第3話 火曜日。ニャースの生まれた日。
火曜日。ニャースの生まれた日。
「ごめんね。光輝。今日は、お兄ちゃんに一日付いてあげなくちゃいけないの。光輝はいい子だから、一人でお留守番できるわね。」
え・・でも、今日は・・・
「いい子で待っていてね。冷蔵庫にご飯とおかずが入ってるから。」
・・大丈夫。ぼくはいい子だから・・・
「ごめんね。いい子にしててね。」
・・・お兄ちゃんの、ために?
「・・・にゃ。」
目を開ければ、見慣れた天井があった。黒と茶色のシミが人の顔のようにも、パンダのようにも見える天井。
「変な夢だったにゃ。・・嫌な夢にゃ。」
光輝の家は、普通のどこにでもいる4人家族だ。無口だけど優しい父がいて、怒ると怖い母がいて。そして、優秀な兄がいる。特に仲が良くもないが、いじめられることもなく仲が特別悪いわけでもない。
「・・おはよー・・母さん。」
リビングに声をかけたが、返事は無い。いつものことである。光輝の母は、パートをしているが、仕事の無い日は光輝の3つ年上の兄の家に行くのが習慣だ。昨年から、一人暮らしを始めたばかりの兄が母は心配でたまらないのだ。
「兄ちゃんは、天然ボケだからにゃー・・」
いつだったか、洗濯用洗剤と間違えて柔軟剤を入れていた。どうりで泡がたたないと思った。と笑いながら、今度はボディーソープを投入しようとしたのを見たときは、本当に一人で大丈夫かと光輝も心配になったくらいだった。
「・・・にゃ。」
‘光輝へ‘とだけ書かれた朝食とお昼のお弁当を見つめながら、思い出す。昔は、便箋に2枚ほどの手紙が付いていた朝食だったが、光輝が中学校になるとそれが、メモ一枚になり、今では付箋に名前が書いてあるだけだ。それでも、毎朝自分のために母が早く起きて、ご飯とお弁当をちゃんと作ってくれている。それだけでも、光輝は嬉しかった。
「・・仕方にゃーのにゃ。」
兄は、自分よりもずっと賢くて優しくて優秀で。だから、当たり前なんだ。だから、文句なんて、何もないんだ。
「さ。学校、行くニャ。」
これが、当たり前なんだから。
「ぐっともーにゃんぐ!!」
「おう、光輝。おはよー。」
光輝は家でだけではなく、学校でもどこでも猫語を使っている。たまに嫌がられたりもするが、基本的にはその明るい性格と懐こい笑顔のためクラスのムードメーカーである。
「そうだ、光輝!昨日のドラマ見た?」
「見たにゃ!!最高だったにゃぁ。」
「あぁ。あの女の子・・・あ!!」
「光輝、後ろ!!」
話していたクラスメートが光輝の後ろを見て目を点にする。それを見て後ろを振り向いた光輝の目に飛び込んできたのは
「にゃ・・ぶにゃ。」
まるでマンガか、小説のように派手な音と共に光輝の頭に野球ボールがヒット。ゆっくりと倒れた光輝は、本当にマンガのように完全に白目を向いてしまっていた。
「にゃー・・今日は、本当についてないにゃ。」
朝、ボールの直撃を食らった後も、今日の光輝は付いていなかったとしか言いようがなかった。体育の授業では、またしてもそして今度はバスケットボールが頭に直撃。授業中は転寝が見つかり宿題倍増。そして、帰り道では、すってんころりんころころりんと、土手を落ちた挙句、地面に向かって顔からスライディング。
「本当、ついてにゃー・・」
ため息と共に、ドアノブに手をかけたその時だった。光輝にまたしても、不幸がやってきた。
バァーン
「ぶにゃ。」「うわぁっ!」
勢いよく開けられた扉に頭を強打。本日2度目の意識不明の白目である。
「わぁあ!大丈夫?ニャース!しっかり!!」
『お母さん、見てみて。』
『ごめんね。光輝。今日は、お兄ちゃんに一日付いてあげなくちゃいけないの。光輝はいい子だから、一人でお留守番できるわね。』
『え・・でも、今日は・・・』
『本当に、ごめんね。いい子で待っていてね。冷蔵庫にご飯とおかずが入ってるから。』
・・大丈夫。ぼくはいい子だから・・お母さんに心配かけちゃ、だめなんだもん・・
『ごめんね。いい子にしててね。』
『うん。わかってるよ。いってらっしゃい。』
・・・お兄ちゃんの、ために?でも、お母さん。今日は、今日は、ぼくの
誕生日だよ。
「・・す、・・ニャース!!」
「う・・ん・・ムック?Q介?」
目が覚めたのは、いつもの教室。天井には見慣れてきた電灯がある。それから、大きな狸目の黒髪少女と大きな猫目の黒髪少年が俺の顔を覗き込んでいる。顔は、全然違うのに髪形だけはそっくり同じ少年と少女。
「あ、良かった。ニャース死んじゃったかと思った。」
「そんな、やめてよ。ムック、それ洒落にならないよ。」
「・・・え?」
「え?」
起き上がりながら、口を開くと2人は驚いたように絶句して、表情を硬くしたままのQちゃんが、光輝を見つめたまま、少し首をかしげた。
「すまない、ニャース。もう一度、喋ってみてくれるかい?」
「え?な、何を?」
久しぶりにQちゃんに名前を呼ばれ、驚く光輝をさらに驚いた顔をしたムックが見つめていた。
「にゃ、ニャース?だよね。」
「これは・・驚いたな。」
「え?何?俺、なんかした?」
絶句してしまったムックとQちゃんは、それ以上何も言わないので自然と光輝もそれきり黙る。その沈黙に耐えられなくなった頃、ちょうどよくレオとセンセーが教室に入ってきた。
「おはよーござーますでさー」
「オッハーセンセーってば今日も遅刻しちゃった。めんごー・・って何したの?お前たち真面目な顔して。」
挨拶もそこそこに席に付こうとするレオとセンセーに、ムックとQちゃんが助けを求めるような表情で駆け寄る。それを不審な気持ちで見つめながら、光輝も後に続いて挨拶を返す。
「おはよー・・」
途端に、レオとセンセーの表情もぎょっとした顔になる。
「え?な、何?また、俺?俺、なんかしたの?」
「え?・・え??」
「あー・・俺の耳壊れたかも。」
「あぁ、センセーのもだわ。これ絶対、耳の故障だ。そうじゃなければ・・もしかして、ドッキリ?」
「いや、センセーそれは違うでしょ。」
「カメラがないからね。」
「じゃぁ、じゃぁ、スパイが化けた偽者?」
「うん。その可能性も今、考えたけど、俺らをスパイする理由がない。」
「じゃぁ、じゃぁ・・」
全員が、変な顔で光輝を見る。耳が壊れたとはいったいどんな意味なのか。軽く首をかしげながら、光輝は全員を見る。
「・・いったい、何?何でみんな俺のことそんな・・」
「いやいや、それはセンセーたちのせりふな訳よ。ね。いったい何でお前、急に猫語がなくなってるの?」
「・・・・え?」
うんうんとセンセーの言葉に頷くみんな。そう言われれば、確かに。
「おはようございま・・・え?何、してるんですか、あんたら。」
教室内が少々、不思議な空気になり始めた中、教室に現れたのは冷静沈着クールビューティーであるツキ。
「お、おお。ちょうど良かった!ツキ!実はな、ニャースが大変なことに!!」
「大変?こいつの存在以上に大変なことですか?」
「か、軽く酷いが、今はそれどころじゃない!!」
「おい!ツキ!今のは、どういう意味だよ!」
勢いよく叫んだ光輝であったが、その言葉を聞いたツキは、とたんに眉を寄せて
「・・・は?」
「うおっ!!冷たい!!今までの誰の反応よりも冷たい!」
「さすが、ツキ。クールだ。」
レオとセンセーのやりとりを聞きながらも、光輝はツキの冷たい目から視線をそらせないでいた。猫語を話していないだけで、どうして俺はこんな目にあわなければならないのだろうと、折れそうな心を必死に励ましながら。
「いや。それにしても、語尾が普通なニャースは何か、人間みたいだな。」
「まぁ。確かに急に人っぽくなったような。」
「どういう意味だ!俺は、元から人間だっただろ!!」
席に座り、荷物を置いてとうとう光輝を視界にすら入れなくなったツキとレオが会話を始める。しかし、どんなに突っ込んでも猫語にはならない。
「・・俺さ、本当はニャースって猫に生まれるはずだったんじゃないかと思ってたんだよね。」
「なるほど、それが人類の神秘で人として生まれてしまったということか・・あり得るな。」
「どこがだよ!つか、それ、もう人類じゃなくて生命の神秘だろ!!」
「・・・。」「・・・・」
2人とも急に黙ると、今度はじっと光輝を見つめる。さっきの冷たい視線とは違い、何だか哀れんでいるような、どこか寂しそうな目をしている。
「な、何だよ。ツキもレオもそんな顔して。」
「やだー・・もう、今日のニャースつまんない。」
「本当だな。ニャースから猫語取っただけでこんなにつまんないとは。」
「おい、お前ら失礼だぞ!!」
ため息を吐いたツキは、いつもの窓際の端の席に戻ってしまったQちゃんとその後ろで本を読んでいるムックに視線を移す。さっきまでとは違う柔らかな笑みを口元に浮かべている。しかし、そんなことに気づかない光輝は椅子から立ち上がりツキの前に立ちふさがる。邪魔だ、とまた顔を背けたツキだが、光輝の向こうから声が聞こえてくる。
「それはつまり、もうニャースではない、ということだね。」
「え?・・あぁ、そっか。もう猫語じゃないから。」
ムックの声に光輝が振り向いた隙に、ツキはムックの隣の席に移動する。それに続いてレオもツキの前の席に移動した。
「じゃぁ、なんて呼ぶ?人間?」
「いやいや、それはいきなりすぎるでしょ。・・あれ、ニャースじゃなくなったニャース。本名は?」
「そういえば・・ニャースの名前って知らないかも。」
本当に考えこむ、ムックの姿にかなり傷つく。ムックだけは俺の名前を知っていてくれてると思ってたのに。それにしても、センセーまで知らないってのは、問題だろ!!
「嘘だろ。俺、前にちゃんと自己紹介したよ。」
「・・なんだっけ?猫介?」
「いや、違うな・・確か、おたまじゃなかったっか?」
それじゃぁ、本当に猫の名前だろう。そう思いながらも、なんだかもう突っ込むのも疲れてしまって黙っていると、ムックが笑う。
「違うよ、二人とも。ふざけるのはニャースに失礼だよ。」
「じゃぁ、ムックわかるの?」
「・・・・確かね、光って漢字が入ってたことは、覚えてる。」
それだけ。ムック、それだけ?俺はムックのフルネームを漢字で書けるのに。悲しみでまたも打ちひしがれそうになる。
「光?あー・・そんな感じするもんね。」
なんか、ぴかぴか光ってるもんね。なんて笑うツキの言葉にセンセーが、ポンと手をたたく。
「そういや、この前、‘光宙‘でピカチュウって読ませるって聞いたな。テレビだったか?」
センセーは言いながら、ホワイトボードに光宙と書く。それを見て全員がなるほどね。と頷いた。
「じゃぁ、それじゃないですか。本名、ピカチュウ。」
「それでニックネームがニャースって。じゃぁ、父ちゃんと母ちゃんは?ニドキングとニドクィーン?」
わははっと、楽しそうに笑う部屋中の面々を余所に、光輝はわなわなと拳を振るわせると怒りを込めて叫んだ。
「お前ら、ふざけすぎだろ!!俺は、こんなに困ってるのに!!」
途端、部屋中がシンと静まり返る。ゼェゼェと光輝の荒い息だけが聞こえる。しかし、右に左に首を傾げるとレオが口を開いた。
「・・え?何?ニャース困ってるの?」
「当たり前だろ。」
「どうして?むしろ、猫語がなくなって普通になったのに?」
「あとは、そのキモイツインテールがなくなれば、それなりに見えるぞ。」
「それなりって。・・・って、俺のツインテールのどこがキモイんだよ!!」
目の前にいるツキとレオがなんでか、今日は悪魔にも見える。俺は、普段どんなことを考えてこいつらと話していたんだっけ。
「・・・どこって・・」「言われても・・」
「まぁ、ほら・・あれだ。・・・全部?」
キャ、言っちゃった。と、口を押さえて女子高生のようなポーズをとるセンセーにため息を吐きながら。本当に酷すぎる。
「でも、本当に、そのツインテールと猫語がなくなればお前もそれなりに人に見えるんだぞ。」
「人に。じゃなくて、人だっての!!」
もう、本当に本気で怒鳴りそうになるのを光輝が必死にこらえていると、すぐ脇から冷静な声でQちゃんとムックが話を戻す。
「でも、本当にどうやったら戻るんだろうね。」
「今日一日の行動を思い出してみて、いつから猫語がなかったのか。」
「朝は?」
「あった。・・たぶん、ここに入るちょっと前・・・から。」「あぁ。恐らくあの時だろう。深雪が扉を勢い良く開けたあの時だ。」
一寸、考えるように目を伏せたムックは、すぐに思い出したようにさっきまで手に持っていた氷袋を机から取り出す。
「そっか!!ニャースにあの時、ぶつけちゃったんだ!!」
「そういわれれば・・そうだったかも・・・」
そういえば、と頭に手を当てるとズキンと痛む箇所は、どうやら瘤になっているようだった。
「え・・じゃぁ、もう一回強い衝撃を与えればいいってこと?」
と、言いつつ、手がグーなツキはどこか楽しそうにも見えるのはどういうことか。
「あぁ、恐らく。それ以外の理由は思いつかない。」
Qちゃんが言ってる間にも徐々に距離を縮めてくるツキから逃れながら、光輝は必死に考えをめぐらせる。
「・・ま、待って。待って!!あ、ムック!ムックにして!!」
「え?私?何で?」
「だだ、だって、ムックが元々の原因なんだから、解決するのもムックの方がいいでしょ?」
「うーん・・・うん・・わかった。いいよ。」
ほっと胸を撫で下ろす光輝とは対照的に、ツキは至極残念そうに拳を下ろす。光輝との差は僅か机一つ分だった。ムックならば、そんなに痛くないだろう。と思っている光輝の目に、なぜかQちゃんが持っていた分厚い辞書がムックに渡されている光景が。
「・・え、ムック。何で?」
「よし!こい!ムック!」「やってしまえ!!」
逃げようとした両脇をがっしりとレオとセンセーに押さえられた光輝は、逃げようにも動けない。その間にも、ムックはツキとQちゃんとアイコンタクトを交わす。
「では。・・・ニャース!覚悟!!」
「は?ちょっ、それぐふっ!!」
セリフが違うくないですか。そう思ったもののその言葉は、声になる前に落ちてきた歴史人物辞典に吸い込まれて消えた。
『光輝。この前は兄ちゃんのせいでごめんな。』
『いいんだ。お兄ちゃんのほうが大変だったでしょう』
ぼくよりもずっと背の高いお兄ちゃんを見上げて笑う。
『何言ってるんだよ。誕生日だったじゃないか。なんでちゃんと言わないんだよ。』
『でも・・だって・・お母さんは・・お兄ちゃんが・・・』
一体、何をちゃんと言えというのだろう。あんなに大きくカレンダーに丸を書いていたのに。それだって見えないお母さんに一体何を言えば伝わるんだろう。
『ちゃんと言ってくれよ。光輝・・お兄ちゃんもお母さんもお父さんも・・みんな、光輝のこと大事で大好きなんだから。そんなこと・・言うなよ・・。』
言って欲しいのに、言うなって。お兄ちゃんの言うことはやっぱり難しい。だけど、抱きしめられた腕の中。次々溢れる涙は、口に入るとしょっぱかった。
『・・ぼくも。みんなが、好き。お兄ちゃんも、大好き。』
文句なんてないし、仕方もない。だって、そうなんだ。
僕は、家族みんなが、とっても大好きなんだから。
「おーい。ニャース?もしかして、本当に死んだ?」
「おいおい、ムック。どんだけニャースに強い殺意を抱いてたんだ。」
「え?私?!」
「そうに決まってるだろう。直接、手を下したのは、お前だ!!」
「うん、本当にね。ニャースの頭に垂直に手、降りてたもんね。」
「そ、そんな・・だって、それは・・」
声が、聞こえた。
「う・・・うぅ・・」
目が覚めたのは、まだ見慣れないけど見慣れてきた天井。蛍光灯の光の反射が眩しい金髪と女みたいに綺麗な顔が、遠くで俺を見ている。
「あ・・目、覚ました。大丈夫か?ニャース?」
「頭が、痛い・・にゃ。」
「!!」「!!」
声を出した途端にすぐ近くにいたオレンジヘアーのポニーテールが、驚いたように俺を見て・・あれ、デジャビュ?
「おお!!おかえり!ニャース!」
「全く心配かけやがって」
「にゃにゃ?一体、何がどうにゃって・・」
起き上がって辺りを見回した。
「ようやく、お目覚めってわけだ。家の猫は・・」
「?何か、みんなの目が優しいにゃけど・・?」
よくわかにゃいけど、みんな大好き!なんて近くにいたムックに抱きついたら、また辞書が飛んできた。
「にゃ!ツキ!何すんにゃ!」
「いや、やっぱり元に戻さなかった方が良かったかと思って。もう一回強い衝撃を・・」
そう言いながら、またしても辞書を持ち上げはじめたツキから逃げるように、光輝が立ち上がる。その背中に向かってセンセーが大声で告げる。
「ほらほら、ニャースが元に戻ったから、授業始めるぞー・・」
いつもと何かが違う火曜日だったけど、何ともみんなの愛を感じることができたような・・。
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