀色の髪。

『他校の生徒ってこと?』

『さっきみたいに家の前に誰かがいたりって、よくあるの?』

レオの言葉がどこかにひっかかって、そう言ったときのレオの表情がほんの一瞬だけ何かおかしい気がした。

「どうしたの、詞?」

「いいや、きっとなんでもないんだ。」

「ん?どういう意味?」

くりくりとした深雪の大きな目が、僕の顔を覗き込んでいる。この瞳にずっと映っていたいのにどこか遠くに逃げ出したくなる。そんな不思議な感情を持て余しはじめたいつもと少し違う金曜日。

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