第2話 ……乗る船、間違えたか。
この島に来るのも随分と久々だ。
子供の頃なんかはほとんど毎年夏の季節にはここに訪れていたわけであるから、その感覚はきっと正しいだろう。
別段複雑でもない家族事情のくせに、ただ両親の性格が複雑怪奇だっただけのせいで、こうして毎夏わざわざ母親に会いにこの島へ来訪していた記憶を探し当てつつ、僕は船と陸地を板で結んだ橋を歩く。コンクリートで固められている停泊所に一歩一歩足をつける。
太陽光に当てられた地面は暑そうに揺らめいている。
ミミズが一匹死んでいて。
遠くを見れば三匹死んでいた。
それらが否応にも季節が夏であるということ。
そして空に雲ひとつない晴れが広がっていることをうかがわせる。
キャリーバックを少し持ち上げて段差を乗り越えた。
波によって不安定に足元が揺れないことに少しの違和感を覚えながら、僕は前を見る。
視界へ一番に入ってくるその大きな山は島の中腹部にあって、その存在感は否応なく大きい。
当たり前にそこには大きな木がそびえ立っていて、都内に住んでいることを起因とした自然への実感が少しだけ胸に抱かれた。
その山の前に陣取っている大きな施設は、おそらく島唯一の学校で、大きな時計台と、そして光に反射した窓が目立って見える。
そんなマクロ的視点とは反対に、次はこの停泊所の隣にある漁港らしき場所に目を移す。
本日の漁は既に終わっているようで、波に揺れ動く漁船に人の姿はなく、港には釣りを楽しむ老人と、麦わら帽子を被った少女の一人ずつしか見えない。
少女は……だいたい俺と同じぐらいの歳だろうか。
彼らが座っている防波堤はこの停泊所からは少し離れているのでその姿をしっかりと確認することはできないが、それでも彼の背格好が僕よりも下であることと、そしてそれが女の子であることはなんとなくわかった。
僕は改めて視線を前に戻し、止めていた足を動かす。
……にしても。
僕は思う。
キャリーケースを引きずりながら、ふと思う。
……ここは、どこだ。
ようやく、現実を見た僕は思考を再開させる。
はてさて、と。
今の所この光景の一個も見覚えがないんだが……うん。これはいったいどうしたことだ。
確かに俺は子供の頃にこの島に来たことがあるわけで、それは間違いのないことだとは思うのだけれど、しかし絵の前の光景からは全くと言っていいほどのノスタルジーを感じなかった。
乗る船、間違えた……とか?
不安を元に、島の停泊所に立てかけられている島の名前と、そして母から送られてきていたメール本文を照らし合わせるため、ケータイを開く。
『朗報です。母は大学初めての夏休みでさぞ暇で暇で死にそうな思いをしている愛しの愚息を思ってお前のためにチケットを用意しました。さっさと荷物をまとめてこちらにくるように。ちなみに八月までに来なければ学費と仕送りの支給を止めるのでそのつもりで』
まったく朗報ではないし、これ届いたの一昨日だし、今日七月三十一日だし、なんなら最後の文でそれはもうほとんど脅迫状と言って差し支えのないレベルにまで成り果ててしまっている——そんなメールをスクロールで流し見て、添付されているチケットを開く。切符の目的地を確認する。
どうやら船はあっているらしい。
先ほど確認した島の名前と同じ名前がそこにはあった。
ほう。
では一体この記憶違いはどういうことだ。
記憶喪失はどういうことだ。
確かに当時、ここには何度だって来ていたはずで。
来訪していたわけで。
連れてかれていたわけで。
毎回に。
毎年に。
毎夏に。
確かに僕は——この島に来ていたはずなのに。
目の前の光景が僕の記憶になんの刺激ももたらすことはなく、ただ今まで見てきた多くの季節と同様『知らない街』としてのタグ付けを終えて、脳の引き出しの一つに適当にしまいこまれてしまう。
畳まれることもせず、分類されることもせず。
ただ……他のものと同じように。なんのか無い光景として処理されるように。
一記憶としてインプットを終えてしまう。
どうしてか、そんな記憶処理に強い抵抗感を感じつつ、意味不明な不安を抱えつつ、僕は足を止めることなく前に進ませながら島の周囲を見渡した。
再び、
遠くに目を凝らした。
「…………」
動きのない静かな港。
視界が邪魔されることも、動かされることもない。
とても自由で、穏やかな場所。
聞こえる音は波のさざめきだけで、人工的な雑音は会話ひとつだって聞こえない。
海特有の潮の匂いはほのかにだけ漂っていて、鼻につくことも全くなく暖かな太陽から降り注ぐその光がその匂いをより醸成しているのか、空気はとても温もりも含んでいて、無意識に深く息を吸ってしまうほどである。
五感を使って空気を感じ、街を感じ、夏を感じ、島を感じ。
しかし、残念ながら新しく記憶が呼び起こされることもなく、その感覚値もただ『新しいフォルダー』の一つとして新規保存されただけで終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます