第21話「それは絶対お前がおかしい」

 いつの間にか太陽は傾きかけていて、その部屋に差し込む光線は随分と色を持つようになった。

 雲の切れ間から覗くその光がほのかに揺れるカーテンの隙間からちらほらとのぞいて見えて、とても幻想的だ。


「——ちょっと待ってて」


 若葉からその言葉を残されてからまだ三十分ほどだろう。

 懐かしの邂逅にお互いが想いを馳せつつ、そして僕自身その可愛さの方向への変貌を遂げた驚きによる緊張感を勝手に感じながら、そして現在状況は生徒会室のまま。変わらず僕も彼女もそこにいた。

 先ほど手に取った眼鏡はそのツルが開かれた状態のまま、紙の上に無造作に置かれている。


 あの後。

 彼女はすぐに自身の体勢を元の机の位置へと戻し、そして背筋を伸ばして仕事を再開した。

 切り替えがとても早いらしくで、もう完全に集中の海に沈みきっているのだろう。

 机上の散乱した書類とすごい勢いで走らせているペンの二つにのみ深くその視線は注がれていて、だから間違いなく彼女の関節視野には何も写っていない。

 一心不乱。

 意識を一点に集中させていることがこうやって傍目から見ているだけで十二分にわかった。

 僕はといえば特にこの後に用事があるわけもなく、つまり彼女から出た待機命令に逆らう理由も、このクーラーの効いた部屋を出て行く理由も、当然のように存在しなかったわけなので。

 だから現在、部屋の壁際にあった大きめのソファに腰掛けた僕は、こうして適当に立ててあった本を一冊手に取って、適当なページを流し見するだけの作業を行うことで時間を殺していた。

 海斗はこの部屋にはいない。

 ドアの向こうにも気配はない。

 実際数度声をかけてみたが返事はなく、どうやら僕をここまで連れてきた後にそのまますぐに帰ってしまったようだった。


 ……暇だ。


 頰杖をつきながら、視線を固定。そのままページを無心でめくる。

 一枚。

 一枚。

 特に無感情のまま、活字に目を走らせていく。辿って行く。

 大体その枚数が大体三十枚ほどに達して、そしてどうやらこれが小説の類であることになんとなく気づいた頃。


「……ふう」


 小さな息の音がかすかに耳に届いた。

 僕は視線をその音の発生源。彼女の座る机に向ける。

 深く椅子に腰掛けた若葉は、残り机上にあった大量の紙類をかき分けその中へとしまいこむ。そして最後、かき分けた先にあった二、三枚の書類に走り書きでサインを施してそれをカバンの中に突っ込むと、そのまま席を立った。


「もう終わったのか?」


「え? あ、ああ。うん。一応……今日はこれで終わりかな。残りは明日に回すわ」


「なんだ。まだ仕事残ってるのか」


「うん。もちろん。引き継ぎ資料だってまだ書ききってないし、プールの利用申請書だって明日提出しなくちゃいけないやつだしね。それに新学期までにやっておきたいことあるから」


「……何だか、普通に大変そうだな」


「別に、そんなことないわ。私が勝手にやってることだから」


「そか」


「……うん」


 言葉が切れて会話が落ちる。

 しかし先とは違って、そこに変な気まずさはなかった。

 それはきっと、もう僕が慣れたからだろう。

 彼女の変化にも、時間の空白にも——そして記憶の還元にも。

 いい加減に慣れて、そしてそれが記憶として定着できたからだろう。

 若葉が鞄を持って椅子をしまった。


「……じゃあ」


 そのまま、肩にそれをかける。眼鏡はいつの間にか彼女の顔にかけてあった。


「——一緒に帰ろ?」


 僕は当然頷いた。



*****



「いつ、帰ってきたの?」 


 帰り道。

 ちょうど、校門を抜けたところ。

 隣をゆっくりとしたスピードで歩きながら、若葉は言葉を僕にかけた。


「んー。ちょっと前」


「昨日とか?」


「いんや。全然今日だぞ。今から……大体八時間前ぐらいだな」


「なんだ。本当についさっきだったのね」


「まあな」


「連絡の一つでもくれれば迎えにでも行ったのに」


「……まあ、それは確かにそうだな。すまん。でも、僕としてもなかなかにいきなりだったんだぜ?」


 忘れてた事実をごまかすようにそう誤って見せて、そして僕は母から送られてきたメール画面を開いて見せる。

 それを見てすぐに若葉は笑った。


「ふふ。奏さんらしいわね」


「息子としてはもう少し穏やかになってほしいものだけどな」


「そう? 私は奏さんって、今のままでも十分に魅力的な人だと思うけど」


「別に人のお袋だからって変に持ち上げなくてもいいぞ」


「なんでこんなことでおべっかを言うのよ。嘘じゃないわ。本当よ」


「…………はあ」


「あー。信じてない顔だー」


「……いや、だってな。あのお袋だぞ?」


 少なくとも僕が十九年生きてきた中、あんな暴虐武人が服着て歩いているような奇人に魅力を感じたことは、間違いなくほとんど見当たらない。

 今朝方だって、久方ぶりに帰った息子に向かってそれはもうほとんど自殺したくなるほどに痛烈な罵詈雑言を浴びさせてきたんだぜ?

 絶対あいつ感情死んでるよ。あれはもはや人間じゃねえや。

 そんな愚痴のような言葉を割と本気に述べた僕に少しの笑顔でその言葉を受け入れた若葉は、そのまま歩きつつ口を開く。


「きっとそれは希が実の息子だからそう思うのよ。側から見たらあんな格好いい女性はなかなかいないわ」


「……かっこいい、ねぇ」


「ああいうナチュナルにかっこいい人って、やっぱり女子としては憧れちゃうもの。私、あの人に憧れちゃったせいで毎週ココアシガレットを買ってるし」


「それは絶対お前がおかしい」


 いや、気持ちはわかるけどね。

 タバコ吸ってる姿は……まあ確かに格好いいと思うし。

 それに憧れてしまう思春期の衝動に心当たりはなくもない。


 てか、ココアシガレットって……。

 小五か。


「まあそんなお菓子のことはどうでもいいじゃないのよ。やっぱりタバコじゃないと雰囲気は出ないわ」


「雰囲気、ね」


「言っとくけど私、二十歳越えたら絶対タバコ始めるから」


「それは……まあ別にいいけども。僕にそれを止める権限はないわけだし」


「奏さんと同じ、だから……とりあえず毎日一箱がとりあえずの目標にするわ。今から楽しみね〜」


「……止める権限、ほしいなぁ」

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